序章
序章
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血の匂い。
それは俺の身体を横たえられたポットが作り出す錯覚に過ぎない。
実際は誰一人、この場で血を流してなんかいない。人間も、モンスターも。
すべてはデータ。1と0で構成された、ただのまやかし。
けれど。
命を散らしていることは紛れもない事実で、この一年半俺はここ以外の『現実』など知らなくて、俺の世界はここにしかないのだから。
さめない夢は現実と同じだ。
いや、さめて初めて、それは現実ではなかったことになるだけだ。
夢の中で、夢であることを気づかないのが普通なら。
現実だと思っている場所が夢でない保証などどこにも在りはしない。
全ては等価だ。さめるまで、どこだって紛れもない現実なのだ。
俺は左右の手に一振りずつ手にした剣を握りしめる。細い街路の正面に、そいつはいた。
鎧を纏う骸骨。そいつは特殊でも何でも無い、ただのモンスター。俺たち人間が、プレイヤーが、狩るべき敵。
外で遭遇したこともある。
街は怒号や悲鳴に溢れていた。ご丁寧にNPCまでが逃げ纏う。そんな声が遠く聞こえていた。
本来、街の中にモンスターは現れない。そういう『仕様』だった。加えて、この区域に出るモンスターより高いレベルだった。冷静にみて勝てないプレイヤーもいたことだろう。パニックに包まれた街で、俺は一年ぶりくらいに、人が死んでいくのを見た。
振り下ろされる骸骨の剣をはじき返すように打ち返す。ぶつかる瞬間に装備を破棄し、弾かれモーションをキャンセル。即座に次の剣を装備し斬りかかる。わずかに削れた相手のHPゲージ。続いて斬りかかるが、これは相手の剣に阻まれる。振り下ろした勢いのまま剣を破棄し、しゃがみ込んだ姿勢から跳ね上がるバネで、次の剣を用いて切り上げる。
一秒が刻まれた時間の中で、剣戟だけが響き渡る。
一閃二閃三閃四閃、響く度に俺の足下には剣が転がる。弾かれ、防がれ、打ち合い、切り裂く。そのたびに出る無駄な動きをキャンセルするために、俺は剣をおとし続ける。
オートとマニュアルを切り替え続ける小手先の戦法。優れた技術を持たない俺の、死なないための戦い方。
右手の剣が弾かれて落ちる。左手の剣で切りつける、振り抜いた勢いで回転し、持ち替えた右手の剣で裂く。剣と骨が当たる音、絶えず衝撃に振動する手。一瞬の遅れが死を引き寄せる。だから俺は、奴は、ひたすら打ちつづける。命を削り合う。
俺の与えるダメージは少ない。守るための攻撃であって、積極的な攻勢ではないこともある。効率など望むべくもない、安全を重視しすぎた戦闘スタンス。相手のHPを、剣の耐久を、地味に削り続ける。次々に剣を変えていく俺と違い、一本しか持たない骸骨の刃が欠け攻撃力が落ち始めても、俺はまだ打ち合いを続ける。安全マージンを言い訳にした、チキンプレイ。俺の足下に転がる剣の本数が、度胸のなさだ。
二本の剣で骸骨の剣を打ち返す。のけぞりモーション。俺は右手の剣だけをその剥き出しのあばらに薙ぐ。まともなプレイヤーなら、今のは全力で攻撃にでる場面だった。それをしりながら、俺は相手の動作が想定より速い事を恐れて左手を自由なままにした。結果、骸骨はまだ倒れず、ダメージを負いつつも俺に向けて剣を振るう。
上級プレイヤーなら鼻で笑うような、非効率的で貧弱なプレイング。けれど、この臆病さが、レベルも技術も凡庸な俺を、今日まで生かし続けてきた。
「これで、終わりだ」
最小までへらされたHPを、削りきる。骸骨のモンスターは膝を折り、やがて消滅した。もう何体目だろうか。街に入り込んだモンスターは、大分減少したように思う。
俺は散らばった剣を拾い、大通りの方へ向かう。誰とも会わない。けれど、徐々に声がおおきくっていく。戦闘の音、或いは悲鳴。
そして、街の中心となる広場へ出た時。
俺は見た。
そして聞いた。世界の終わる音を。
どうして忘れていたんだろう。
ここは、この『現実』は――。
ドラゴンの嘶き。初めて見る、大型のモンスター。本来街はおろか、フィールドにすらいない、ボスモンスター。
その爪で、牙で、尻尾で、HPを削りきられ消えていくプレイヤーたち。
そうだ。
突然閉じ込められて、攻略を強いられて、その日からずっと。
ここは、この世界は、戦うことでしか生きられなかったのだ。
「ああ……」
誰かに攻略を期待して。ただ強を生き延びることを繰り返した日々。それはこの世界に来る前、なんとなく学校へ通っていた頃と同じで。
俺はすっかりそれになれきって。
だけど、そんなものは。
人よりもずっと頑丈な街さえ、一部破壊されていく。NPCとプレイヤーの区別無く、人間が壊されていく。
ぎろり、とドラゴンの目が俺に向いた。周囲の人間を屠った牙が光る。
「あ、あああああああああああああああああああ!」
俺は駆けだした。ドラゴンに向けて。繰り出される爪を跳んで避ける。奴の腕に着地し、駆け上ろうとするも、腕を振り払われた衝撃で空へ投げ出される。建物の壁を蹴って上へ。反対の腕が伸びてくる。その爪に剣を当てる。衝撃で更に上へ、腕を駆け上がる。大きく口を開け、こちらにかみついてくる。その牙へ向けて剣を振るう。たたきつけた瞬間剣を手放し、すれ違うように顔を通り過ぎ、頬につかみかかった。跳ね上がり、奴の目に剣を突き立てる。
竜の咆哮。鼓膜が破れそうな大音量と振動。俺は首の後へ周り、鱗を剥がすために剣を打ち付ける。剣を捨てることで簡略化されたモーションで、通常よりも速く、もっと速く。剣と鱗が宙を舞う。身体をおおきく揺すり、俺をおとそうとする。振り落とされないように、足下の、しっかりとくっついた鱗に自らの脚を刺して固定した。
鼓舞とも悲鳴ともつかない声を上げ、俺は更に剣を打ち付ける。首の鱗を剥がし、奴の皮膚、その奥に通る動脈。そこに、思いっきり剣を突き刺した。
「墜ちろぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!」
そして深く突き刺した両手の剣を、振り抜くように大きく広げる。溺れそうな量の鮮血が俺に吹きかかる。ぐらり、と傾いたドラゴンが地に伏して、やがて消滅した。
「はぁ……はぁ、」
だらりとさげた両腕から剣を取り落とし、俺はその場に倒れ込むように腰を下ろした。仰向けに倒れ込んで見上げる空は青い。
それはここへ来てから、俺が毎日見上げていた空で。
昨日と同じ今日を疑いもしなかった俺が、今朝見上げたものと何も変わらなくて。
このたった数時間で、一年半ぶりに激変してしまった世界が、なかったことのようにさえ思えた。
「そうじゃない……」
呟いて、俺は立ち上がる。
目的無く学校に通う日常ではなく。
志無く救いを待つ非日常でもなく。
そこにはただ、生きるために戦うだけの、『現実』がひろがっていた。