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「どんなに若作りしてもムダよ。
私がいるかぎり、オジさんはおじさんなんだからねっ」
教卓の端をバンバン叩きながら、姪が言った。
正確には「大姪」だ。
彼女の剣幕にびっくりして、質問にきていた学生たちが、離れていく。
といって、目を三角にしたり、呪いの言葉を吐いたりしながらではない。三々五々、姪にバイバイと手を振って去っていく。クスクス、ニヤニヤ笑いながら、去っていく。
私も姪と一緒にバイバイと手を振りながら、学生さんたちを見送る。
「鼻の下、伸ばしてんじゃないのっ」
思いっきり、足を踏まれた。
私が飛び上がったのを見て、廊下に出た学生さんたちの笑い声が、大きくなる。
姪は人気者だ。
というか、この塾の名物女だ。
「桜子。営業妨害だぞ」
質問受付は、塾講師の重要アフターサービスのひとつ、だ。口をすっぱくして毎度言い聞かせているのだけれど、ウチの姪は聞く耳もたない。
わがまま、だ。
小学生みたい、だ。
「何が質問よ。単に雑談してたくせに」
図星であった。
今日、私は珍しくジージャンにジーンズ姿であった。桜子に「若作り」とこばかにされたゆえん、である。
でも、若作りで着てきたわけではない。
単なる不精だ。
私の颯爽たるスーツ姿には、少なからぬファンがいる。これ目当てで、我が塾生となっている女子学生もいるとか、いないとか。さきほどだべっていた女の子たちも、その口。
「今日は背広じゃないんですか? 水玉のネクタイかストライプのか、トトカルチョしてたのにぃ」と悔しがっていた。
ああ、しかし。
「ネトゲのやりすぎで、着替えるヒマがなかったんでしょ」
「そのとおり。再三言うけれど、分かってるんなら、邪魔せんといてくれ」
「違うわよ。私も、相談に来たの」
「桜子が?」
「そうよ。恋愛相談」
三十路を突っ走って、早ウン年。
私は今、学習塾の経営をしている。
発端は、学生時代の、アルバイト代わり、だ。軽い気持ちではじめたのが、当たった。今では専任講師三人に、大学生のアルバイトを五人抱える。当たり前だけど、就職氷河期も、リストラも無縁の人生だ。
経営には経営の苦労というものがあるのだけれど、サラリーマンの道を進んだ友人たちには、分からないらしい。ここ数年、顔を合わせるたび、「宮仕え」の苦労を聞かされる。いや、そればかりじゃない。
一通り愚痴を聞かされたあとは、絡まれたりする。
「苦労知らず」
「お山の大将」
「死んでしまえ」
親しい友人ばかりじゃない。同窓会なんぞで疎遠になった人たちに会っても、同じ。なぜか、散々クダを巻かれるのだ。
「年甲斐もない若作り」
「生徒たちから精気を吸い取ってるんだろ」
「ハレンチ教師」
若く見えるのは単なる童顔のせいなのだけれど、誰も言いわけなんぞ聞いてくれない。
ましてや「若い精気」なんて、吸いとってない。
ここのところは大事なので、もう一度繰り返しておきたい。
まさか生徒に、手は出せない。
そして……今まで、本当に、ホントにモテなかったんだってばっ。
我が姪、正確には「大姪」もオジと一緒で、この道にはトンとうとい。
はいっ、はっきり言ってモテません。
なにか遺伝子が関係しているのかも。
見てくれは、悪くないと思う。
少なくとも、貧乳マニアにはウケると思う。「デレ」なしのツンデレ好きにはウケると思う。「女の子にモテる女の子」の愛好者には、モテると思う。童顔ではあるけれど、眉毛が太くてイマイチ男の子みたいな女の子のファンには、ウケると思う……。
あ。
いちおう、褒めてるつもりです。
服装には、それなり、気を使っているみたい。
そう、この点ばかりは、普通の女の子と一緒ですね。
桜子の高校(我が母校でもある)には、制服がない。私が在学中には「下駄で登校禁止」とか「他高校の制服で登校禁止」「無地の白Tシャツで授業を受けること禁止」とか、いろいろやかましい規定があった。
今は、どうやら、何もないみたい。
けれど、学生たちは案外と保守的で、制服じみた私服で登校するとのこと。
私の在学中には、ランドセルをしょってきた奴あり、スカートをはいた男子あり、マントを羽織ったバンカラ応援団あり……とにぎやかだった。
当時は男子校だったせいもあるかもしれない。今は、共学だ。
現在、学校ご推薦の「高校生らしい服装」というのは、「百メートルを全力疾走できる格好」。
桜子は、でも普段ミニスカート姿だ。
そう、いまどきの女子高生の制服と、一緒。
いや、確かに全力疾走はできるだろうけれど。
一生懸命走れば、スカートの中身が見えてしまう。
私の指摘に、姪はあっさり言ったものだ。「だって、こんな格好できるの、高校生のうちだけでしょ」
これも、ささやかな女心の、発露なのかも。
でも、ここまでがんばっても、彼氏いない歴、更新中なんだよなあ……。
それで、だ。
両親も最近は心配しているようだ。
あまりの男気のなさに。
「リボンをつけたり、カチューシャをつけたり、上も懲りなさい」だの、「せめて髪を肩くらいに伸ばせば」だの、色々とうるさいらしい。
普段は軽くかわす桜子だが、時には感情を爆発させることもある。
そのときひきあいに出されるのが、私だ。
「そういう心配なら、まずオジサンにしてよ」
桜子の両親の反応は、色々だ。
娘の戯言を軽く受け流すこともある。
虫の居所が悪いときには、とばっちりがこっちにくることもある。
見合い話を一ダースも、持ち込まれたこともあるのだ。
「オジさんにはもったいなさすぎる」という理由で、桜子がみんな断ってくれたが。
ちなみに、桜子の両親は、娘に輪をかけて、タフ。
娘の妨害にも、めげるタイプじゃない。
見合い相手の現物を、わざわざ塾まで連れてきたこともある。
「年齢三十四歳、賞味期限は切れてますけど、まだまだイケますっ」とのたまう、妙に明るい看護婦さんだった。「お医者さんと不倫をしていて、婚期を逃しましたっ」と、やはり明るく告白してくれた。正直者は嫌いじゃないけれど、丁重にお断りした。というか、例によって、桜子が破談にしてくれた。
