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「舞台は塾の自習室。四十八手の二番目『抱卵』でいくことにする」

 塾の入っている建物は、元々、他の塾の持ち物だった。

 三十年ほど前、スパルタ教育を売りに、ずいぶん繁盛した塾だ。二十年ほど前、やはりスパルタ教育が原因で廃業した。傷害罪だか監禁罪だかで保護者から訴えられ、経営者が逮捕されたのだ。

 十年間、引取手のないまま、建物は放っておかれた。

 当たり前だけど、塾経営に必要な設備は、一通り揃っている。

 事情が事情だけに、値段も破格。

 それで買い求めたのだけれど……今でも、ヘンな道具が残っている。

 ローンが残っていて、内装にカネをかけられないという事情もある。

 不動産屋に最初に案内してもらったとき、私は思わず漏らしたものだ。これは、新興宗教の教会か、それとも秘密のSMクラブでもあったのか、と。不動産屋は頬を引きつらせながら、言ったものだ。

 皆様、そうおっしゃられますけど、ごく普通の塾でした……と。

 どこが普通だ、というツッコミはナシにしてください……とやはり引きつった声で、不動産屋は続けた。

 それで、私は黙って買い求めた。

 商談の最中、ブラックなボケ・ツッコミをかます根性が気に入って、だ。

 それで……。

 懺悔室、反省室などと名前がついた教室群も、そんなヘンな「備品」のひとつ。

 なぜか教室のドアが鉄格子になっていたり、三角木馬がおいてあったりした。

 大半は物置にあてている。けれど、比較的「マシ」なのは、自習室にしているのだ。

「自習者は、水島くんに、桜子。前回のことがあるから、桜子の役目は純粋エキストラ、とする」

 成績、最近芳しくないし、本当に勉強してなさい。

「ミラー役兼仕掛け人には、木下冬実先生を抜擢」

 桜子の質問に答えるふりをしながら、さりげなく、水島くんに合図だ。

「水島くん。君も何くれとなく、木下先生に、質問する。渡辺啓介に直接話しかけるのは、ムリでも、木下先生になら、大丈夫だろ。木下先生は、質問されても意味がよく分からないふりをして、渡辺先生に相談。そして渡辺啓介が、後ろから水島くんのテキストを覗き込むように、しむける」

 今回のため、水島くんには髪型をかえることを命ずる。耳元や横顔がきれいに見えるように、結わえるるなりなんなりしてくれ。

 姪がすかさず、言う。

「あ。じゃあさ、みつあみオサゲ、なんてどう?」

「ちと、はまり過ぎな感じがする」

 そういえば、イモ娘の洗脳、しとらんかったな。

「あ。あと。あんまり重要じゃないんだけど。タクちゃん、科目、何にするの?」

 言うまでもなく、渡辺啓介の専門は理数。そして、木下先生のほうは英語だ。

「不自然、じゃない?」

「ううん。じゃあ、桜子が英語。水島くんが数学、としておくか」

 この安易な決定が、あとで失敗の原因となるのだが……。


 入り口ドアと奥の窓を結ぶ直線上に、長机を二つ、配す。

 桜子とマキちゃんが、向かい合って、席に着く。

 渡辺啓介と木下先生は、随時、好きな場所で待機、だ。

 私は隣室にいた。壁にはハーフミラーがはめ込んである。桜子たちの挙動が、一目瞭然だ。

 しかし……前の塾長、よほど趣味が悪かったんだろうな。

 前回の成行きがあるので、西君が助手をしてくれることになった。木下先生にさりげなくメッセージを伝えたり、渡辺啓介を牽制したりする役目、だ。

 自習が始まるとともに、早速このメッセンジャーが必要になった。

「西くん。木下先生に、メッセージを頼む」

「はい。なんてッスか?」

「お尻をぷりぷり、振ってあるくな」

「正気ですか? そんなこと、言えるわけないっス」

「でも、言わなきゃ、まずい」

 最初に注意しておくのを、忘れた。彼女は、何か特別な使命があると、左右高さの違うハイヒールをはいてくるのだ。

「正確に言えば、はき古したハイヒールと、新品なんだが。左右で、新旧違うのをはくのだ」

 由来がある。フォードの偉人伝を読んで、感銘を受けたせいだ。

 西くんが、頓狂な声で繰り返す。

「フォードっスか? あの、アメリカの自動車の?」

 現メーカーを作った初代フォードは、今風に言うとアメリカンドリームの体現者だ。裸一貫から身を起こして、世界一の大富豪になった。大衆消費社会の礎を作った人物でもある。この手の偉人にありがちな、様々なエピソードの持ち主でもある。

 左右、違う靴、というのもその逸話のひとつ。

 新聞記者の質問を受けた彼は、こう答えたそうだ。

 私は今は大富豪だが、昔は貧しかった。いつか、もしかしたら、再び貧しい時代に逆戻りするかもしれない。そうならないように、戒めの意味を込めて、毎年正月には片方だけ新しい靴を履き、片方は古い靴を履くのだ、と。

