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盗賊のねぐらと手品師の酔狂

 ひざまずいたまま、目を開ける。

 足元を見ると、潰れたクロスグリのような、濃い赤紫色の痕がある。点々と、それは階段の下の方まで続いている。

 これは、血の痕か?血を流したまま、誰かが下の方から登ってきたのか?

 だがその痕は、ここで途切れている。ここより上の階段、つまり、おれが通ってきた階段には、続いていない。

 ここで止血をおこなったのだろうか?清潔な水のある場所というのは、そういう処置をおこなう場所として悪くない。

 あるいは、ここの水が、傷を癒やす効能を持っている、とか。

 それとも、おれが見逃している道があって、血の痕は、そちらに続いているのだろうか。

 確かめたい。

 立ち上がり、像のある方へ上がる。その段には、像と草むらと花と靴、そして、背後に大きな岩があるだけだ。登れるか?これは、怪我をした人間が容易に登れる岩じゃない。健康な人間が、ボルダリングで登るような岩だ。それとも、なにか通過するためのギミックがあるのだろうか?ロープやはしごか、あるいは、なにか入り口が隠されているか。


 おれは外套を被り直す。

 ぱっと見たところ、変わったところはなにもない。いや、足元の、地面の下に空洞がある。人が通れるくらいの大きさの。

 ここが入り口か?いったいどうやって通るんだ?いちいち地面を掘り、また埋め直しているのか?

 なにか偽装のためのギミックがあるのか?

 それとも、岩が動く、とか?

 だが、馬鹿正直に、この入口を通る必要はない。この先になにか空間があるのなら、このまま岩の中を通り抜ければいい。

 岩に手を埋める。そのまま、岩の中へ、歩いていく。

 奇妙な感覚だ。こんなことができるなんて。だが、心躍るものがあるのは、確かだ。

 少し歩くと、開けた空間に出る。


 外套から外を見る。

 洞窟だ。天然の洞窟か、人工のものか、わからないが、壁に付いたコケが光っているおかげで、あたりはほの明るい。

 風が入り込んでいる。頬を撫でる感覚と、風音が聞こえる。

 そして見えにくいが、足元の地面に血の痕がある。それは点々と続き、洞窟の奥の方に続いている。

 外套を上げ下げして、交互に、視界を確かめる。

 洞窟の奥へ続いていく道の途中に、ぼんやりと太陽の光が差している。

 壁の向こう、洞窟の奥に、人がいる。正確には、人の形を成した光が見える。数は6人。2人は、地面に横たわり、2人はそれを介抱し、残りは力なく座り込んでいる。


 わかったことが、ふたつある。この壁の向こうの連中は、先程の踊り場では、傷の処置をしなかったし、あの水にも、傷を癒やすような効果はなかった。

 逃げ隠れただけだ。この洞窟の中に。


 こんな洞窟に身を潜める連中は、どんな連中だろうか?

 信仰のために石像を作るような、文明の時代にあって、このような場所に自らの居場所を求めなくてはいけなかった者とは、何者だろうか?

 王侯貴族がこんな場所に住むだろうか?名声に満ち、人々から祝福された人間がこのような場所に住むだろうか?


 住みはしない。

 盗賊か、行くあてのない放浪者か。こういう場所にはいつも、社会から追いやられた連中が住むものだ。フラメンコを作りだした連中が、そうであったように。

 そして、さきほどから風の音に混じりながら聞こえるこの音は、ただの風の音じゃない。

 これは、呻き声だ。呼吸自体が困難になってきている、そういう種類の声。そしてなだめるように話しかける低い男の声。優しさと、無力さをにじませた声。

 奥の部屋に着く前に、分かれ道がある。

 左手に開口部、外への出入り口がある。そこから風は吹き込んでくる。開口部の方は横に広く、外は崖になっている。せり出した樹木と、森が見える。そして、右手側の奥まった方に、部屋がある。そこから呻き声は聞こえてくる。

 おれは進み、部屋の手前で止まる。外套に身をうずめ、壁に張り付いて、部屋の中を窺う。


 ……実に、盗賊染みている。薄汚れ、血にまみれている。典型的なあらくれ者どもだ。

 カバンの留め金に手が触れる。

 カバンには、ポーションがある。この中に1本ぐらいは、回復薬があるかもしれない。

 助けるべきだろうか?