「彼女いない歴三十ウン年、自他ともに認める魔法使いの童貞には、刺激が強すぎるでしょ」。
……。
ちなみに、桜子の父親というのが、私の従兄弟にあたる。
塾で桜子が私を「大叔父」呼ばわりするのは、こういう血縁関係のせいだ。授業の合間には、聞こえよがしに友達とダベって、あることないこと、言ってまわる。
「ウチのオジさん、高校生のときから、オジさんくさかったひとなのよ。ハンコ彫りが趣味なの」
篆刻って言えよ。渋くていい趣味だと思うんだけど。やっぱり、ジジ臭いんだろうか。
「怪しげな易者と結託して、裏でボロ儲けしてんのよ。ハンコ売り。ネクタイのコレクションは、そうやって壷だの御札だのハンコだの、霊感商法したおかげなんだからねっ。それに、ほら、よく見て。本人がかっこいいわけじゃなくて、スーツがかっこいいだけだから。だまされちゃ、ダメっ」
そんなこと声高に喧伝された日には、生徒さんがみな、逃げちゃう。
けれど、商売の邪魔が、好きなのだ。
スーツ姿の私にファンがいても、バレンタインにチョコひとつもらえない「ニワノゼミナール」七不思議のひとつは、間違いなく桜子が原因だ。
だから、私も塾生の前で堂々、言い返したりする。「あ。気にしないで。ウチの姪、ごらんの通り、態度とお尻だけは大きいんだ。胸は全然成長してないんだけど」
……。
自己紹介は、これくらいにしておくかな。
どうもこう、身内の恥がダダ漏れになってくような気がする。
どっちにしろ、脇役兼、語り手の補助だしね。
桜子の恋愛相談というのは、もちろん、本人のことじゃない。
ウチの塾生のひとりで、桜子の先輩のことだ。
「タクちゃん受け持ちの、水島マキ先輩」
「みずしま……マキ……」
「毎週、水曜と金曜、国私併願型・小論文Aタイプ・クラス」
要するに、文学部・教育学部志望の女の子か。
「うーん。どんな子、だったっけ……」
「うわ。すんごい失礼。ていうか、タクちゃんファンの塾生みんなに、バラしちゃお。胸の大きさはチェックしてても、顔と名前は覚えてない卑劣漢だって」
「失敬な。ヒップの曲線も、ちゃんと覚えてるぞ。おしりフェチだし」
胸を張って、言う。
我が姪は、あからさまなため息をつく。
「タクちゃん。そんなんだから、年齢イコール彼女いない歴なのよ。セクハラ男」
「ふむ。男子校出身だから。バンカラかつ豪快に、下品なのだ。最初っから、分かってるだろ。恋愛相談は、他所で頼む」
「でも、タクちゃんじゃなきゃ、ダメなの」
「その、例の、マキちゃんのご指名か」
「そう。タクちゃんじゃ無理って、一生懸命とめたんだけど」
「……相談にはちゃんと乗るから、そのタクちゃんっていうの、塾ではやめてくれ」
教室を出ていく生徒さんを横目で見ながら、頼む。
「でも、タクちゃんはタクちゃんでしょ」
「一応塾長なのに、威厳がない」
「でも、かわいいニックネームで呼ばれたほうが、女の子にはウケるわよ」
「そうかな?」
「かわいいっていうのは、女の子の褒め言葉だし。ほら、マリモッコリとか奈良のせんとくんとか、プロレスラーのアントニオ猪木とか」
「そう……かな?」
「タクちゃんっ」
「何?」
「そんな、真顔で信じないでよ。私、罪悪感わいちゃうじゃない」
「……」
と、一通りからかわれた後、ようやく話は本題に入った。
というか、相談に来た当人が、話題を戻してくれた。「あのう……」
「いつから、いたのっ」
地味を絵に描いたような女の子が、桜子の陰から出てきた。
ちょっとそばかすが散った顔に、四角い黒縁メガネ。ほんのり赤い頬。白いシャツに、なで肩がしっかり分かるカーディガン。そう、カーディガン。完全、無地のヤツ。確かに雨が降った日には少し寒い。しかし、ゴールデンウイーク、過ぎたぞ。キャラ作りのために来ているんだろうか。でも、それなら髪も三つ編みオサゲとかにしたほうがいい。マニアにはモテるかもしれない。私のパーティのメンバー(ネトゲの話だ、もちろん)にも、三度のメシよりイモ娘が好き、という隠れファンがいる。
ええっと。
何の話をしようとしてたんだ。
あっ、そうだ。
恋愛相談。
「もしかして、スーツ姿の私の姿にメロメロになって、告白に来たとか?」
先輩の代わりに、姪が答える。
「アホタレ。そんなわけ。ないでしょ。しょっぱなから、はずさないでよ」
「今のは、水島君をリラックスさせようとして、かましたんだ」
「チョーつまんない。オッサンくさい」
「どうせオジサンだよ」
水島マキは、桜子と私を交互に眺めて、言った。
「仲、いいんですね」
「よくないよ」
「だって、いつも授業の終わりとかには、色々話してるみたいだし」
「見てきたように言うね。桜子とは、違うクラスなのに」
桜子のケタタマシイ笑い声や、私のブツブツ言うボヤキを、何度も廊下で耳にしたらしい。
「テレビで吉本新喜劇見てるより、面白いっていうのが、塾のウリのひとつって、聞きましたけど」
私は頭痛がしてきて、コメカミを揉んだ。
「それで、なんだかサクラちゃんがうらやましくて」
「なにが?」
「男のひとと、平気で会話できるところが」
「だって、ほら。タクちゃんと私は、叔父と姪だから」
「正確には、大叔父と大姪だけどな」
「タクちゃんは、黙ってて」
例によって、教卓の端を叩く。
マキちゃんが、おずおずと続ける。
「それでも、うらやましいの。私、従兄弟の男の子とだって、うまくしゃべれないもの。それに……他の先生とだって、塾生とだって、サクラちゃん、平気で話すじゃない」
「先生たちには、純粋に質問に言ってるだけよ」
「他の塾生たちには?」
「純粋に、質問されに言ってるんだ。桜子アニキ、本当は女の子っつうのはウソでしょ? なんてね」
「ちょっと、タクちゃんは黙ってて」
