『知人の世界』という本。
ずっと友達の関係を維持してきた女性がいる。
踏み出すとか踏み出さないじゃなくて。
たぶん、そこまで興味がなかった。
中途半端な距離をずっと保ち続けながら、僕等はただ、友人で居続けた。
それが変わったのは、ほんの些細なことだった。
その女性...彼女とでも呼ぼうか。
僕にとって”彼女”というカテゴリは、本当にそばの一人にしか使わないのだけれど。
彼女はある日僕に聞いた。
「独りじゃなくなるってどういうことなんだろうね?」
って。
彼女が言うには、
「色々な人に支えられて生きてるってことは、最初から独りじゃないってことじゃない?」
でもあえて、ひとり身が、独り身であって、
二人身になったら独身じゃなくなって。
「でもその相手に何を望むの?」
初めは何を言ってるのか分からなくって。
じゃあ、彼女は何を望まないの?ってきいたら。
「マイナス感情を感じることを望みたくないな」
って、そりゃそうだろうって思ったけれど。
でも少し彼女に対して興味がわいたのは事実だった。
次のきっかけは、
彼女が謎っぽいタイトルの本を熱心に読んでたことから。
何を読んでるの?って聞いたら。
カバーを半分外して、表紙ごと見せてくれた。
『知人の世界』
そう、本には書かれてた。
確か帯には、”貴方とは違うけれど貴方も知っている”
って、これまた不思議な煽り文だなぁ、って思ったのが覚えてるきっかけ。
不思議な本を見つけたね、それはどんな本なの?
って聞くと、うーんって唸って。
「読むだけじゃよくわからないから考えなきゃ進まない本で。
自分を第三者に見立てて主人公の背中を追いかける…みたいな?」
その時にはそれだけで済ませてしまって。
けれど、こちらの仕事で少し遅れてしまったから彼女の要求をのんだ。
「珍しいね、僕の部屋に来たいだなんて」
「明日雨が降りそうでしょー?でも、実際に雨降るんだよ」
難しい本を頑張って読んでたせいなのか、
彼女の眼は少し充血してた。
「ねー、由比。夜のお弁当作ってきたんだよー、作っただけで終わったやつだけど。
食べよー?」
僕の名前は決して由比じゃない。
けれど彼女は、僕を初対面から由比と呼んでいた。
彼女からしか呼ばれない呼称だった。
僕の会社というか部署は、毎年誰かかしらが海外事業部といって、
1~2年かけて国外のあちこちの窓口業務に飛ばされる。
その期間中一度も帰国できずあちこちを数週間だったり数か月だったり不規則な期間で飛ばされて
ひと通り回ってきたら帰国できるようになってる。
僕の周りも結構そういって言ってきた人がいて。
そろそろ順番的にはきそうだなって思ってた。
今年か来年か再来年か…それくらいには来そうだなって思ってたら。
今年は君だね、って、部長に肩を叩かれた。
そんなに急じゃなかったんだけれど、なかなか逢えなかったのと。
彼女がやっぱり不思議な状態になってて、この間の"知人の世界"っていう本じゃないけれど、
不安定そうだなーって、見えてた。
できれば、友人としてそばにいようかと思ったんだけれど。
友人というカテゴリよりも、最近はそれ以上に興味持ってるなーって、そんな感じがしてた。
「ねぇ、今度早朝に出かけてさ、宝箱を探しに行かないか?」
「ずっと昔に読んだ本にあった、空にかかった橋の向こうに宝箱があるって。君そういうの好きそうじゃない?」
暗くはないんだけれど、やや妙なテンションで明るく沈んでる彼女に、僕はそう声をかけた。
たしかあれは、明確な宝箱があるんじゃなくて。
果てしなく遠くに見えるものが、実は…って言ったものだった気がする。
何でそんなことを言おうと思ったのかよくわからないけれど。
それでも、明るく沈んでるっていう不思議な状態の彼女を置いてくのは嫌だと思ったんだ。
もしかしたら、この時点で、
この不思議な彼女に僕は堕ちていたのかもしれない。