「初心忘れるべからず。勝って兜の緒を締めよってとこだな」

「いい話じゃ、ないっスか」

「木下先生も、そう思ったんだろうな。だから、真似した」

「それの、どこがいけないんスか?」

「唐突に話題は代わるが、マリリン・モンローについて、どれくらい知ってる?」

「ええっと……地下鉄の通風孔の上で、スカートが風でまくりあがって、いやーんっていうシーンすかね」

 マリリン・モンローはアメリカの初代セックスシンボルといってもいい存在だ。

 寝巻きに何を着ていると聞かれてシャネルの五番と答えたり、プレイボーイ創刊号のヌードモデルをしたり、様々な逸話の持ち主である。

 その逸話のひとつに、モンローウォークというのがある。

「お尻を左右に色っぽく振りながら歩くっていう、アレだ」

 マリリン・モンローは元々見事なヒップの持ち主だけれど、それだけで、あんなわざとらしい歩き方には、ならない。

 実は彼女、映画でそのシーンの撮影があるときには、左右で高さの違う靴を履いていた、というのだ。

「五ミリだか一センチだか、それくらい違う形の靴、だったと思う」

「へえ」

「足を踏み出すステップの位置がずれることで、お尻が自然に振られる、という理屈らしい」

「へえ……塾長、何でもよく知ってるっスね」

「で、三段論法の結論だ」

 木下先生が、クソマジメにフォードの真似をすると、和製マリリンモンローができあがる。

「ある意味、悲劇っスよね」

「そう。でも、心躍る悲劇なんだ」

「そんなにエッチ臭いんスか?」

「彼女が試験監督をすると、男子と女子とで平均点が思いっきり違ってくる」

 もちろん、男子のほうが思いっきり下がる。

 あのお尻のせいだ。

「ウソ、でしょ」

「本当だ。でも、なぜか苦情を言う男子生徒はいない。西くん、君なら理由、分かるな?」

「まあ……お金を払ってでも、見たくなるようなシーンっすしね」

「わざとやっているならともかく、動機そのものがマジメなわけだから」注意できない。

「うーん」

「見よ。渡辺君の鼻の下を。グーンと伸びてるだろ」

 マントヒヒなみだ。

 色男と言ったって、所詮あの程度。セックスアピール三百パーセントの女性の前では、汲み取り便所の中に潜むデバガメと大差ない。

「水島くんが見たら、百年の恋も興ざめっスよね」

 彼女のほうは、机とにらめっこしっぱなしだ。

「そうだろ。そうだろ。イケメンと見たら、騒ぐ女の子たちに、教えてやりたいよ。メタボがなんだっ。髪が薄いのがなんだっ。西くんも、そう思うだろ?」

「いや……あの……塾長ほど、思ってないっス」

「なんだとおお」

「自分、実は彼女いるっスよ。二つ年上の大学の先輩で、マッチョ好きっす。顔が多少不細工でも、アピールできる何やらがあると、やっぱ、違うっスよ」

「ええいっ。さりげなく彼女自慢しとらんで、さっさと命令を遂行しろっ」


 というわけで、西くんは命令を遂行しに行った。

 ハーフミラー越しに観察する。西くんは入り口ドア付近にたたずんだまま、動かない。

 じっと、動かない。

 そのまま、十分ほどして、彼は戻ってきた。

「君、何をしに行ってきたの? ちゃんと、声、かけてきたかい?」

「いえ。かけなかったっス。けど、木下センセのお尻、直ってないっスか?」

「ホントだ。ぴたりと収まってるな。どんな魔法、使った?」

「使ってないっス。ただ、じーっとお尻見てたら、自然に止まったんスよ」

 そういって、西くんはハーフミラーへ顔を向けた。

 私は、西くんの鼻の下がぐーんと伸びていくのを見て、木下先生の自粛の理由が、よく分かった。

「その顔を見たら、確かに貞操の危機を感じるもんな」

「塾長ほどじゃ、ないっスよ」

「なにいっ。私の顔、そんなに崩れてるか?」

「少なくとも、ヨダレくらいは拭いたほうが、いいっスよ」


 我々が隣室でバカ話をしている間も、背面アプローチは淡々と仕掛けられていく。

「抱卵」は文字通り、彼氏に後から抱え込むように、近づいてもらうための方策だ。

 マキちゃんが、渡辺啓介に、質問する。

 彼がマキちゃんの手元を覗き込む。

 そのタイミングを見計らって、テキストを隠すように、動かす。

 あるいは、テキストのあちこちを、指差す。

 彼がマキちゃんの手管で、視線をあちこち動かすようになってくれたら、OK。

 ついでに、身体まで動かすようになったら、成功。

 質問のドサクサに紛れて、後ろから抱きしめてもらえたら、大成功。

 さて。

 どこまでいきますものやら。

 ガラス越しに見ていると、打合せ通り、出だしはよかった。

 水島マキはしきりに木下先生を呼び寄せ、質問している。

 木下先生は、渡辺啓介に相談する。

「しまった。ブラウスの前、ボタンを上まで留めておけって注意するの、忘れた」

「もう一回、いっとくっスか?」

「いや。もう、タイミングが悪い」

 渡辺啓介の視線が、木下先生の胸を泳いでいる。

 やばい。

 どうにか、ならんか。

「あ。サクラちゃん、フォローに入ったみたいっスね」

 姪に呼ばれ、木下先生はカップルの元を離れた。

 自然、渡辺啓介が、マキちゃんのノートを覗き込む。

「よし、桜子、よくやった」

 しかし、渡辺啓介の反応が、イマイチだ。

 トイ面の女子二人が、どうも気になる様子。

 こら、渡辺くん。

 給料払ってんだぞ。

 生徒指導に、専念しろっ。

 私の声が届いたのか、ようやく背面アプローチ、再開だ。

 ほら。

 それ。

 いけよ。

 ケチケチすんな。

 がばっと、襲ってやれええっ。

「水島君、全然、顔、上げないっスね」

「ヘタレ娘だからなあ」

 そして、大方の予想通り、彼女は立派なヘタレっぷりを発揮したのだ。

「水島君、なんか、泣いてるみたいっスよ?」

「うん?」

 西くんの指摘は、本当だった。

「嬉し泣き……じゃ、ないよな」

「渡辺さん、なんか怒ってるみたいっス」

 水島君が、トイ面の二人に助けを求めているようだ。

 木下先生が、まあまあと、とりなしている。

 渡辺啓介のイライラが、しかし、どうにも収まらない様子。

 どっかり、パイプ椅子に腰を下ろすと、今度は貧乏ゆすりときた。

「もしかして、緊急事態、発生か?」

「もしかしなくとも、そうみたいっス」

 西くんが慌てて、監視室を飛び出した。と、同時に、渡辺啓介が、ふらりと自習室を出るのも、見えた。

 少しばかりドアを開けて盗み聞きすると、渡辺啓介の湿った声が、聞こえた。

「なあ、西。オレ、あの女の子に嫌われてるのかな?」


 詳しい話は、直接本人から聞いたほうが、いいかもしれない。

 そう思い、私は渡辺啓介を夕食に誘った。

 石巻の駅前はいわゆるシャッター街、最近寂れつつある。

 しかし歩いて店のハシゴをできそうなのは、このヘンくらい。最近発展著しいパイパス通りは、車でなければ移動が厳しい。人影まばらな通りを、男二人で歩いていく。街路の過去を知っている私は、妙な郷愁を覚える。生粋の仙台人である渡辺啓介には、どう映ってるんだろう。

「昔は、よかった、ですか?」

「さあね。石ノ森章太郎のマンガグッズが増えた」

 かと言って、どこかのテーマパークみたいに、マンガ一色になったわけじゃない。

「この中途半端さが、この町らしいと思うよ」

 私は寿司をおごるつもりでいた。

 渡辺啓介は、ラーメンを食べたがった。

「遠慮しなくとも、いいんだぞ」

「遠慮なんかしてないですよ。トンコツのキツイのを、腹いっぱい食べたいだけです」

 これも若さかもしれない。

「トンコツとはちと違うけど……」

 私は駅前の牧場ラーメンに案内した。

 牛乳味のスープが売り。それにゴマやら抹茶やら、五種類の麺を択んで食べる。

「牛乳味ですか?」

「ゲテモノくさく聞こえるけど、これがまた、うまいんだ。北海道に行きゃ、バターラーメンみたいなのがあるだろ。あれに近い感じ」

 雑居ビル一階の細長い入り口をくぐる。

 入り口レジの後が調理場。

 奥行きこそあるけれど、そんなに広くない店内。

 バタ臭い独特の香りが、かすかに漂っている。

 高校生か大学生か、チノパンにジャージの上着姿の三人組しか、客はいなかった。

「渡辺君、ビールとか、呑む?」

「宴会でならともかく、プライベートでは全然呑まないほうなんです」

 ちなみに、バリバリ体育会系の西くんも、そうなのだそうだ。

「今の若いひとって、みんなこんな感じですよ。酒、呑まない。タバコも吸わない」

 なんだか自分がものすごいオジサンになってしまった感じ、だ。

 つーか、リアルにオジサンか。

「すいません、サクラちゃんじゃないんで、ツッコミところが分かりません」

「……いいってことよ。かわいい観客がおらんと、ボケにも冴えがないし」

 でも、どうも、調子狂うな。

「腹を割った話とか、しにくくない?」

「そんなこと、ないですよ。シラフでだって、マジメな話、できます」

 そう言って、渡辺啓介は、自分の生立ちを語ってくれた。

「生まれは確かに仙台ですよ。長町の駅の裏手のほう。でも、すぐに親父が転勤しまして。千葉の船橋。こっちに戻ってきたのは、僕が小学校に上がるちょっと前です。両親が離婚しまして。結局、父に引き取られることになりました。父親の実家が、こっちなんです」

 幼い子どもの場合、往々にして、母親が親権をとるものだけれど。

 経済的理由でもあったんだろうか。

「違います。離婚の原因、母の不倫でして。相手の男と静岡に逐電しちゃったんです」

「……なんか、悪いこと、聞いちゃった?」

「そんなこと、ないです。だって、恋愛相談なんでしょう」

 そうだった。

 他の塾の場合、生徒さんに手を出すのは絶対のタブーである。けれどウチの塾は……というか、塾長はねじが少し外れているから、ケースバイケースで付き合ってもいいよ、と語らうつもりだったのだ。

「……ご両親の離婚話が、恋愛と関係あるの?」

「恥ずかしながら、今の母親みたいな女性が、タイプなんです。あ。実の母ではなくて。父がこっちに戻ってきてから、再婚した母のほうです」

 ちゃきちゃきの江戸っ子、みたいなタイプだそうだ……山形の出身だけれど。

「もしかして、ネタで言ってる?」

「いいえ。至極まじめに」

 年も、十二しか離れてない。渡辺啓介にとっては、母親というより、姉のような存在という。

「でも、ちゃんと母さんって呼んでますけどね」

「ふうむ」

「サクラちゃんが、そのまま年をとった感じって言ったら、わかりやすいかもしれませんね」

「ふうむ」

「大学合格したときに、実の母のほうが、お祝いとか言って、来仙しました。けど……正直、母って呼ぶのは、抵抗がありましたね」

「ふーむ」

「離婚の原因になった相手とは、とうに別れてました。けど、また、妻子あるひとと、つきあってたみたいです」

「もしかして、ウチの秘書みたいなタイプ? 木下先生みたいな? 美人で年より若く見られて、そのうえセックスアピール百二十パーセントって感じ?」

「それが、逆ですよ。地味、極まるタイプなんです。そう、ちょうど、あの水島っていう生徒さんみたいな」

「水島くん、みたいな……」

 生来、おとなしい。お陰で、男の押しに弱い。だから、言われるまま、不倫でもなんでもしてしまう。

「自分の意思、はっきりさせない女性を見てるとですね、いらいらしてくるんです」

「自習時間、不機嫌だったのも、そのせい?」

「いや、あれはですね。自分がなんだか避けられているみたいだったから」

 わざわざ、木下先生を通して、間接的に質問することもなかろう、と渡辺啓介は言う。

「水島君は、男が苦手なタイプなんだよ」

「じゃあ、僕は、男が苦手な女の子が、苦手なタイプです」


 この翌朝。

 私は水島マキの母親がやっているという道場の片隅で、アグラをかいていた。

 塾から車で、国道三九六号線・女川街道を行くこと、、三十分。途中から稲井の広域農道に入り、さらに林道、未舗装道路をさんざんたどった末に、水野家、いや正確には金剛山華厳寺はあった。寺の裏手はこんもりした丘になっており、すべて墓地。門柱から墓まで、すっかり古びた中で、舗装済みの駐車場だけが、やたら新しく見えた。一番近くの民家まで、歩いて十分はかかるだろうか。

 途中道を尋ねたお婆さんが、零細寺だよと教えてくれたけれど……本当に、小さなお寺だ。

 付設の薙刀道場のほうが、立派に見える。

 柔道、剣道場は県内に多々あれど、薙刀というのは珍しいらしく、それなりに繁盛しているとのこと。講堂で案内を乞うても誰も出ず、私はまっすぐに道場に向かったのだった。

 静かだ。

 蝉の鳴き声が、やたらうるさく聞こえる。

 いや、もうひとつ、道場に響き渡る声があった。いうまでもない、我らがヒロイン、水島マキの気合である。白い胴着に紺の袴。凛とした横顔、落ち着き払った目線。塾で見せる、モグラのような根暗娘とは別人のようだ。

 二人一組で、半ダースくらいの門下生が、練習している。薙刀の稽古というから、やたら棒で打ち合いでもするのかな、と思っていた。でも、私の見ていた限り、棒は身体に触れてない。型の稽古、というヤツらしい。

 待つこと、三十分。

 ようやく休憩時間だ。

 手ぬぐいで汗を拭きながら、マキちゃんが私の前に正座する。応接室に通す、というのを制して手短に挨拶だ。

「お母さんは?」

「おじいちゃんを、デイサービスに連れていきました」

「お父さんは?」

「法事です」

「誰か、責任者のひとって、いる? お母さんの次に、偉いひと」

「うーん。私、かな。一応、師範代格、なんです」

「電話、男からだととりついでもらえないって言ってたから、直接きちゃったけど……」

「もちろん、OKです」

 私はラーメン屋での渡辺啓介との会談を、手短に伝えた。

「今の君みたいに、ハキハキしているのが、彼氏の好みなんだよ」

「改めて言われなくとも、分かってます。今の私、じゃなくて、サクラちゃんでしょ」

「う。まあ、そう」

「それで?」

「それで……塾での君みたいな内気な女の子って、どうも生理的にダメみたい」

 渡辺啓介自身から聞いた、生立ちをかいつまんで話す。

 彼が嫌悪している実母のこと。

 反対に思慕している継母のこと。

 残念ながら、マキちゃんが、その実母を彷彿とさせるキャラなこと。

 じゅうぶん、オブラートに包んだ言葉を、発したつもりではあった。けれど、真意は伝わったみたいだ。水島マキの目尻が、じわっと濡れてくる。

「私、振られたんですか……」

「何を言ってる。まだ、恋愛、はじまってもいないよ」

「……そうですね」

「なんのために、ノーパンミニスカで、さんざん修行をしてきたんだ。あの恥ずかしさ、スースーする感覚を思い出すんだっ」

「いえ、あんまり思い出したくないんですけど……」

 微苦笑する、マキちゃん。どうやら、まだ余裕ありげだ。

「少し立ち直ったところで、追い討ちをかけても、大丈夫か?」

 こういうとき、ネットで出回る流行文句は、便利だ。

「大丈夫だ、問題ない」

 マキちゃんがきっぱり宣言したところで、私は告げた。

「ワタナベ先生、ウチの姪をデートに誘ったよ」

「えっ」

「桜子、何度も断りはしたんだけど、しつこさに根負けしちゃったらしい」

「デート、行くんですね」

「うん。でも、絶対これっきりって言ってた。告られても、きっぱり断るからって」

 桜子は、絶対、君を裏切らない。

 粗忽で、男勝りで乱暴者ではあるけれど、友達を裏切るようなことはしないタイプだ。

 私が力説して述べると、水島マキの表情が、どんどん優しげになっていった。口元には微笑を浮かべている。目つきがやたら、透明になっている。目の前に私がいるのに、全然見えてないような、感じ。