なんでも、このマキちゃん、男のひとと話すのは苦手らしい。家はお寺で、パパはもちろんお坊さん。お母さんは、長刀道場を経営しているという。万事が古風な家柄。妹の同級生の男の子(六歳)から電話がかかってきても、両親がシャットアウトしてしまうそうだ。
「同級生の飼い犬ポチ(六歳・オス)から電話がかかってきても、シャットアウト?」
「まだワンちゃんから電話がかかってきたこと、ありませんけど……たぶん取り次いでもらえないと思います」
なんだかヤケに真剣に答える。
場を和ませるつもりだったんだけど。
しかし、ねえ……。
いかに田舎娘とは言え、いまどき男のひとと話すのが苦手だなんて。
天然記念物なみ、かも。
「あれ? でも、今こうやって、私とは普通に会話してるよね?」
「そりゃ、タクちゃん、男と思われてないからでしょ」
「ちょっと待て。今、サラッと重大発言せんかったか?」
「空耳よ、空耳。タクちゃん、小さいことにこだわる男って、モテないよ」
「そうかなあ」
「まあ、先輩には、最初から男って思われてないわけだけど」
「あ。ほら。また、言った」
マキちゃんが、おずおずと挙手する。
とにかく、手でもあげないと、桜子のマシンガントークに割り込めない。
「はい、水島くん」
「庭野先生、ウチのお父さんと、どことなく似てるから……」
「ほほう。そうか。お父さんと」
「タクちゃんも髪が薄くなってきたからね。まあ、坊主頭には、ほど遠いけど」
「似てるっていうのは、ハゲてきたところだけかいっ」
「まあまあ。そういきり立たないで。せっかくの童顔が台無しじゃない」
「うむむ。そうかな」
「額に青筋立ててると、塾生の女の子たちに、かわいいって言ってもらえなくなるよ。ほら、マキ先輩も言ってやって。隣のトトロと似てるとか、ドラえもんに似てるとか、信楽焼きのタヌキに似てるとか、いろいろ」
なんだか……これは、さっきと同じパターンだ。
「トトロとかドラえもんはともかく、トックリ下げのタヌキは、ちと、なあ……」
「あら。じゃあ、ショ、ショ、ショジョジのタヌキ」
「一緒じゃん」
マキちゃんが悲しそうに口を挟む。
「あのう。私、お二人のマンザイは、じゅうぶん、堪能しましたから」
「……」
で、ようやく本題。
モジモジしてなかなか切り出せないマキちゃんに代わり、姪が単刀直入、説明する。
「この塾の先生、好きになったんだって」
「ウチのスタッフを?」
「理系向け数学担当、ワタナベ先生」
渡辺啓介は週一で講義に来てもらっている、現役の東北大生だ。百八十を超える身長と、優しげな目線が、ウリといえばウリだろうか。線は細いが、スポーツマン。渓流釣りとスノーボードが、三度のメシより好き。シーズン中は週末ごと、オンボロなレビンで蔵王に通いつめている。
「夏には弱いけどな。パイプ椅子を四つ並べて、クーラーの下で昼寝して、風邪ひいてたぞ、去年。夏季講習にドテラ着て、毛糸の帽子をかぶってきたのは、創塾以来、アイツが初めて、だ」
「ちょっと、タクちゃん。マキ先輩にとっちゃ、憧れのひとなのよ、ワタナベ先生。もっとこう、ローマンスをかきたてるような話、できないわけ?」
「うーむ。塾講にはもちろんスーツで来てもらってるけど、私服姿もこざっぱりしてて、カッコいいぞ」
しかし、これは、仙台人の特色かもしれない。
オタクだろうが喪男だろうが、それなり見栄えのする格好をして歩くのだ。秋葉原や、大阪・日本橋なら、今でもチェックのネルシャツにリュックサックという、定番スタイルを見かけることが、あるかもしれない。けれど、仙台駅東口、市で一番の電器屋街で「いかにも」なひとには、なかなか出会わない。
「へえ」
「仙台って、女の人も、きれいですよね」
「うーん。たぶん……名古屋と水戸には、勝っていると思う」
なんだか、また話が逸れた。
「で。何が問題なの?」
「ワタナベ先生にステディがいるかどうか調べて」とか、「好みの女性のタイプを調べて」とか、ならできる。
でも、彼の前で流暢に話せるようになりたい……とか言うのは、難しいぞ。
「それは水島君本人の問題だし、私より他のひとに相談したほうが、よさそうな話だし」
「先輩の相談って、そういうことじゃないわよ」
「じゃあ、どういうこと?」
「チャンスを作ってって、こと」
文型クラスの水島マキには、直接渡辺啓介の授業を受ける機会は、ない。
言うまでもなく、彼氏のほうは理系クラスを受け持っているからだ。
「じゃあ、見合いの席を作ってって、ことだね?」
「そういう、なんていうの、不自然な感じ、じゃなくて」
「何が不自然、だ。見合いっつーのは、日本古来からの、由緒ある交際術のひとつ、だぞ」
時間・金・情報探索にかけるエネルギーの、大いなる節約。恋愛なんてものは、ここ半世紀ばかり、キリスト教的価値観が蔓延してからの現象に過ぎない。
「クリスマスがなんだっ。バレンタインが、なんだっ」
「ふっ。マキ先輩、気にしないでくださいね。年齢イコール彼女いない歴の男の、寂しい雄叫びなのよ」
マキちゃんは、苦笑しながらも、慰めてくれる。
「でも庭野先生、今、モテてるじゃないですか。塾生の女の子たちに」
「……仮にも生徒さんだもの、手は出せないよ。ましてや、自分の娘くらいの年齢の女の子たちなんだよ」
正直、恋愛対象の異性って感じではないのだ。
「もうガケっぷちなのに、余裕こいてどうすんのよっ」
「こいてないって」
「あのう……」そう、いまはこんな話をしている場合じゃない。
「本題に戻るよ。見合いのところから」
喫茶店でも自習室でも、見合い場所には不自由しない。
渡辺啓介を呼び出すのも、難しくはない。
「仲人役は、もちろん私と桜子で引き受けてあげるし」
ここまで言うと、なぜか桜子とマキちゃんが顔を見合わせた。
二人、発言を譲るかのように、ダンマリしてしまう。
やがて、桜子がおずおずと切り出した。
「ダメな理由が三つ、あるのよ」
一つ目。そういうセッティングをすれば、水島マキの気持ちが、隠しようもなく相手に伝わってしまうということ。
「その、伝わっちゃうことの、何がダメなんだよ」
つーか、告白するための依頼、じゃないのか?