 この、おそらくは、道に外れたことをして傷ついた連中を。

 なんの義理があるというのか?だいたい、言葉が通じるかもわからないのに。


「無様なもんだな」


 ぽつりと、つぶやくようにひとりの男が言った。その言葉が、日本語でないのはわかった。だがその言葉は、日本語として意味をなして、おれの頭に入ってきた。それは水が馴染むように自然な感覚だった。


「ああ?なんつった?てめえ」


 もうひとりが、男に食ってかかる。


「……無様なもんだなって言ったんだよ」


 凄むように低い声で男は言った。

 無言で、もう一方の男は胸ぐらを掴んだ。


「やめろ」


 髪の長い男が言った。


「なんになる、そんなことをしたところで」


 髪の長い男は、水に浸した手ぬぐいを絞った。

 横たわる男の汗を拭き、丸めた布を体の下に差し込んだ。


「寒いか?」


 髪の長い男は、横たわる男に話しかける。だが、うわごとのような言葉しか、横たわった男は返さない。それは、おれの翻訳機能が作動していないのか、それとも本当に意味のないうわごとに過ぎないのか、おれにはわからなかった。

 だがそのうわごとの連続の中で、一言だけ、流れていく音が言葉として意味を成した。


「母さん」


 ああ、母さん。絞り出すような声で、地面に横たわった男は確かにそういった。


 ――心臓が跳ねた。


 血が、巡っているのだ。この男たちも、おれも。


「…っ馬鹿が」


 男は、胸ぐらを掴んだ手を降ろし、吐き捨てるように言った。

 男の顔をよぎった、涙をこらえるような、なんとも言えない表情が残像のように目の奥に残った。


 ……可能性はあるのだ。この連中を救える可能性は。


 だがどうする?突然出ていって、ポーションを差し出すのか?どうぞ、使ってくださいってな具合に。

 おかしすぎる。おれは何者なんだ。

 不自然すぎる。


 思わず、鼻息が漏れた。


 ……おれは、なにを恐れているんだ?

 自分がおかしな人間だと思われないか、そんなことを気にしているのか?

 救えるかもしれない命を前にして。

 なにが大事なんだ?人の命か、己の体面か。

 手を、握りしめる。

 おれは、外套を目深に被り、その場を離れる。


 ◆


 小刻みに、盗賊部屋の中の棚が揺れる。その揺れは徐々に大きくなっていく。


「なんだ!?地震か!?」


 取り落とされていく、棚の食器や道具、ひとつひとつが。

 壁に並びかけられた仮面が、順番に音を立てる。


「いや、おかしい。これは……」


 壁の隙間、部屋の暗がりのあちこちで、手を叩きつけたような音が鳴る。


 男たちが鋭く息を飲む。


 ラップ音の間隔は、徐々に狭まっていく。目には見えず、近づいていく。男たちの、すぐそばまで。


 男のひとりが、鞘を持ち、抜刀の構えをとる。


 音の発生源は、テーブルにその居場所を定める。

 何かを催促するかのように、乾いた打撃音は連続する。最後に一際大きい音を立てて、その音は止まった。


 テーブルの上には、一枚の布がある。刀の手入れに使うような、使い古しのボロ布。その布には、拭き取った血がこびりついていた。


 テーブルの上のボロ切れが、泡が浮くように、下から持ち上げられる。布は柔らかく、下にあるものの形がよく分かる。ゆっくりと、浮かび上がって形を成したそれは、人の手形だった。


 その瞬間、恐怖に耐えかねたように、男は剣を抜き放ち、テーブルの上に叩きつけた。


 激しい衝撃音のあと、半ばまで断ち切られたボロ切れは地面の上に落ちた。


 男は、激しく息をしていた。断ち切られたボロ切れの隙間から、床の土の地肌だけがのぞいていた。


 誰も、何も言わなかった。


「お、おい」


 沈黙を破るように、ひとりの男が声を上げる。


 衣擦れの音とともに、ボロ切れが、なにかに引きずられていく。

 それは緩やかに蛇行しながら床を這い、壁にたどり着く。

 それは壁にかけられた仮面の真下。

 そろりそろりと布は壁を登り、やがて壁にかけられた仮面に辿り着く。

 躊躇するように立ち止まるとそれは仮面の裏側に潜り込んだ。


 仮面の、虚空の双眸の奥から、誰かがこちらを見ていた。


「ひっ」


 誰かが声をあげた。

 誰よりも速く、剣士が動く。男は一歩、大きく踏み込み、すくい上げるようにして仮面を跳ね飛ばす。仮面は天井にぶち当たり、部屋の入口の方へ転がる。勢いのままそれは数回回転し、やがて動かなくなった。


 仮面の裏には何もなく、時間の進みが遅くなったような、緊張の時間が流れる。 


 洞窟の中で、靴の音が響く。それは、仮面の置かれた場所の先から、聞こえてくる。誰かが、近づいてくる。


 ◆


 ーー決めたことがある。

 取り繕って、自分を安全なものに見せかけようなんて、そんなことは、無理だ。


 おれは盗賊部屋の入り口へ歩み進む。


 ーーだが、煙に巻いて、怪しげなものとして、自分を見せつけることはできる。


 床に落ちた仮面を見る。それはさきほどの剣戟によって、切れ込みを入れられている。


 ーーそれが人の道を外れた振る舞いだろうと、かまいやしない。

 手品師のような、とびっきりの虚仮おどしと酔狂だけが、自分を前へ進ませてくれる。


 視線を感じる。部屋の中の者たちが自分を見ている。


 ーーだから、おれは、こういう風にする。


 仮面を拾い上げて、おれは言う。


「やあ、お困りのようじゃないか?」

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