「サクラちゃん、幸せになるといいですよね」

「は?」

「確かに、私みたいなネクラより、ああいう元気なタイプのほうが、ワタナべ先生には、お似合いかも」

「ちょっと、待て」

「いいんです。私、ピエロの役、これが初めてじゃないですから。憧れのひとと、親友くっつける応援、何度もしてきたんです」

「おいおい」

「先生、もう何も言わないで。みじめになっちゃう。それに、私には政宗様や小十郎様や兼継様や幸村様がいるから。本当、大丈夫っ」

 そういきなり、現実逃避するなよ。

 四百年前の戦国武将は、君をプラネタリウムにも水族館にも、連れていってくれないぞ。

「今川義元や武田信玄にしても、あっさり恋愛諦めるヘタレ歴女なんか、眼中にないって言うかもな」

「それなら、それで、いいです。あんな厚化粧のお公家さんとか、お父さんみたいな入道頭とか、興味ないですから」

 激励のつもりで言ったのに……どうして、そう、斜め上の反論をするんじゃあっ。

「それに、最初のデートなら、プラネタリウムとか水族館より、登米の明治村とか、行きたいなあ」

 水沢県庁記念館や警察資料館で、記念撮影。板張りの廊下を慣れないブーツ姿で歩くマキちゃん。窓辺によりかかって、新緑あふれる庭園を見る。うーん、絵になる。手をつなぎたいけれど、自分では言い出せない。モジモジしながら、汗ばむ手のひらを閉じたり、開いたり。そちらに神経が行き過ぎて、足元がお留守になる。ここで、ドジっ子の本領発揮。足首を軽くひねって、コケそうになるのだ。すかさず腕をとり、胸に抱きとめる渡辺啓介。

「二人はそこで目があって……ねえ、先生、聞いてます?」

「聞いてるよ」

 てか、なんで最初のデートで、なれないブーツなんかはいていくんだよ。チマタのデートマニュアルには、はき慣れた靴、とか書いてないのかな?

「それはですねえ、私が大正時代の女学生のような、おしゃれをしていくからですっ。生成りに紫紺の矢絣ついた着物、ちゃあんと持ってるんですよ、私。袴は臙脂と紺、どちらがいいと思います? あ、あと、衣裳に合わせてリボンとかつけていったら、ドン引きされるでしょうか?」

 彼氏には、もちろん旧制高校の制服を着せて。マントに角帽というのが素敵っ……と言われてもなあ。いくら隠れオタクでも、そこまでの趣味はないような気がするが。

「そこは、ほら、先生お得意の洗脳で」

「いや、マキちゃん。洗脳なんて、全然得意じゃないから」

 もはや突っ込むというレベルじゃないな、おい。

「最初の成功で気をよくしたワタナベ先生は、次のデートで勝負をかけるべく、ホームグラウンドの仙台を次のデート場所に選ぶんです。定禅寺通りの並木道を散策したり、クリスロードでウインドウショッピングしたり……」

「夜の国分町に繰り出したり、駅前・駅裏のオタクショップを回ってみたり?」

「ワタナベ先生に、そんな怪しげな趣味、あるわけないじゃないですかっ。庭野先生、自分と一緒にしちゃ、ダメですよ」

 ずいぶん美化したもんだな、おい……てか、私のほうは、怪しさいっぱいっつうことかいっ。

「告白してもらうのは、街中より、もっとロマンチックな場所がいいですよね。仙台空港が見えるレストランで、飛行機が飛び立つのを見ながら、僕も一緒に舞い上がりたい……とか、どこか少年っぽい、あどけない笑顔でつぶやいて、手を握ってくるんです……そこからは……きゃーっ、エッチ、先生、言わせないで」

 ああ……もうすっかり、自分の世界にはりま込んじまって……。

「結婚式は海外で、二人だけで、とかがいいなあ。庭野先生、オーストラリアとかニュージーランドとか、おしゃれなチャペル、紹介してくれませんか? え? 全然知らないんですか? うーん、そうですよね。サクラちゃんのツッコミじゃないけど、先生、縁遠いそうですもんね」

 だから、一言余計だっちゅーの。君はウチの姪か。

「……お母さんに言ったら、お寺の娘がキリスト教の教会でなんてって、反対されそうだし……あ。でも、子どもいっぱい作るって約束したら許してもらえるかも。一人はお父さんみたいなお坊さんに、一人はお母さんみたいな薙刀の先生に、一人はワタナベ先生みたいなエンジニア? かな」

「水島くん。それ、ちょっと違うかも。ワタナベ先生、工学部と言っても、専攻は建築系じゃなかったかと思うんだが。エンジニアって言うより、建築家とか、設計士の世界じゃないのかなあ」

 彼氏にしたいひとの専攻くらいチェックしておきなさい……軽くたしなめようとする私の胸に、水島マキがどさりと上半身を預けてきた。

 あれ。気分が悪くなったのか?

 両脇から二の腕を掴んで起こそうとするも、顔が上がってこない。

 どうしたんだ……。

 気がつくと、水島マキは震えていた。

 汗が冷えちゃったのか……いや、違う。

 くすんくすん。

 鼻を鳴らす音だ。

 涙を流さず、水島マキは泣いていた。

 くすんくすん。

 だんだん音が大きくなってくる。

 困った。

 本当に、困った。

 道場の片隅で、薬缶の水やら、スポーツドリンクやらを飲んでいたお弟子さんたちが、いつのまにか薙刀片手に私を囲んでいた。

 それも、すごい剣幕で。

 待て待て、私がいじめたわけじゃないぞ。

 とにかく、五体満足でこの道場を出るためには、彼女たちを落ち着かせるしかない。

 しかし、彼女たち、この事情をどれ位、知ってるんだろう。

 一番若く見えるお弟子さんが、そっと水島マキの肩を抱いていた。黒髪ロング、瓜実顔の和風美人だ。

 彼女相手に、手短に事情を説明する。お弟子さんたちの半分が、ため息をついた。やはり道場でも、水島マキは、いつもの水島マキらしい。ただ薙刀を握っているときは、性格が変わるらしい。試合のときの、千分の一の勇気があればねえ……誰かが、私に聞こえるようにつぶやいている。

 彼女の嗚咽が収まったところで、私は言った。

「水島くん、もう一度言うよ。諦めたら試合終了なんだ。君は、まだ、渡辺啓介に塾での一面しか見せてないんだろ?」

「……でも先生。どうしろって言うんです?」

「背面アプローチの奥の手、残ってないこともないんだけどね」

 私の図書館で既に修行済みの君なら、すぐにでもマスターできる。

 四十八手のうち、四十八手目、「丸見え」だ。

「あの……庭野先生? なんかそのネーミング、ものすごくいやな予感がするんですけど」

「最終奥義だからなあ。多少露骨なのは仕方がない」

 方法は至極単純。ミニスカ・ノーパン姿で、床の雑巾がけをする。なるべくお尻を高くかかげたり、上下左右に振ったりしたら、より効果的かもしれない。お目当ての彼氏に後から近づいてもらえば、じゅうぶん過ぎるくらいのセックスアピール、完成だ。

「私だったら、絶対イチコロになるけどね。たぶん渡辺啓介だって、同じだと思う。彼氏の鼻の下とヘソの下がぐーんと伸びれば、成功。まあ、下手すると違う字のセイコウになっちゃうかもしれないけど」

 ゴツンッ。

 後頭部に鈍痛。

 目から火花が出るような、衝撃。

 気がつくと鬼のような形相で、例の瓜実顔の美人が、薙刀をかざしていた。

「下品っ」

 彼女に続いて、次々薙刀が振り下ろされようとしている。

「うおおおお。暴力、はんたーいっ」

「安心しろ。峰打ちだ」

「稽古用の薙刀に、峰なんて、あんですか?」

 瓜実顔の美人が、ため息をついて言う。

「庭野先生、ホント、口が減らないタイプなんですね……彼の前で一言も口をきけないようなヘタレ娘が、色情狂みたいなマネ、できるわけないでしょっ」

 他に善後策はないの? と後ろのほうに控えていた初老の女性が言う。

 年の功か、落ち着いている。

 私は、渡辺啓介の女性の好みについて、繰り返し説明した。

「だから、この道場で、さっき練習してたみたいな姿、彼氏に見せればいいんですよ。そう、この道場に見学に来てもらう、とか」

 ホームグラウンドで戦えばいいんですよ。サッカーと一緒です。

 水島くんを介抱していた瓜実顔の美人が、すかさずツッコミを入れる。

「でも庭野先生。その後、どうするんです? 毎回デートは道場でするんですか?」

「うーん」

「それとも、映画館とか、水族館とか、デートに薙刀持っていけとでも?」

「そうですねえ……。デートには、難しいかもしれない。けれど、デートの妨害になら、持ってっても、大丈夫じゃないかな」

「デートの妨害?」

「うん。ウチの桜子から、たってのお願い、されてるんです。ワタナベ先生とのデート、うまくいかないようにして、と」


 この次の日曜日。

 私は水島マキや木下先生とともに、日和山神社にいた。

 目的はもちろん、デートの妨害。

 そう、渡辺啓介と桜子が、ここで待ち合わせするはずなのだ。

 行きたくありません……と言っていたマキちゃんだけど、私が車で迎えに行くと、きちんと支度して、待っていた。

 朝の挨拶だけを交わすと、彼女は無言で車に乗り込んできたものだ。

 目的地の日和山まで、小一時間。

 桜の名所ではあるけれど、夏間近の日曜の朝だけあって、神社には誰もいなかった。近くには、市立の女子高、そして我が母校にして桜子たちの高校もある。私も若かった時分は、ちょくちょく部活動で走りこみに来たものだ。