「だから、告白する以前に仲良くなる、チャンスがほしいって……」
「よく分からん」
「だからあ、いきなり告白する勇気がでないっていうか。あたって砕けろ、じゃあまりにも成功率が低いでしょ。少しは仲良くなって、OKもらえそうな感触、ほしいじゃない」
「うむ」
「それと。付添いつきの告白なんて、他力本願ぽいところ、印象あんまりよくないんじゃないの。たとえはよくないけど、友達経由の告白が成功しないのと、一緒で、ダメなのよ、やっぱり」
「そうかなあ」
「それに、マキ先輩を紹介する場面、想像してみなさいよ」
「というと?」
「この子はウチの塾生の一人で、大姪の先輩で、とか切り出すんでしょ」
「そりゃ、当たり前だ」
「でもさ、たぶん、ワタナベ先生、こういうと思うのよ。あれ、こんなひと、いたっけかなあ」
「うむむむむ」確かに、影の薄そうなタイプだしな。
桜子の言葉に、マキちゃんはしょんぼりうつむいてしまった。
まあ、第一印象で勝負するのは、超・苦手なタチなんだろうなあ。
「理由、その二。ワタナベ先生も、無口なタチでしょ」
「まあね」
「当事者より、仲人がぺらぺらしゃべりまくりってことに、なっちゃいそう」
「……」
そこまで言うと、桜子は急にだんまりになった。
「理由、その三っていうのは?」
桜子は横目で先輩を気遣いながら、言った。
「実はね……それとなく理系クラスの友達から伝わってきたことなんだけど、さ。ワタナベ先生、どちらかというと、元気印の女の子が好みなんだって。ちょっと気が強くて、スポーツもよくできて、けれど男にあんまり免疫がなさそうな」
「ほうほう。その、免疫がないっていうの、もうちっと、詳しく」
「ほら。彼氏のためにお弁当とか作ってきて、『べ、べつにアンタが好きで作ってきたんじゃ、ないんだからね』、とか言うタイプ」
「ずいぶんとベタなたとえだな。要するにアレか。ツンデレ娘」
そういえばヤツはコテコテの理系、スポーツも好きだが、パソコン中毒の男、でもあったな。
「それでね……具体的にこの塾ではどんな女の子が好みかって、その友達が質問したんだって」
「さすがに、水島くんの名前はでなかったか」
「うん。代わりにね……私の名前が出たのっ」
驚天動地だ。
「桜子、デレする相手がいないじゃん。ツンツン娘だな」
「うっさい」
まあ、でも……。
彼女の両親が聞いたら、盆と正月が同時に来たように、舞い上がるかもしれん。
水島くんには悪いが、ここはひとつ、桜子の味方をするべきか?
「いや、あの、その……あたし、ワタナベ先生、全然タイプなひとじゃないから」
「ふむ。成長したな、桜子。先輩にそこまで気を使うとは。でもな……ここでいつもの台詞、カウンターでお見舞いさせてもらうぜ。……選り好みしてると、行き遅れるぞ、桜子っ」
「え。いや。えり好みとか、そういうのじゃないでしょ、ワタナベ先生の場合。どちらかと言えば、高嶺の花とか、そういう感じ。女の子の憧れの的、みたいな」
「そうかなあ」
自分が男だから……というか、いい年したオジサンだから、そういうのには鈍くなっているのかもしれん。
ヤツに「女生徒に告白されました」なんて相談、持ちかけられたこともないしな。
まあ、渡辺啓介の受持ちクラスは工学部志望者がメイン、最初っから男子生徒ばかりなんだが。
「じゃあ、桜子。本当にいいのか。せっかく言い寄ってきた男とくっつける応援、せんでも」
「なによ、その、言い寄ってきたって言い方は。好みのタイプがどーのこーのっていう話の中で、名前が出てきただけだし。第一、あたし、ああいうかっこいいタイプって苦手だし」
どちらかというと、砕けたタイプ、一緒にいて肩の凝らないタイプがいいとのこと。
「背は高いほうが好みか? やはりスポーツ好きがいいか?」
「だからあ、タクちゃん、あたしの話はいいから」
「ふうむ。じゃ、水島くんの話に戻す。……しかし、好みのタイプが違うっつーのは、問題だな」
しょっぱなから、暗礁ってヤツだ。
渡辺啓介にネットで拾ってきたイモ娘の画像でも見せて、洗脳するか。
「ちょっとお、洗脳だなんて……でも、少しはしてもらったほうが、いいかな?」
水島マキが、困ったふうな顔で、けれど少しは期待がこもった顔で、私たちのほうを見回す。
引っ込み思案な性格は、分かるけど……。
ふと、気づいた。
「ところで、水島くん。渡辺啓介の、どこが気に入ったの?」
「戦国バサラの、伊達政宗に、雰囲気が似ているところです」
マキちゃんは、すらすら、藩祖公の生涯をおさらいしてみせた。
ふむ。
ただのイモ娘じゃ、ないらしい。
「イモ歴女か」
特訓は、週末、ウチに本拠を移して、行うことになった。
塾から車で、二十分。
北上川河畔が望める、昔からの住宅地だ。道々、海も見える。砂浜も見える。知られざる絶景だ。
日和大橋を挟んで、東側が漁港、西側が工業港。
工業港には、日本最大の、電話帳工場がある。
漁港は水揚量で日本第三位、船着場は日本最長を誇る。
旧漁港は銚子港同様川中にあり、昔はよく船が転覆しそうになった……。
運転中の私に代わって、姪が色々、解説役を買ってでる。
ここいらへんは、お父さん譲り、と言ったところか。
マキちゃんが、後部座席から、おずおずと言う。
「サクラちゃんと、庭野先生って、もしかして同居中なんですか?」
「同居とは、違うな」
「でも、同じお家なんでしょ?」
「うむむ。同じというか、違うというか」
二世帯住宅の片側に、私。他の一方に桜子一家が住んでいるのだ。
もともとは、桜子の祖父母が住まう予定だった。というか、実際、二年くらいは暮らしていた。
知合いの大工さんに改築してもらい、安く済んだローンを完済したその年、交通事故で、二人、あっけなく他界したのだ。
「八年前のことだよ。桜子が、小学二年のとき」
思い出したのか、桜子は急にしょんぼりする。
黙ってしまった我が姪を横目に、あわててマキちゃんが質問する。
「それで、庭野先生が、代わりに住んでるんですか」
「そう。用心棒代わり」
桜子のお父さんは、魚市場の職員さん。お母さんは助産師、昔風にいうと、産婆さんだ。
「産婆っていうと、字面から年食ってるみたいな感じだけど……年齢的にはかなり若いよ。産科専門の医院に勤めてるんだ」
当然ながら、両親ともに不規則な勤務形態。二人揃って夜勤が入ってしまうということも、全然珍しくない。
「で、子守役を兼ねて住み込んでるって、わけ」
しゃべっているうちに、到着した。
玄関口も、二手に分かれている。
下駄箱の中は、もちろん私自身の靴と、なぜか桜子の履物が一式、揃っている。
反抗期真っ只中の中学時代、両親と顔を合わせるのもイヤ、とこちらに移ってきた名残だ。
一階はリビングにバス・トイレ、それに仏壇を備えた居間と、年寄り向きの間取りになっている。猫額の広さだけど、裏庭だってついている。間口の広さ一間の、土間付・板敷きの八畳が、この庭に面して設えてある。桜子のおじいさんが、何に使うつもりだったのかは、今となっては分からない。現在は、私の趣味の作業場、篆刻専用ルームだ。
「ちなみに、もうひとつの趣味、ネトゲは寝室でやってるけどね」
足腰が弱って、階段を上がるのが億劫だからと、桜子のおじいさんは寝室も一階に設けていた。
「個人的に、この間取り、大変気に入っている」
「そりゃ、タクちゃんが、ジジくさいから」
「もう、それはエエっちゅうのっ」
そして、二階には……。
「すっごーい。ちょっとした、図書館ですねえ」
二階には仕切りがなく、本棚がところ狭しと並べてある。昔風の木組みの本棚には、もちろん書物がぎっしりだ。
桜子の祖父という人は、生前小学校の先生をしていて、童話や児童本のコレクターだった。
ただ、レア物、珍本のたぐいはない。
場所ばかりとる紙の束、と言ってしまえばそれまでだけど、これは桜子の祖父が、孫娘のためにと蒐集してきたものだ。捨てるに忍びなく、ヒマつぶしにも格好なので、そのままにしてある。
「あれ? じゃあ、サクラちゃんの部屋は?」
「屋根裏部屋。一番奥のところに、ハシゴがあるでしょ。あそこから、あがる。なんだか、子供みたいでしょ」
「いいえ。素敵です」
ちなみに、姪がこちらに泊まるのは、週の半分くらい。母屋にも、ちゃんと部屋を持っているのだ。
「ま。案内はこれくらいで。何かとってくるから、腰を下ろしてて、くれ」
桜子に、閲覧用のパイプ椅子を出してもらう。私は、一階の冷蔵庫に向かった。
果汁百パーセントのジュースを各種用意しておいたのに、二人のオーダーは「ミネラルウオーター」。
「君ら、ダイエットの必要なんて、ないだろ」
特に、Tシャツにスパッツ姿の桜子は、そうだ。私から見ると、やせすぎにさえ、見える。大きめのブラウスで体型を隠しているマキちゃんにしても、全然太っちゃいない。
私の指摘に、水島くんがすまなさそうに、言う。
「でも、体重、どうしても気になっちゃいますよ」
「私は、マキ先輩のお相伴だから」
なんでもいいんだけど、一緒のものを頼む、だそうだ。
パンプキンクッキーも買っておいたのだが、お土産に持たせることにした。
ちなみに、私は無調整の豆乳だ。
「ジジくさっ」
健康にいいんだぞ。渋い趣味と言ってくれ。
桜子は一挙にコップの中身を飲み干すと、私にあごをしゃくった。
「それで?」
「うむむ……それで、だ。水島くん」
「はい」
「君、本気で渡辺啓介のこと、好きか」
「え?」
「いや、だからね。君の覚悟がどれくらい本気か、知りたいんだよ。中途半端な気持ちなら、最初からやらないほうがいい。恋愛っていうのは、そういうもんなんだよ。分かる?」
「えっ、いや……よく分かりませんけど、分かるような」
「君には、今から修行をしてもらう。少林寺三十六房より厳しくつらい修行だ。『巨人の星』の星飛馬くらいの根性がないと、完遂はできない」
「ええっ。よく分からないけど、大変そうですね」
「大変なんだよ」
「タクちゃん、巨人の星だのなんだのって、たとえが古いって」
どうして、そう、ジジくさいのっ。
私は姪の茶々を無視して、続ける。演説の、一番いいところなのだ。
「師匠が命じたことは、黙々と実行する。疑問をさしはさまないこと、これが信頼の証だ」
「はい」
「これから、私のことを、先生と呼びたまえ」
「呼びたまえも何も、マキ先輩、最初っから言ってるじゃない」
「ええいっ。うるさいっ。塾の先生じゃなく、恋愛の先生ってことで、だよ」
「はいはい、分かった、分かった。それで、タクちゃん先生」
「うむ。この間、相談を受けたとき、ウエストのサイズ聞いたこと、覚えてるかい?」
「しっかり覚えてるわよ、スケベ先生」
「桜子、そういちいち、横から口を挟むな……それでだな。ここに股下マイナス二センチのマイクロミニスカートを準備した。これをはいて、ノーパン・ミニスカ姿になりたま……」
最後まで言う前に、姪のスーパーロケットパンチが飛んできた。ついでに、回し蹴りや金的蹴りやアッパーやフックや頭突きまで飛んできた……。
「ぼこぼこ」という表現は、言い得て妙、だと思う。
どこがへこんだわけではないけれど、私は「ぼこぼこ」になっていた。
頭から湯気を立てた桜子が、昔の特高警察よろしく、私を尋問にかかる。
「ほら、白状しなさい。片思い中の女の子の弱みにつけこんで、エッチなことをしようとしたって」
「いや、待て。確かにいくらは趣味に走ってるところはあるけれど」
「ああん? いくらか? 変態趣味、丸出しのくせに」
「本当に、まじめな恋愛修行なんだよ、これ」
途中で、ぐうぐう寝ないって約束してくれるんなら、理由、語るけど。
「約束するわ。けど、ノーパンにならなきゃならないっていう、合理的な理由、ちゃんとなければ、もう一回ボコボコにしちゃうわよ」
「……まず第一にだな、彼氏の前に出てもあがらないように……」
「度胸をつけるため、なんて、まさか言うわけじゃないわよねっ」
「いや、まさに、それも理由のひとつかな……」
ぼこぼこ。
マキちゃんがどうやら止めてくれ、そこからようやく、私の説明が始まった。
これは、男の「ナンパマニュアル」の逆なのだ。
世の女の子たちが、好きな男をゲットするのに四苦八苦しているように、男のほうも、みんなそれなりに苦労している。
書店の男性誌コーナーで、ちと立ち読みしてみたまえ。
馬に食わせるほど、ナンパ術の解説書が立ちならんでいることに、気づくだろう。