 散策がてら歩くのには悪くない、シチュエーション。ただ、車で来るには、道幅がちと狭くてつらい。我が愛車ハイエースの場合、運転しづらさはなおさらだった。

「でも塾長。それなら歩くなり自転車なり、違う移動手段があるっスよ?」

 質問をしてきたのは西くんだ。

 なぜか彼も今回の「デート妨害団」に名を連ねている。

 私は、必死でハンドル操作しながら、答える。

「徒歩だと、尾行できない。ワタナベ先生のデートプランなら、お得意のドライブに決まってるじゃないか」

 彼の愛車はオンボロのレビン。十年以上も前の車だけれど、人気のスポーツカーだ。整備もきちんとしているし、運転手の腕もあって、乗り心地は抜群だ、という話だった。

 都会向けのデートマニュアルによると、しょっぱなからドライブは避けるのがセオリー、と書いてある。車の中は密室で二人っきり、女の子の抵抗が大きいから、だそうだ。

「しかし、石巻あたりだと、他に移動手段がないしな。田舎暮らしをすると、デートひとつもままならないもんだ」

「でも、塾長。だとすると、サクラちゃん、ワタナベさんを憎からず思ってるから、ドライブする気になったんスかね?」

 私は声なき声で、咎める。

「こら。後ろに水島くんが乗ってるんだぞ」

 私の声が聞こえなかったのか、西くんは懲りずに続ける。

「塾長、サクラちゃんが貞操の危機、とかなったら、どうするんスか?」

 それはない、と私が言いかけたのを遮り、水島マキが目を三角に吊り上げて、言った。

「二人とも、成敗しますっ」

 言い忘れたが、マキちゃんご自慢の薙刀を、車に積んであるのは言うまでもない。

 駐車場から境内に向かう前に、全員で服装チェックをした。

 それぞれ、正体がばれないようにと、変装を言いつけてあるのだ。

 私は、リラックマ柄のパジャマで、車椅子に乗る。背後で押し役をやってくれるのは、ナース服姿の木下冬実先生。

 水島マキは、赤い袴の巫女姿。

 稽古着で和服は着慣れているのか、すんごく様になっている。

「マキちゃん、それ、わざわざ買ってきたの?」

「趣味です。ちなみに、九の一の衣裳も、持ってます」

「うむ。ヘタレ・むっつり・イモ歴女コスプレヤーか」

 これだけ売りを持っていて、恋愛がままならないほうが、不思議な感じがする。

「まあまあ。完璧な人間はいないってことっスよ」

 横からとりなす西くんは、ゴリラの着ぐるみ姿だ。

「西くん。さすがにそれ、不自然じゃないか?」

「そんなこと、ないっスよ。オレが一番、うまく化けてるっス」

 まあ、確かに、どこから見ても、ゴリラだ。

 ゴッホゴッホとうなる仕草も、板についている。

「そうです。そっくりですよ」

 なぜか、水島マキが勢い込んで加勢してくれる。

 なんでも、男性としゃべるのが苦手なマキちゃんが、こうして西くんと自然に会話できているのは、その人間離れした容姿のせいらしい。

「ゴッホ、ゴッホ」

 マキちゃんに褒められて(?)西くんは嬉しそうに胸を拳で叩いた。

「いや……まあ、ねえ」

 お父さんに似てると言われて、マキちゃんに警戒感を解いてもらった自分としては、ちょっと複雑な心境だが……。

 西くん。

 これって、自慢するところとは、違うんじゃないか?

「それに下。なんでフルチンなんだよ」

 なぜか着ぐるみのそこの部分だけが、見事にくりぬかれている。

 さっきから女性陣二人が、見て見ぬふりをしてくれてはいる。いや、水島マキのほうは、横目ながら、目に焼きつくくらいの視線を浴びせている。

 ここいらへん、さすがにムッツリ・イモ歴女だけはある。

 西くんはゴリラになりきって羞恥心が飛んだのか、平気の平左で言う。

「リアリティの追求っすよ」

 この着ぐるみの股間には、何もついていなかった。去勢されたサルでもない限り、これはありえない。けどパンツをはいていたのでは、不自然だろう、と西くんは胸を張っていう。

「パンツをはいたサル、か」

 一昔前、栗本慎一郎という学者さんがそういう題の本を書いているけれど……というか、ゴリラのモノは人間様に比べて小さいため、全然目立たないものなのだ、というけれど……まあ、いいか。

「じゃあ、ゴリラが神社にいる理由は?」

 私は長患いで健康回復の祈願にきた患者。木下先生はその付添い看護士。そしてマキちゃんは祈祷してくれる巫女……という設定なのだ。

「塾長のペットって役で、どうっス?」

 私はアメリカの某有名ミュージシャンのペットから名前を拝借して、西くんゴリラをバブルス君と呼ぶことにした。

「飼い主もそっくりだろ。マイケル・ジャクソンだよ」

 我が姪の代わりか、マキちゃんが的確なツッコミを入れてくれた。

「ああ。分かります。整形前の顔ですよね」


 桜子が神社にやってきたのは、私たちが到着して、すぐだった。

 学校に用があるとかで、別行動になったのだ。緩い坂をテクテク上ってくる。家を出るとき乗っていた自転車は、校内の駐輪場らしい。

 ミニスカートの代わりに、黄色いホットパンツ。薄手のオーバーニーソックス。上はしまむらで買ってきたTシャツ。ポシェットだけは楽天の通販で買った、高い皮製のもの。なんだか、思いっきり普段着姿に見える。

 けれど、水島マキはハンカチを噛んで言った。

「ああ。サクラちゃんたら、あんなおしゃれして。ワタナベ先生には、気がないって、あんなに言ってたのにぃ」

 私には、思いっきり普段着姿に見えるんだが。

「校則で、男女とも半ズボン禁止なんですよ。だから今日は、普段着ないような、よそ行きの服ってことですっ」

「……つくづく、自分がオジサンだと感じるよ、君らのおしゃれのセンス、よく分からん」

 木下先生が、私のパジャマの襟を直してくれながら、言う。

「でも、塾長。サクラちゃん、ああいうスポーティっていうか、飾らない格好のほうが、似合ってませんか」

 いや、似合うと逆に問題なのだが。

 なんせ、振られるためのデートなのだ。ガッツリ遅刻してこい、と言いつけたのに、我が姪は待ち合わせにわずか十分ばかり遅れて、神社にやってきた。

 片や渡辺啓介のほうは、境内に上がる階段に、腰を下ろしていた。

 ライトブルーの半袖ワイシャツに、緑のストライプの棒タイ。暑さに弱いはずなのに、めいっぱい頑張っておしゃれしてきたんだろう。なんだか、妨害するのが気の毒になってしまう。

 日和山の駐車場は本殿のすぐそば、一の鳥居は丘を下ってずっと下のほうにある。長さ五十メートルほどの急階段が、下まで続いている。渡辺啓介を見つけると、我が姪はひょこひょこ石段を降りていった。

「で、塾長。どうやって妨害するンす?」

 西くんに言われて、はっと気づく。

 何も考えて、こなかった。

「んー、もう。じゃあ、このまま指をくわえて、渡辺先生とサクラちゃんが、アレしたり、コレしたり、○○××△△したりするの、見てろって言うんですかっ」

 マキちゃんが、本当に指をくわえ、爪をガチガチかじりながら、言う。

「うむむ。手でも握ったら、偶然を装って、顔を出すか」

「それって、変装の意味がないんじゃ……」

「火事とか事故とか、何かアクシデントでも起こして、人目をひく」

「警察や消防のひとに怒られちゃいますよ」

 私の提案は、ことごとく西くんと木下先生に却下された。

「もう、アイデア出ない。水島くん、何か思いつかない?」

 薙刀で成敗以外に……と声をかけると、彼女はいなかった。

 拝殿前で、人のよさそうな老夫婦につかまっている。マキちゃんのすがるような目つきに呼ばれ、私は車椅子を走らせた。すっかり白髪の老人が、鼻眼鏡を直しながら、言う。

「おうおう、あんたらもご祈祷かえ? 快癒祈願?」

 私は、いや、まあ、とあいまいに笑った。

 確かにそういう設定で変装してきたわけだが……。

「ワシ、鼻の調子が悪くってなあ。年がら年中、花粉症ぢゃっ」

 グズグズ鼻をすすりながら、言う。実際は何かのアレルギーらしい。一緒にいたお婆さんが、おじいさんのツヤツヤの鼻をこすりながら、マキちゃんにぺこぺこ頭を下げている。

 巫女さん、ご祈祷をお願いします、だそうだ。

 なんだかなあ。

 投げやりな気分が、マキちゃんにも伝染したらしい。

 どこから取り出したのか、払え串をしゃんしゃん振ると、怪しげな祝詞(?)を唱えだした。

 ちちん……ぷいぷい……ちちん……ぷい……ふんがふんがの鼻よ……私にやつあたりされる前に……さっさと直ったほうがよいぞよ……ぷいぷい……ちちん、ぷい……せんせい……サクラちゃんたちが心配だから、ちょっと見に行って……ぷいぷい……でもなんで、私がこんなことしなきゃならないわけ……ちちん、ちちん、ちちんぷい……サクラちゃんの裏切り者、ワタナベ先生の浮気者……

 ゴリラになった西くんのほうは、小学生くらいのちびっ子軍団に囲まれていた。

 わーわーきゃーきゃー、騒ぎながら、子どもたちは西くんの顔を覗き込んだりしている。誰かが、大きな台湾バナナを西くんめがけて、放った。皮をむき、むしゃむしゃおいしそうに食べる西くんに、今度はブドウが渡される。その着ぐるみを着てたら、一生食うものには困らないかもな、西くん。

 いや、でも、ちと待て。

 フルチン、子どもらに見せたら、まずくないか?