私がこれから伝授する術は、その応用、というか逆の技、なのだ。
「要するに、肉食系女子とか、そういうふうになれっていう、マニュアル?」
「違うよ」
いくらマスコミが騒いでも、積極的に打って出るのが苦手という女子は、いつの世にも存在する。
そう、この水島マキくんのように。
それで、受身タイプの女の子が、受身のまま、異性にアプローチする方法を編み出したのだ。
「それが今から伝授する、背面アプローチ」
「背面アプローチ?」
高校生にはちと難しいかもしれないけれど、どこかの書店で、心理学の入門書をぱらぱらめくってみたまえ。
基本的には、実験心理と臨床心理と、二系統ある。このうち、実験心理学のほうのテキストを色々、漁ってみるのだ。
「それで?」
実験心理学というのは、エッシャーの騙し絵みたいな錯覚に関することから、交通標識への応用まで、広い範囲に渡っている。そのうちのひとつに、「パーソナルスペース」という単語が出てくるはずだ。
「ぱーそなる、すぺーす?」
私の下手な説明より、グーグルあたりで検索してもらったほうが、理解がはやいんだろうけれど……絵解きじゃないと、直感的に分かりにくいか……ええっと、だな。
普通の社交生活をしている人間っていうのは、赤の他人と交渉するとき、一定の距離をとる。その、つかず離れず、相手を避けようとする無意識の空間を、パーソナルスペースと呼ぶのだ。
「前面一メートルちょい、左右と後方、三十センチちょい、の空間だったかな」
これは、男性と女性とで微妙に違う。
場所にも左右される。満員電車の中とかでは、当然のことながら、スゴク圧縮される。
「マンガなんかで、見たことあるかも」
桜子の言葉に、マキちゃんもうなずく。
「うむ。了解しているのなら、話は早い。この心理学上の発見、最初は経営・ビジネスの分野でよく利用されたのだ。具体的に言うと、訪問販売セールスマンの、交渉術」
布団だの百科事典だの化粧品だの壷だの御札だのハンコだの……とにかく、一昔前には、玄関口まで出かけていって、モノを売るセールスマンがいた。
呼び鈴を鳴らして、いかにドアを開けさせるか……とか、財布の口を緩める方法だとか、この心理学を応用したマニュアルが、結構出回った。
「簡単に言ってしまえば、奥さん方のパーソナルスペースになんとか入り込んで、心をとろかしなさいって、そういう術だ」
「なんだか、言い方がいやらしい」
「でも、実際そうなんだから、仕方がない」
で、そのうちに、このノウハウを応用して、ナンパ術に用立てる輩が現れた。
「要するに、モノを買わせるのも、彼女を引っ掛けるのも、一緒なんだな。キモは、相手のパーソナルスペースに、いかに入るか」
実際には、心を許した相手に入らせてあげる……という空間なんだけれど、この場合は逆。
どうにかこうにかパーソナルスペースに入り込み、信頼に足る相手、と錯覚を起こさせる、と言ったほうがいいかもしれない。
「なんか、しょーもないテクニック、な感じがする」
「いやいや。涙ぐましい努力の結果なんだよ」
で、今回水島くんに伝授するのは、さらにこの応用。
好きな男子を、いかに自分のパーソナルスペースに入らせるか。
「簡単じゃない。相手の体にぶつかるくらい、近づけばいいって、だけでしょ」
「そりゃ、君みたいなデリカシーのない人間は、それでいいだろうけどさ」
そんなことができれば、最初から苦労はしない。
正面から近づくということは、必然、相手のパーソナルスペースに立入る、ということでもある。
「普通はどきっとしちゃうよ。口が悪いタイプなら、なんだこの女、ずうずうしい……なんて言いかねない」
「そうかなあ」
「もっと露骨に言おう。好みのタイプの美人なら、鼻の下を伸ばして歓迎するかもしれない。けれど、そうでないタイプなら……」
「ああ。分かった。分かったわよ」
で。
引っ込み思案、とまではいかないけれど、普通の受身の女の子なら、正面切ってお目当ての彼氏に近づくのは難しい。
「それで……お目当ての彼氏に、後ろから近づいていくための、アプローチ?」
「正確に言えば、彼氏に後ろから近づいてもらうための、アプローチだけどね」
利点が、いくつかある。
一つ目。パーソナルスペースが一番薄い部分なので、身体同士の接近が、容易。
「逆説的ではあるけれど、パーソナルスペースに入らせないでも、親近感が湧く距離に近づける。正面と違って、彼氏を入らせやすい部位でもある。女の子にとって、抵抗の少ない場所なんだ」
二つ目。振られたときの痛手が、最小。
「何度か背面アプローチをしていれば、マキちゃんの気持ちも自然、ワタナベ先生に伝わると思う。それから、彼氏がどうするか、だよね。思し召しがあれば、何くれとなく話しかけたり触ったり、してくれるかもしれない。そうでない場合には、さりげなく逃げちゃうんじゃないかな、と思う。この逃げられたときのダメージが少ない。だって、彼氏は背後なんだから。最後まで、気づかないふりをすればいいのさ」
三つ目。応用範囲が極めて広い。
「男のナンパ術のマニュアルとか、セールスマンの交渉術の本を見れば分かるんだけど……融通が利かない。パーソナルスペースはあくまで正面突破、セールストークと根性でごまかせ、みたいな。でも、背面アプローチは違う。たとえば、電車で横並びの席に座って、寝たふりをする、なんていうのも、この応用って言っていい。野郎のほうの手練手管って、意外とバリエーション少ないんだよね」
桜子とマキちゃんは、しばし、私の言葉をかみ締めていた。
二人、相談しあって、私の講義を理解しようとも、していた。
やが、桜子が代表して、言った。
「百歩譲って、タクちゃんの言うとおりだと、するわよ。でもね。それとノーパン・ミニスカが、どう関係するわけ?」
「背中に目をつける、トレーニングだよ」
私は胸のポケットから、魔法の道具を取り出した。
「近遠、両用メガネだ」
ドラえもんなら、高らかなファンファーレがなってもいい場面だぜ。
さあ、驚いてくれ。
「ジジくさっ」
「桜子は、どうしてこう、ひとをジジイ扱いするのが好きなんだ?」
「だって、実際ジジイくさいじゃない。遠近両用メガネって、お年寄りがよくかけてるヤツでしょ?」
「遠近、じゃない。近遠だ」
遠近両用メガネは、近くも見えない、遠くも見えなくなったお年寄りが、近くの場所、遠くの場所を見るための補正レンズである。
「これはその逆。近くも見えなくなり、遠くも見えなくなるメガネ」
「タクちゃん、それって意味、ないじゃん」
「一定の距離だけ、しっかり見えるんだよ。ちょうど、視野三十センチの距離に、調整してある」
いうまでもなく、後方のパーソナルスペースに該当する距離だ。
「これから水島くんには、この本棚の掃除を手伝ってもらう。雑巾とバケツを持って、あちこち動いてもらう。私は水島くんの補助をする。もちろん、後ろから近づいていくわけだ。で、たとえば後方三十センチの距離まで近づけば、当然水島くんの真っ白なお尻が見える」
「なんか、ヤラシイ言い方」
「だって、実際ヤラシイもん……でもさ、後ろにしっかり『目』がついていれば、ガードだってできるだろ。やり方は、二つ。一つ目。私がこのメガネの焦点を合せる前に、スカートの裾を、しっかり抑える。要するに、パーソナルスペース内に、いれない。もう一つは……私を水島くんの背中、三十センチ以内の距離に入れる。まあ、ぶつかるつもりで、逆に近づく。つまり、自分のパーソナルスペースのさらに中に、観察者たる私を入れる、ということ。何度かやって、完全にお尻をガードできるようになるころには、背面部分のパーソナルスペース位置を覚えるって寸法」
つまり、後ろにもしっかり『目』がつく、ということなのだ。
「スカートは、真っ白いお尻と対照的になるように、紺、黒の二種類を用意した。これだと、光の加減でよく見えたり、見えなかったりする。水島くんがパーソナルスペースの範囲を覚えた暁には、この光線の強弱で視線をかわす練習をしてもらう。応用だね。周囲の環境をじゅうぶん利用できるようになれば、一人前の背面アプローチ使い、認定だ」
「でもさ、タクちゃん。それなら、単なるミニスカで、いいんじゃない? あえてノーパンじゃなくとも、白いパンツはいてりゃ……」
「それじゃ、必死でガードする気に、なれないだろ」
「なるわよ」
「ここでの苦労が、あとで力になるんだよ。最初は一生懸命近づいていっても、彼氏に無視されるかもしれない。でも、ここでノーパンにまでなって修行したんだって思えば、つらく苦しい途中経過でも耐えられるようになるっ」
「そうかなあ」
「そういうもんなんだよ」
水島マキは、半分水のはいったコップをもてあそんでいる。
やるかやらないか、決心がつかないといった風情だ。
水は飽きたのか、桜子は冷蔵庫からウーロン茶を持ってくる。
後輩の勧めを断って、マキちゃんは相変わらず、コップの水を眺めたままだ。
「最初は、床にカラーのガムテープを貼って、位置決めしようと思ったんだけどね。それだと動きがない。どんな場面にも対応できるようにって、苦労してこの方法を編み出したんだ」
「ふーん」
彼女、まだ決心がつかないようだ。
「水島くん」
「はいっ」
「やっぱり、やめとく?」
「えっ……」
「君の、ワタナベ先生への思いって、その程度だったの?」
「……」
「たとえば、たとえばだよ。この間は否定してたけど、桜子もワタナベ先生のこと、狙ってたとする。ウチの姪が君に差をつけたくて、パンツ脱ぎますって宣言しても、君はやらないわけ?」
「ちょっと、タクちゃん、それなによ。キョーハクじゃない」
「愛の鞭だ」
「やっぱり、キョーハクよ」
「……二人っきりだと貞操の危機、かもしんないけど、桜子っていうオブザーバーがいるわけだし。大丈夫、途中で発情して襲ったりもしないから」
私は、ただ、生徒さんの幸福を願っているだけなんじゃあ……とさらに力説してみる。
ダメ押しに、「逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ」と某アニメの名台詞を耳元でささやいてみた。
水島マキは、イモな外見に似合わず、ノリがよかった。
「私、やります。パンツ、脱ぎますっ」
こうして、彼女は修行を開始したのだ。
年齢イコール彼氏いない歴から脱したいから……と桜子も参加することになった。
まあ、一人でも二人でも、同じである。
スカートもちょうど二着あるし。
マキちゃんが、両手で裾をしっかり押さえながら、言う。
「見えちゃったら、見えたって、言うんですか?」
「いんや。お尻、ぺんぺんする」
けれど、実際、マキちゃんのお尻をぺんぺんする場面は、ほとんどなかった。
ガードが異様に固いんである。
いや、最初から後ろに目がついていたから、というわけじゃない。
後ろにばかり注意がいって、前の作業がおろそかになっているのだ。
「水島くん。本棚、全然きれいになってないよ」
「え。でも……」
「デモも、ストも、へったくれもないよ。右手か左手か、どっちかスカートから手を離しなさい。でないと、掃除、できないでしょ」
「え。でも……」
「バケツで水を絞るときには、当然両手で、ね。そうしないと、ダラダラ垂れちゃうでしょ」
「そんな……」
いち早く、私の気配を感じるのは、悪くない。
けれど、私が二メートル以上先にいるのに、そそくさ逃げるのはどうかと思うのだ。
「距離感掴む、練習にならないよ」
十回目の指摘のあと、マキちゃんはため息をついて、言った。
「せめて、尻尾でもついてれば、ガードできるのに」
「尻尾はないけれど、猫耳はあるよ。水島くん、つける?」
ごそごそ秘蔵の段ボール箱を漁っていると、姪の鉄拳制裁が飛んできた。
「マジメにやれ、この高齢童貞オタクっ」
マキちゃんとは対照的に、我が姪のガードは甘かった。
つうか、全然してない感じ?
本棚が次々、きれいになっていくのは、確かに嬉しい。けれど、姪の行く末に一抹の不安を感じてしまう。
「もう少し、恥じらいってのを持てよ、桜子」
「何よ。タクちゃんこそ、手加減してよ。もう、結構痛いって」
十回目の「ぺんぺん」でお尻を叩くのをやめた。
仮にも嫁入り前の娘、小猿みたいな真っ赤っ赤なお尻になっては、情けない。
水島マキが、あきれたように言う。
「でも、本当に、サクラちゃん、ガードとかしない人なのね」
いくら身内でも、恥ずかしくない?