 しかも、なぜか、しっかり勃起してるし。

 こっそり近づいて咎める。

「でも、塾長、犬や猫がフルチンだからって、咎めるひと、誰もいないっスよ。オレは今、動物なんスから、隠すほうが、おかしいっス……それになんだか、チョー気持ちイイっス」

 おいおい。

 もしかして、もしかしなくとも、西くん、露出趣味なのか?

 こら、そんなに足を広げるでない……子どもがあまりはしゃぐので、親御さんたちも三々五々、集まってくる……しっかし、こんなところにゴリラがいるの、どうして誰も不思議に思わないんだろ。

 黙って聞いていた木下先生が、くるっと車椅子ごと、きびすを返す。

「塾長。水島さんや西くんに負けないように、私たちもっ」

 そんな、変なところで対抗心、見せんでも。

 それに、ご祈祷にきた患者なんて、どんなふうに演技したらいいんだ?

「ううん。じゃあ、私に思いっきり、甘えてくださいっ」

 公明正大に許可が下りたので、私は車椅子から身をひねって、木下先生の胸に顔をうずめた。

「看護婦さん。祈祷を待たずに死にそうなんです。バストのほうは堪能しましたから、冥土の土産に、今度はヒップに顔をうずめさせてくれませんか……」

 尻フェチの醍醐味を堪能させてください……と言いかけた、そのとき。

 ごちんっ。

 後頭部に、ものすごい衝撃が走った。

 これは……いつもの、パターンだ。頭の後ろをさすりながら振り向くと、案の定、我が姪が仁王立ちになっていた。

 鬼の形相で、私をとって食わんばかり。

「桜子、デートの最中じゃないの?」

「マキ先輩と木下先生が心配で、抜け出してきたんじゃないっ」

 何、油売ってんのよっ。

 私の頭を、無理やり木下先生の胸から、引き剥がそうとする。

「だから、これは演技だってば。患者と看護婦に化けるための演技」

「演出過剰で、NGよ」

 桜子の怒りの矛先は、木下先生にも向かう。普段の自分を棚に上げて「スカート短すぎ」だと。前の職場の忘年会で支給されたというナース服は、確かに、病院よりキャバクラ勤めが似合いそうなデザインではあるが……。

「でも、急なことだったから……手持ち、これしかなかったんですよ」

 しゅん、となりながら、木下先生が言う。

 私はすかさず、とりなす。

「ばれないうちに、さっさと戻ったほうがいいぞ、桜子。渡辺先生、待ちくたびれてるかもな」

「そのほうが、いいわよ。私、嫌われるためにデートしてるんだからね」

「デートの中断以外に、何かアクション起こしたの?」

「待ち合わせの開口一番、神社で待ち合わせなんて、ジジくさって、言ってやったわ」

 しかし渡辺啓介は華麗に受け流した。

 それ、よく、塾長に言ってる台詞だよね、なんだかサクラちゃんが身近になった感じで嬉しい……と逆に大喜びだったと言う。

「うむむ。逆境に強いタイプというか、被虐趣味の持ち主なのかもしれんな」

 私のつぶやきに、あらぬ方向から返事があった。

「そんな。マゾなわけ、ないでしょう」

 声の主は、渡辺啓介だった。

「あちゃーっ。早速、ばれた」

「ばれたって……もしかして、尾行してきたんですか?」

「尾行だなんて。そんなわけ。あるわけないだろう。だって渡辺くん、君らの待ち合わせ、この神社だったんだろ」

 デートが始まる前なのに、尾行もへったくれも、ない。

「はあ、そうですけど……て、何で、待ち合わせ場所のこと、知ってるんです?」

「塾長たるもの、講師と生徒の行動なんぞ、なんでもお見通しなんだよ」

「はあ。しかし、その格好……」

「持病のシャクがでちゃってね。病魔退散のご祈祷にきたんだ」

 木下先生は付き添いの看護婦、祈祷担当に水島マキくん……というお決まりの説明をする。でも、当たり前なのだが、渡辺啓介は全然信じている様子ではなかった。

「なるほど。塾長、シャクってどういう病気です?」

 そんなもの、私が知るはずがない。レンタルビデオで水戸黄門か大岡越前でも借りてきなさい。やたら色っぽいお女中が道端にしゃがんで、通りすがりの主人公におなかをさすってもらいたがる、という病気だったような気がする。

「タクちゃんっ。どうしてそう、オゲレツなほうに説明を捻じ曲げるのっ」

 渡辺啓介は、我が姪のツッコミを無視して、快活に言い放った。

「そうですか。じゃあ、お大事に。サクラちゃん、行こうか」

「ど、どこにだい、渡辺くん」

「塾長には関係のない話ですよ」


 実際の車での尾行というのは、映画やマンガでみたいに、うまくはいかない。

 神社の駐車場から出発して十分、私のハイエースは、早速渡辺啓介に見つかった。

 裁判所脇から大街道を抜け、国道四十五号線に抜ける道は、いつでも車が混雑しているルート。仙台人である渡辺啓介のこと、運転で手一杯で、背後に注意する余裕なんてなかろう……と思っていたのに。

 プルプル。ぷるるるるるるっ。

「私の携帯電話だ」

 シンプルな着信音で、すぐに分かる。 

「桜子からだ。運転で手が離せない。マキちゃん、悪いけど、出てくれる?」

「はい……はい? ……はいっ……はぃぃ……はい! ……はぁい」

 様々なニュアンスの「はい」。マキちゃんは一方的に返事ばかりだ。桜子のヤツ、一体何をしゃべくりまくってるんだ?

「……サクラちゃんじゃなくて、渡辺先生でした」

 なんだか、どんより蒼白になったマキちゃんの顔が、車窓に映る。

「彼、なんていってたのかな?」

「先生が本当にものすごい病気持ちなら、いい病院、紹介しますって」

 皮肉のつもりかな?

「他には?」

「親心も分からなくはないけれど、サクラちゃんはもう大人なんだから、デートの監視なんていう、大人気ないことはよしたほうがいい」

「桜子を心配してじゃないんだけどねえ……それで?」

「それで……大人のデートにふさわしいことをしても、文句は言わないでくれ」

「ええっ」

「行き先は、登米の明治村らしいです。サクラちゃんのこれみよがしのつぶやき、聞こえました」

 河北警察署を過ぎて一キロほどいくと、風光明媚な北上川の河畔に出る。川幅百メートルはあるかというこの大河の流れはゆるやかで、鴨かシギか、たくさんの水鳥が浮いている。対岸は山が川岸ぎりぎりまでせり出し、青々とした水面と見事なコントラストを描いている。

 珍しそうに車窓にかぶりついていたのは西くんで、この道を通るのは初めてという。免許を取ったら、例のマッチョ好きの彼女と一緒にドライブに期待、などと太平楽を並べたてている。

 私は、ちらちら、マキちゃんのほうを伺う。

 理想の初デートは登米の明治村で、と言っていた彼女の心境は、どんなものだろう。

 いつの間に手にしたのか、薙刀を握る手が真っ白になっていた。

 途中、津山の町の中を通り、再び北上川の河畔へ。二十分ほども走り、登米大橋を左手に渡ると、そこはすぐに明治村だ。

 観光バスなんぞが停まれる大型駐車場には、遠山之里なる土産物屋が付設されている。

 桜子たちは目もくれず、観光パンフ片手に明治村に向かった。まあ、帰る間際、最後に回るのが順路なのだろう。が、私たちは時間潰しの意味もあって、まず買い物に走ることにする。何度となくきているので、迷わず定番の土産物を買い物カゴに入れる。ニンニク入りの一味唐辛子に、ブルーベリー味の羊羹、そして紫蘇酒。

「確か、蔵づくり商店街とか、あるんだよな。そこで、服とか売ってないかな」

 車椅子はとうに畳んでいた。しかし、リラックマ柄のパジャマはそのまんま。露骨に指さすひとこそ、いないけれど……。

「病院から抜け出してきた、アル中患者ってとこですよね」

 木下先生が、妙に的確な指摘をする。

 くっそー。スーツさえ着てれば。スーツさえ着てれば、どこから見てもモテモテの中年紳士に大変身できるのにぃ。

「そんな。塾長、ラフな格好も、悪くないですよ」

 木下先生のミエミエのお世辞に、私は甘いささやきを返す。

「先生も、そのナースコスプレ、とってもいいですよ」

 顔中の筋肉が弛緩しないように、口元をきりっと引き締めて言ったんだが、我が秘書には、どんな風に映ったんだろう。たたでさえ違和感ありまくりのナース服から、汗でうっすら下着が浮いて見えている。

「Tシャツでも買って、上だけでも着替えましょう。どうせなら、ペアルックってことで、どうです?」

「え。でも……上司と部下で、そういう格好をするというのは、教育上、まずいんじゃないでしょうか」

 それにペアルックなんて恥ずかしいです、と木下先生はのたまう。私は、ピシッと言ってやった。

「何を躊躇してるんですっ。塾講中とかならともかく、全くプライベートな時間じゃないですか。しかも既に恥ずかしい格好なんですよ。エロナース服。お金の心配なら、無用。私がポケットマネーで買ってあげますから」

 Tシャツだけで満足いかないなら、イヤリングでもスカーフでもペンダントでも、好きなもの、買ってあげますよ。

 私の優しく紳士的な申し出に、さしものカタブツ木下先生も陥落するかと思われたのだが……。

「こら、タクちゃん。そのエロジジイみたいな言い草はなんなのっ。モノで女の子の心を釣ろうとするなんて、サイテイッ」

 いいところで、我が姪が口を挟むのだった。

 しかし、こう頻繁にデートを抜けてくるなんて……渡辺啓介、心の広い男なのかもしれないと思う。

「桜子。こういうコトワザ、聞いたことない? 人の恋路を邪魔するヤツは、馬に蹴られて死んじまえ」

「だって、タクちゃん、渡辺先生の恋路の邪魔に来てるんじゃないの?」

「……」

「それに、マキ先輩はどこに行ったのよ。肝心の主役をほっぽって、セクハラしてる場合じゃないでしょ」

 はっ。言われて見れば、彼女の姿が見当たらない。

「ついさっき、彼女にも、Tシャツ、買ってあげたばかりなんだけど」

 脱ぎ散らかした桜子のジャージが、我がハイエースのダッシュボードに突っ込んであった。ズボラ娘もたまには役にたつ。下はそれを拝借することにし、上は観光土産からチョイスすることにしたのだ。歴女の水島マキのこと、武将云々のヤツか、明治村の歴史的建造物がプリントされたのでも買うのかと思っていたのだが……。

「何やら、農民の生活コーナーなるところに行ってだな、クワだのカマだのツルハシだの背中に大書してあるの、じーっと睨んでたぞ」

 今頃、車に戻って着替えでもしているかもしれん。

「あたし、来がけにチラッと見たけど、いなかったわよ」

「ううん。では……ワタナベ先生のところかな」

 彼女、単なるヘタレ・ムッツリ・イモ歴女コスプレイヤーでは飽き足らなくて、ヘタレ・ムッツリ・イモ歴女コスプレマニア・ストーカーにクラスチェンジしたのかもしれん。

「何、ノンキなこと言ってんのっ。てか、西センセもいないじゃない。もしや、二人っきりになるために、追い払ったとか」

「西くんか。『お客様、お店へのペットの持ち込みはご遠慮願います』とか言われて、彼こそ追い出されちゃったよ」

 このネタでいつまでも引っ張るのはどうかと思うから、このへんでやめておくけれど、石巻市内に戻るまで、西くんは一度もゴリラの変装がばれなかったのである。

「で、本当のところ、どこに行ったの?」

「知らん」

「もーっ。なんでそう、無責任なのっ」

「男子校出身だからな。バンカラかつ豪快に、美人とのデートを優先させるのだ」

 西くんに関しては、心配無用と思われる。下手を打って保健所に連れていかれるかもという懸念はあれど、渡辺啓介にばれることはなかろう。

「だからあ、そんなことを言ってるんでは、なくて……」

 桜子に促され、私は渋々店を出た。懐古館から天山公廟を通って、森舞台へ。車のところに戻ってるかもしれないと思い、教育資料館経由で再び遠山之里へ。でも、やっぱり見当たらない。ひょっとすると、春蘭亭とか警察資料館とか、町の南側の観光に行ったのかもしれない。携帯電話でもかけてみるか……桜子に頼もうとした矢先、城址公園で、なにやら高校生くらい人だかりを見つける。何気なく見つめると、中心には見慣れた巫女がいた。

 言うまでもない、我がイモ歴女、水島マキだ。

 梅か桜か、背の低い枝に手を伸ばし、一生懸命、割り箸の袋みたいなものを結びつけている。なんだか近寄りがたいオーラだ。傍らには、なぜか渡辺啓介がいて、マキちゃんの作業を手伝っていた。

 なんだ、私たちが協力するまでもなく、ちゃんとくっついたじゃないか……と思ったけど、どうやら早とちりらしい。

 野次馬の男の子のひとりをつかまえて、聞いてみる。

「あ。巫女さんと、あの男の人が、さっきぶつかったんです。ええっと……テクテク歩いてる巫女さんの後を、男の人が追いかけていて……声をかけても、巫女さん、一心不乱に歩いてて止まらなくて……男のひと、聞こえないと思ったんでしょうね、肩に手をかけたんですよ。そしたら、巫女さん、いきなり止まって……ドン。ぶつかって、二人とも、クタッと倒れたんです」

 おお。でかした、マキちゃん。

 背面アプローチ四十八手のうち、二十五手目「急停車」じゃないか。私のいないところで、できるとは。成長したなあ。先生、嬉しいぞ。でも、ぶつられて押し倒されちゃうのは、ちと、やりすぎだけど。

「それで……巫女さん、倒れた瞬間、手にしてた御神籤、ばらばらに落としちゃって。一生懸命二人して拾って、男のひとがぺこぺこ謝って……巫女さんが御神籤結びつけるのを手伝い始めたってわけです」

 なるほど。ところで、君らは何をしているわけ?

「本物でも、コスプレでも、巫女さん珍しいですから。写真でも撮ろうかと思って」遠巻きにしていたらしい。

 追いついた桜子が、言う。

「……あのまま、二人、くっつけること、できないかなあ」

 もはや、デートやら何やら、わけが分からなくなっていることでもあるし……と言いかけたそのとき、目ざとく渡辺啓介が、桜子を見つけた。

「トイレ、ずいぶん長かったねえ」

 ゆっくり、手を振っている。

 イヤミか、天然なのか、それとも単に思ったことを口にしただけなのか?

 渡辺啓介の爽やかすぎる表情から、内心はうかがい知れない。

 桜子はバツの悪さを隠そうともせず、デート相手の元へ、のぼっていった。

 前から思っていたが、とにかく彼はめげないタチらしい。

「これが終わったら、食事に行こうね」だと。

 相変わらず、爽やかに言ってのける。対する桜子のほうは……後ろ髪引かれる、という表現はこういう場面に似つかわしいんだろう。しきりに先輩のことを気にしていた。が「予約時間になるから」と渡辺啓介に引っ張られて、場を去った。

 私は木下先生と二人、しょんぼりしている巫女さんに、駆け寄った。

 落ち込んでいるヒマはない。詳しい話は、二人を尾行しながら、聞かせてもらおう。

 マキちゃんは、最後の一枚まで作業し終えると、私たちに従った。

「本物と間違われて、御神籤の処理、頼まれたとか?」

 私の質問に、水島マキは首を横に振った。すべて、自腹で引いてきたものという。

「どういうこと?」

 警察資料館近く、蓬莱山人句碑前で、怪しげな易者が御神籤を売っていた。マキちゃんは、徒然なるまま、引いてみた。単なる「吉」だった。とりわけ「恋愛運」の欄が、水島マキを落ちこませた。曰く「今は自分の恋愛より友情を優先に。片恋している友達を応援すれば、いずれ巡りめぐって、自分に福が返ってくる」だったという。

 これって、渡辺啓介のことは諦め、桜子との恋愛を応援しろっていう神様のお告げ?

 ウチのはよく当たるって評判なんですよ……とナマズヒゲを撫でながら、その易者は教えてくれた。いくら巫女さんでも運命は変えられません、などと偉そうに続けもした、という。

 話を聞いているうちに、マキちゃんの心の中で、ぷつんと何かが切れた。

 有り金をすべてテーブルの上に叩きつけると、マキちゃんは勢いよく籤をひきまくった。易者がおろおろするのもかまわず、大吉が出るまで、恋愛運絶好調という卦が出るまで、引きまくったというのだ。

 そして、悪運へタレ運はすっぱり忘れるべく、マキちゃんは御神籤を適当な木に結びつけることにした。

「……そこで、ワタナベ先生に呼び止められたんです。トイレを探しに行ったけど、いなかったって言ってましたから、サクラちゃんを探してたんだと思います」

 そこから先は、先刻承知だ。

「うむむ。接触できたのはいいけれど、ハズレ籤の山なんて、恥ずかしいところ見られちゃったね」

「はい。でも、いいんです。今度こそ、気持ちがちゃんと伝わったと思うから」

 渡辺啓介は、ごめんねと言いながら、マキちゃんの肘をとって起こしてくれた。朱色の袴の埃を払ってくれ、ついでに「そのコスプレかわいいね」とはにかんだ表情で褒めてくれた。ヘタレのマキちゃんは、うまく返事ができなかった。渡辺啓介は、彼女に怪我の有無を尋ねた。いつもなら、ここでさらにヘタれるところ。

 しかし、今回は違った。

 マキちゃんは、薙刀で鍛えているから平気の平左だと、言い張った。怪我してないところを見せるため、素手のまま、薙刀の型をちょっと披露した。渡辺啓介の顔が「意外だ」と言っていた。

「引き締まった顔、逆にかわいいとか、思ってたかもね」

「そこまで、知りません」

 気がつくと、二人、籤を拾っていた。

 散らばった籤がみな「大凶」「凶」「吉」ばかりなのを確かめて、渡辺啓介は彼女に憐憫の視線を向けた。そして、何のためにこんなに引いたのか、気づいたのだ。マキちゃんは、ただ一生懸命拾っていた。じっと見つめられている横顔が熱くなっていく。熱っぽい視線は、木に結びつけているときも続いた。

 ここで、何か会話が出ていれば。

 マキちゃんを完全に見直して、今度は彼女とデートを……という気持ちになったかもしれない。

 しかし、肝心なところでマキちゃんはヘタレた。

 彼氏に視線を向けず、渡された籤をひたすら木に結わえ続けた。

「……で、気まずくなっちゃったところで、先生たちが来たってわけです」

「なるほど」

 マキちゃんの話を聞く限り、渡辺啓介の気持ち、ぐらついた感じがする。

「決定打は打ち損ねたってことか。ウチの姪がもうちょっと、頑張って嫌われてくれればいいのに。ワタナベ先生の前で、一発オナラをかますとか」

「……庭野先生。サクラちゃんだって女の子なんですから、そんなデリカシーのないこと、口が裂けても頼まないでくださいね」

 うむむ。本人たっての頼みとあれば、仕方がない。

「それに、ちょっとくらい気持ちが傾いたところで、まだまだサクラちゃんには負けてるような気がするんです。さっきだって、喜び勇んで、引っ張っていったじゃないですか」

「どうしても桜子とお昼を食いたいから……とは限らないだろ。予約時間、とか言ってたじゃない。バカ高いコースを頼んじまって、お金がもったいないから、という可能性もある」

 たどりついた料亭は、北上川河畔の東海亭、ウナギ料理で名を馳せている名店だ。

「お昼のコースでも、お一人様三千円くらいしたような……」

 接待で一度来たことがある。まさに舌の至福が味わえる。古びた民家のような内装が、明治村に似つかわしい雰囲気。特に二階の高い天井を見ながらの席がよい。ちょっと贅沢な大人のデートには、確かにもってこいだが……デート妨害団の面々に奢ると、万札が飛んじまうのか……。

「塾長。みんなで一人ぶんのうな丼をつっつく、じゃどうです?」

「いやね、木下先生。君と二人っきりだったら、丼じゃなくてうな重のコースでも奢ってあげるところだけどね……」

 言いかけて、やめた。

 マキちゃんが、真剣な目で、細長い駐車場の奥を見つめている。

「分かった。マキちゃん、いったん着替えてから、行こか」

 はい、と返事をする彼女のこぶしに、また力が入ったようだ。

 二十六枚目でようやく引き当てたという「大吉」が、私の視界の端にひっかかる。

「至誠、相手に通ず。恋愛成就」

 ここまで頑張ってきたのだ。本当に、通じさせねば。


 女子の着替えは、何かと時間がかかる。

 東海亭にいの一番に戻ったのは、私だった。四人分の予約席を頼もうとすると、断られた。もう、ウナギ売り切れだという。財布に優しい結末に、ほっと一安心した。が、これではマキちゃんのヤキモキは直らないだろう。幸い店内はぎっしり満杯のはず。渡辺啓介がウチの姪に不埒なことを仕掛ける余裕はないはず。

 二番目に戻ってきた木下先生に、その旨を伝える。

「そうですね。でも、私たちもお昼を食べないと」

 うむむ。ウナギはともかく、ラーメンやカツどんくらいなら、奢ってあげられるかも。

 三番目に戻ってきた西くんが不満の声を上げる。

「渡辺さんたちがウナギなのに、こっちはラーメンすか」

 贅沢は言うでない。君が木下先生なみの絶世の美女というなら、奢ってあげないでもないが。あ。あと。ぬいぐるみの上にTシャツって、暑くないの? それに、いいかげんフルチンしまいなさい。

「ラーメン食べるくらいなら、この油麩丼とかいうの、どうです?」

 マキちゃんに借りてきたという、別口のパンフレットをめくりながら、木下先生が言う。

 明治村のほうぼうに、この名物料理を出している店がある。値段もお手ごろ。バリエーションも豊富。添えられた写真を見ると、ボリュームだって納得のいく量。

 よし、これにしよう。明治村にこだわりのあるマキちゃんのこと、お薦めの店もあるかもしれない。

 しかし……。

 最後に戻ってきたマキちゃんは、私たちの決定に、異を唱えた。

「私、ワタナベ先生たちを見張れるところで、食べたいですっ」

 ああ、なんていじらしい乙女心。

 けど、そんなことを言っても、店内は見えない。しょうがないので、コンビニにオニギリの買出しに行き、駐車場で食べることにした。

 西くんが、不平たらたらで、言う。

「塾長。おかず、何も買ってこなかったンすか。せめて沢庵の一切れでも……」

 さっき、木下先生に色々買ってあげたお陰で、カネがない。

 君こそ、財布とか持ってこなかったの?

「野生動物は、お金なんて持ち歩かないものッスよ」

 巫女さんも、看護婦さんも、その点同じらしい。

「西くん。野生動物なら、嗅覚は鋭いよな。このいい匂いが、分かるか?」

 駐車場の端まで、胃袋を刺激するような妙なる香りが流れてきている。言うまでもない、ウナギをじゅーじゅー焼く匂いだ。

「おかずを買ってきたところで、どうせ皿を置く場所がない。だから、この匂いをおかず代わりにして、オニギリをパクつくのだっ」

 それっ。

 くんくん、パクッ。

 くんくん、むしゃっ。

 くんくん、くんくん。

「塾長、その最後の、何スか?」

 ご飯はいったんストップして、おかずだけ味わっている音だ。

「ううう。塾長、オレもおかずだけ食って、いいっスか?」

「おうよ。好きなだけ、堪能しろっ」

「……」

 木下先生のジト目を無視して、私たちは匂いをかぎまくる。

 くんくん。くんくん。

「ううう。塾長、なんかミジメっすよお」

「今ごろ、桜子は何食ってるんだろうな。うな重に肝吸い、それに骨を焼いたヤツかな。あれぼりぼり香ばしくてうまいんだよなあ」

「聞いてるだけで、ますますミジメっすよ……て、塾長。このオニギリの具、梅干ばっかじゃないっスか」

「一番安かったんだよ、ウメ」

「梅干とウナギなんて。食い合わせ、最悪っスよお」

「何、ウナギは食ってるわけじゃない。匂い嗅いでるだけだから、大丈夫だって」

「でも、胸焼けしそうなのは、一緒っすよお」

 情けない声を出しながら、それでも人一倍オニギリにかぶりつく、西くんだった。

 食欲がイマイチ進まないのがマキちゃんで、いてもたってもいられないという風情。

 私は、お茶を差し出しながら、言う。

「……マキちゃん、桜子に電話、かけてみたら?」

 電話口からは、ゴモゴモごもった声が聞こえてくる。おおかた、また、口いっぱい食い物をほおばりながら、しゃべってるのだろう。

 マキちゃんのほうは、例によって、はいはいはいの、繰り返し。

「……食べたら、腹ごなしに北上川河畔を散歩するそうです」

「うむむ。じゃあ、こっちも先回りしようか」

「はい」

「桜子、他に、何か言ってたかい」

「もう一度、さっきみたいに背面アプローチしてみてって、言われました。今度こそ、うまくいくはずだからって」

 桜子の自信の根拠が、どの辺にあったかは、分からない。

 けれど、結果としては、うまくいったのだ。

 河畔の散歩と聞いて、私たちは東海亭から河川敷に向かった。登米大橋を渡った対岸は、車道がメインでぶらぶら歩きするスペースがない。だったら、散歩コースは、川のこちら側しかない。東海亭の前を、石巻に向けて走ると、防波堤の上を通る道に出る。私たちは、いや正確にはマキちゃんは、桜子たちを待ち受けるべく、急斜面の川原に陣取った。

 暑さしのぎを兼ねて、「監視団」は街路樹の陰に隠れた。

 どのくらいの時間が経ったろう。

 手持ち無沙汰のマキちゃんが、足元のヨモギをむしり、クローバーをむしり、タンポポをむしり……指先が緑色の汁ですっかり汚れるようになったころ、桜子たちは、やっときた。というか、通り過ぎていこうとした。

 冷たい雨粒に気づいたのは、姪たちが足早にかけるのを見てからだった。

 天気雨だ。

 夕立ほどの強さではないけれど、それは突然やってきた。空を見上げると、どこまでも青い空に白い雲が続いている。場違いな雨だ。これで少しは涼しくなるかもな、私はそんな感想をもった。

 一時撤退してきてもよさそうなのに、マキちゃんは動こうとしない。

 じっと、川面を見つめたまま、動こうとしない。

 夏風邪でもひかれては困るから、マキちゃんを回収してこよう。

 私たちが木陰から出ようとすると、肘を掴んでとめられた。

 いつの間にか後ろに回っていたのか、桜子だ。首を左右に振って、言う。

「タクちゃん。それは、タクちゃんの役目じゃないって」

 桜子が最後まで言い終わらないうちに、渡辺啓介の姿が見えた。するする、見る間に近づくと、マキちゃんが肩を叩いている。マキちゃんは、彼氏と手をつないで、立ち上がった。

「でも……これで、大団円なのかな」

 なんとなく、あっけない、幕切れ。

「劇的なんて言葉、最初から似合わなかった女の子なのよ、マキ先輩」

「まあ、そうだ」

「それにしても……先輩たら、あんなベタなTシャツつけて」

 マキちゃんがさっき買ったばかりのTシャツには、背中に「すき」とバックプリントしてある。まあ、漢字じゃなくて、よかった。本当は「好き」ならぬ「鋤」なのだから。

「うむ。我が背面アプローチに、失敗なし、てとこかな」

「はんぶんは私のお陰だと思うな。さっきね、きっぱり、ワタナベ先生を振ってやったの」

「ほう」

 ちょっとくらい邪険にされたぐらいで、めげるタイプじゃなかったと思うが。

「告白はまだだけど、好きな人がいるからって、言ってやったの。身近に、ずっとずっと思ってる人がいるからって」


 その夜。

 私、中国浙江省から届いた青田石を吟味していた。

 篆刻専用ルームは北向きの部屋で、しかも板張り。日が落ちるとひんやり涼しい。ささやかな裏庭からヒグラシの鳴き声が聞こえる。風鈴がもう少し鳴ってくれれば、風情満喫というところ。でも、まあ、画仙紙がパタパタ鳴らないだけ、いいか。何事も過ぎたるは及ばざるがごとし……。

「タクちゃん、何、感傷に浸ってんのよ」

 背中にドカッと錘が振ってくる。桜子が、立膝でおぶさってきている。どうやら風呂上りなのか、身体にほとんど何もつけてない様子。私は、後ろを振り向きもせずに、言う。

「桜子。裸で家の中うろつくの、やめなさい」

「バスタオル、巻いてるよ。それにどうせ、二人っきりじゃない」

「そんなんだから、いつまでたっても、彼氏、できないんだよ」

「できないんじゃなくて、作らないの」

「ずいぶん強気の発言だ」

「実際、今日、デートしたじゃない。私、本当はモテるんだから」

 言いながら、さらに体重をかけてくる。

「あ。タクちゃん。もしかして、コーフンしてる」

「するわけないだろ」

「じゃあ、ペッタンコ胸だって、内心バカにしてるんでしょ」

「してない、してない」

「じゃあ、一体、何考えてたのよ」

「なんだか、いつの間にか、ずいぶん大きくなったなあって、さ」

 初めて桜子をおぶったのは、祖父母の葬式のときだった。

 事故当時おたふく風邪で寝ていた桜子は、祖父母の死に目にも立ち会えなかった。葬儀の最中は、手漉きの伯母に面倒を見てもらっていた。けれど、田舎の葬儀というのは、親族女性が忙しく立ち働かねばならないものだ。台所にたびたび呼ばれる伯母の代わり、桜子を見舞ったのは私だった。昔話に花を咲かせる弔問客の相手に、うんざりしていたこともある。受付で正座し、弔問客に頭を下げるのに、疲れていたこともある。

 当時の桜子は、既に「死」の意味を、よく分かっていた。

 ちょっとだけでいいから、お別れにおじいちゃん、おばあちゃんの顔が見たい、ともせがんだ。私は、他の大人同様、首を横に振った。風邪が治ってないから……というのが建前だった。けれど、支社の顔に事故の跡がくっきり残っているのが原因だった。死化粧でもごまかせないくらい、桜子の祖母の額は窪んでいた。祖父の首筋から頬にかけては、タイヤのパターンがうっすら浮かんでいた。線香をつけては悪寒の窓を開ける客たちも、長く見つめてはいなかった。

 夫婦一緒に天国に行くなんて、ある意味幸せじゃない、と言ったのは、そのころ二度目の結婚を果たしたばかりの、私の姉である。親族一同から、不謹慎なとたしなめられていた。私も肩身の狭い思いで、やり取りを聴いていた。けれど、今、こうして時折恋愛相談なんぞをしてみると、姉の考えのいったんも、理解できるような気がする。

 後日、おたふく風邪が治ってから、桜子を墓参りに連れていった。

 庭野家の菩提寺は女川だったので、車での送迎だ。駐車場からお墓まで、五十メートルほどだったろうか。勇んで上っていった桜子は、途中、足をくじいた。

 それでも泣き言ひとつ言わず、花を上げ、線香を上げ、おじいちゃんおばあちゃんにお別れの言葉を告げた。駐車場まで降りる途中、桜子は足の痛みを言い出した。

 私は、姪に背中を貸した。

 ゆっくり、衝撃をくわえないように、降りたつもりだったけれど、桜子は途中、シクシク泣き出した。私は立ち止まって、桜子をあやした。そんなに痛かったのかと聞くと、桜子は私の首に小さな腕をぎゅっと巻きつけ、違うのとつぶやいた。おじいちゃん、おばあちゃんと何度も繰り返した。

 そうか。お別れにきたんだもんな。

 これからは、私がおじいちゃん、おばあちゃんの代わりになったげるから。

 桜子は、私の背中で、こっくりうなづいた。

 車に戻るまでには、小さな寝息を立てていた。

 あの墓参りがなかったら、たぶん、この二世帯住宅には、入ってなかったろう。

 固定資産税もバカにならないし、いっそ二世帯住宅を解体しようか……という話に「おじいちゃんおばあちゃんの家だから」と強引に反対して取りやめさせたのは、桜子だった。

 そして、親族一同の反対を押し切って、この空き家に私を引っ張ってきたのも、また桜子だったのだ。

「……あのときの、小さな桜子を思い出した。なんだか、ちょっとしんみりしちゃったよ」

「タクちゃん、ズルいよ」

「何がだよ」

「何がって……自分だけ、感傷に浸っちゃってさ」

「桜子も遠慮なく、浸ればいいだろ」

「そういう気分に浸りたくて、きたんじゃいもん」

 まあ、そうか。バスタオル一枚で、子どものころの悲しい記憶を呼び起こすひとは、いない。

「浴衣でも、着てくればよかったのに」

「だから、そういう気分じゃないってば」

「桜子。浴衣とか、嫌いか?」

「嫌いじゃないよ。浴衣とか、作務衣とか、着物の匂いは好き。墨とか紙とか、この部屋の匂いも、大好き」

 言いながら、私の作務衣に鼻を押しつけてくる。

 そう言えば、子どものころから、そうだったな。

 あの、最初におんぶしてやったときから。

「でもね……マキ先輩の嬉しそうな顔を見たあとは、もっと違う気分に浸りたい」

「きっぱり振られた渡辺くんも、そう思ってるかもな」

「タクちゃん、なんか、意地悪ねえ。きっぱり、ゴメンナサイって言ったときの話、知りたい?」

「知りたくない。というか、誰に聞かれても、黙ってるべきだと思うな」

「私は今、しゃべりたいんだけど」

「渡辺くんの気持ちになってみろよ」

「それを言うなら、私の気持ちになってよ」

 ゆっくり、桜子の腕をほどくようにして、私は後ろを振り向く。

 いたずらっ娘が、くすぐったいような笑みを浮かべている。

「ねえ、タクちゃん。女の子が背中を空けておく背面アプローチがあるなら、こうやって、男のひとの背中にダイブするアプローチもあるんでしょ。前面アプローチ? それとも、オッパイぎゅっアプローチって、言うべきかな?」

「そっちのほうは、使う場面が根本的に違う」

 背面アプローチは、全く片思いの相手に使う、アプローチ。桜子の言う、前面アプローチのほうは、友達とか、知人とか、腐れ縁とか、恋人未満からなかなか進展しない場合に使う、アプローチなのだ。

 マンガなんかでは強調されるけど、本来、おっぱいの大小は関係ない。

「ふーん。ちょっと、教えてよ」

「無理。本気でやりだしたら、本一冊書けるくらいの分量になるし」

「そんなこと言って。私が誰か、男の人に使うのが、心配なんでしょ」

「……」

「私がある日突然、彼氏とか連れてきたら、びっくりする?」

「びっくりはしないけど、少し寂しくなるかもな」

「わ。それって、本音の本音?」

「愛娘を嫁に出す、父親の気分かな」

「それだけ?」

「うむ。妹の幸せを思う、兄の気持ちかな」

「もひとつ、いっちょう」

「これ以上、何もないよ」

「もっとちゃんと、胸に手を当てて、考えてみてよ」

「うむむ。恋のライバル出現に焦る男の気持ち。これで、いいのか?」

「よろしいっ」

 くしょん、くしょん。

 ぶるるるるっ。

「……ちょっと、何か着てくるね」

「そうしなされ」

 やれやれ。

 私は小走りに立ち去る桜子を見送ったあと、青田石に戻った。

 桜子の祖父母も、草葉の陰で苦笑しているに違いない。

 まだまだ、子どもだ。

 けれど、いつまでも子どもじゃないかもしれない、というところか。


 そして、この次の日曜のこと。

 私は桜子と一緒に、水島マキの服装チェックをしていた。

「持ち物も当然チェックよ、先輩っ」

 桜子にうながされ、慌てて水島マキは手提げの口を開ける。

「ハンカチ、ちり紙、リップクリーム……」

 授業が始まったので、塾の講師室には、私たちしかいない。

 窓から蝉の鳴き声が聞こえる。自動車の行き交う音も、かすかにする。

 そわそわ落ち着かない水島マキの肩を、桜子がバンバン叩いて、言う。

「大丈夫よ。とって食われるわけじゃ、ないんだから」

 そう。言うまでもない。

 念願かなって、マキちゃんはとうとう、渡辺啓介とデートすることになった。

 もっとロマンチックな場所を選べばいいのに、二人の待ち合わせ場所は、ウチの塾。車を長時間止めておいて、文句を言われない場所だから……とは渡辺啓介の弁。でも本当のところは、地に足がつかなくなったマキちゃんを心配して、かなと思う。ここなら、桜子がいる。私も待機している。木下先生も西くんもいて、とにかくデート前のはやる気持ちを抑えるのに、最適ではある。

 もうすぐ夏休み突入ということで、塾自体は休日ナシで開講している。教室から外を覗こうとする野次馬を追っ払い、私はマキちゃんを駐車場へと誘った。

 服装は、私と桜子で選んだ「庭野スペシャル」。

 偉そうな命名だが、実は単なる水色のワンピースだ。ノースリーブで肩が冷えるので、薄手のボレロをあわせ、仕上げはリボンつきの麦藁帽子。マキちゃん自身は、桜子みたいなボーイッシュな格好をしてみたかったらしい。しかし、私も桜子も、これには大いに反対した。人には似合い、不似合いがある。純然たるイモ娘のマキちゃんが、たとえば東京の流行を追ったところで、垢抜けたギャルになることはない。似合わないぶん、逆に損だ。イモ娘には、イモ娘なりの魅力がある。テレビや雑誌の流行廃りは無視して、自分がもっとも輝いて見える分野でおしゃれをする。当たり前のことを当たり前に受け入れたマキちゃんは、お世辞抜きで、かわいく見えた。

「そういえばタクちゃん。渡辺先生に、イモ娘の洗脳、したの?」

「まあ、ちょっとね」

「サクラちゃん、庭野先生。そんなに心配しなくても、大丈夫ですよ」

 私たちの会話を聞きつけ、マキちゃんが元気はつらつに振り向く。

「先週の尾行で、もう予行演習はじゅうぶんですから」

 言うまでもなく、デートの行き先は、登米明治村だ。

「それに、背面アプローチも、完璧にマスターしましたし」

「本当? 完璧?」

「ええ。本当に。『窮鳥』だって『抱卵』だって、他の四十五手だって、自由自在に使えます。ただ、四十八手目は、使えても使わないと思いますけど……」

 苦笑するマキちゃん。自分の言葉を証明するかのように、くるんくるん、バレリーナみたいに玄関口で回転してみせる。

 私は深くうなずき、言った。

「よし。それなら、背面アプローチ、最終講義だ」

「はい」

「……もう、後ろを振り向くのは、やめなさい」

 そもそも、背面アプローチは、引っ込み思案で、好きな男の子の前になると、モアイ像みたいに固まってしまう女の子向けのものだ。既にデートの約束を決め、なかんずくドライブまでしてしまうマキちゃんには、必要ない。

 卒業のときだ。

「いつかはどこかで、彼氏に真正面から向き合わなくちゃ、ならないんだ」

 一緒に食事をするとき。

 次のデートの行き先を決めるとき。

 友達に紹介してもらうとき。

 ケンカをするとき。

 仲直りするとき。

 一緒に泣くとき、笑うとき。

 彼氏のいいところを、改めて見つけたとき。

 自分のことを、もっと彼氏に知ってもらいたいとき。

 告白するとき、されるとき。

 そして……キスするとき。

「彼氏と向きあうのは、自分自身と向き合うことでもある」

 できるかな?

「はい」

「正面からのぶつかりあい、時には傷つくこともあるかもしれない。でも、今のマキちゃんなら、大丈夫だ」

「先輩、例のお守り、忘れないでね」

 言うまでもない、恋愛成就の御神籤だ。

「うん。ありがとう、サクラちゃん」

 痺れを切らした渡辺啓介が、迎えに来た。さりげなく手をつないで、二人、駆け出す。

「がんばってね」

 桜子が手を振る。マキちゃんが開いている手で、振りかえす。

 私も姪と一緒に手を振って、見送った。

 がんばれよ。先生も、応援してるからな。




 

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