姪に代わって、私が答える。
「いや、まあ……去年まで、一緒にお風呂、入ってたからね」
「ウッソー」
「いや、本当なんだってば」
余計なことを言わないで、と桜子が顔に朱を散らして、言う。お尻より、さらに赤い顔だ。
「同居の事情は、さっき説明したよね」
夜、家を空ける両親に代わって、小学二年生をお風呂に入れるのは、まあ、ふつうのことだと思う。
「で、そのとき桜子が約束してくれたわけ。生理が始まって大人になるまで、一緒に入ってあげるって」
ところが、その初潮がなかなかやってこなかった。中学入学時、いい加減にしなさいと、桜子はたしなめられた。反抗期に入っていた姪は、両親への反発もあって、約束をかたくなに守ると言い張った。
「で、去年ようやく、その約束のときがやってきたって、わけ」
嘘かマコトか、同級生で一番最後だったという。
「御赤飯、どんぶりでバクバク五杯も食ったのよ、このひとは」
「うむ。感無量だったからさ。父親気分を満喫したら、ちと、寂しくなったんだ」
マキちゃんが、意味ありげに、私たちを見る。
「ふうん」
「さっ、続き、続き」
今度は叩くのはよして、撫ぜることにした。
痛くはないはずだけど、やはり桜子の顔は真っ赤なままだった。
なんだか、眼の端から、涙がこぼれているような気がする。
「すまん、桜子。やっぱり、痛む? これくらいで、修行、やめとく?」
「続けるわよ。先輩もやってるのに、中断できないでしょ。それに、もう、痛まないし」
「しかし、顔、赤いぞ」
「赤くても、痛くないのっ」
「でも、触るたび、ぴくぴくお尻、震わせてるからさ」
「ええいっ、余計なことを言うなっ」
「しかも、一向に上達しないし」
脚立で最上段の掃除をしているときが、最悪だった。ガードどころか、お尻を突き出しているようなきがする。
こっちは一生懸命やっているのに。
もっと、マジメにやっとくれ。
罰を兼ね、再び、スパンキングだ。
あんまり強く叩いたつもりではなかったのだけれど、姪は「きゅう」とうなって、倒れた。
「桜子、大丈夫か」
見ようによって幸福そうな顔をして、床に転がっている。
私は姪を抱き上げて、ぺちぺち頬を叩いてみた。
マキちゃんもそばによって、アドバイスをくれる。
「顔より、お尻をぺちぺちしたほうがいいと思います」
言われたとおりにすると、桜子はすぐに気づいた。
「ええいっ。いつまで触ってんのよ。スケベっ」
「桜子、もしかして、お尻ぺんぺんされて……イッちゃった、わけ?」
なんと変態ちっくな姪だ。
「こんなんで、本当に嫁にいけるのかね」
すかさずマキちゃんが、声を励まして、言う。
「大丈夫ですよ、先生。最近は、こういうプレイが好きな男の子も、結構いるみたいですから」
「……」
なんか、姪に負けず劣らず、ツッコミどころがありそうな娘だぜ。
さて。
「基礎技術の習得は、このへんで、いったん切り上げ。これから、本戦に臨む。覚悟はいいかね、水島くん」
ハイ、という返事とともに、水島マキは、しっかりうなずいた。
そう、あの図書館での修行を始めて、はや一ヶ月。
とうとう、成果を試すときがやってきたのだ。
場所は、ここ、東松島野蒜海岸そばの民宿。
二階を借り切っての新人講師歓迎会、焼肉パーティーの席上、だ。
ゴールデンウイーク過ぎに採用、新人研修を終えたアルバイト講師の御披露目である。
学習塾最大の稼ぎ時、夏季講習に向けて、現スタッフたちに栄養を蓄えてもらう、という意味もある。
出席者は講師と事務方ばかりなのだけれど、なぜか毎年桜子も参加する。
塾講師に興味があるから、ではない。
単に焼肉を食いにきているだけだ。
今年は、その桜子のオマケとして、水島マキも参加……という段取りなわけだ。
「一応みんなにはビールを振舞うけど、君らは飲んじゃダメだぞ」
「そんなの分かってるわよ。それより、なんで今年は石巻市内じゃ、ないわけ」
「ここの民宿、塾生のお父さんが経営しててな。安く見積もり上げてくれたんだ」
服に匂いが移るから、一張羅なんか着てくるなよ、とスタッフたちには釘をさしてある。
まあ、たいていは着古したスーツか、それに準じた姿だ。
ちなみに我が姪は、学校のジャージ姿。
食い気まんまんで、「よだれかけ」まで用意してきている。
マキちゃんには、さりげなくおしゃれを命じた。
女性スタッフに囲まれても、見劣りしないようにという、老婆心だ。
宿のパンフにはオーシャンシーと明記してある。けれど、実際には時代劇に出てくるような松原と、砂浜に囲まれた場所だった。ふつうの民家みたいな、二十坪ばかりの庭が玄関脇にある。裏には殺風景な駐車場。この日はあいにくの入梅だったが、確かに潮の香りはする。水着のまま、海水浴場まで、歩いていける距離。宿の主人が指差した先には、確かに石垣の防波堤が見える。テニス場や乗馬倶楽部も近所にはある、と宿の主人は商売気たっぷりに教えてくれた。
蒸し暑い。
しかしこれが幸いした。
この日のマキちゃんは、桜子が選んだ水色のキャミソールに、膝までのフレアスカート姿。
薄手の上着をとると、健康的な色気をアピールできる。
これだけ暑ければ、自然に脱げる。
ウチの女性スタッフで、さすがに肌を露出した格好をしているのは、いない。
これで、点数、いくらか稼げればいいんだけど。
少なくとも、影の薄いのはカバーできているはず。
渡辺啓介は新人の隣に陣取って、黙々、焼肉奉行をしている。
私自身の挨拶、新人講師の挨拶、宿のご主人の祝辞のあと、桜子の音頭で乾杯。
宴会の……もとい、背面アプローチの、はじまりだ。
「今日は、アプローチ四十八手のうち、『窮鳥』を使うことにする」
勢子には、私自身と、秘書兼講師の木下冬実先生。
ミラー役には、桜子、だ。
「ねえ。フガフガ、タクちゃん。そのミラー役って、フガフガ、何よ」
「口にモノを入れたまま、しゃべるなよ……ていうか、オマケで来てるんだからもうちっと、遠慮しいしい食えんのか……ええっと、だな。ミラー役っていうのは、ワタナベ先生の反応を、水島くんに伝える役だよ。文字通りの、バックミラー代わり。後ろの気配を掴む練習、ずいぶんしたけれど、やっぱバックアップがあると、楽だろ」
二人でブロックサイン、決めときな。
たとえば、渡辺啓介がマキちゃんの背中を見ているようなら、頭をかく、とか。
逆に無視しているようなら、鼻歌歌う、とか。
「先生が先輩を抱きしめそうになったら、焼肉を食う、とか?」
「フガフガ、ひっきりなしに食ってるのに、サインになるかっ」
私自身と、木下先生が、マキちゃんを少しばかり怯えさせるような話をする。
しながら、もちろん彼女に迫っていく。
マキちゃんは、私たちの動きに合わせて、ゆっくり、後ろ向きのまま、後退。
そう、いかにも追い詰められている感じで。
もちろん、ゴールは渡辺啓介のところだ。
「彼氏のほうがリアクションを起こしたら、水島くん、君もうまく反応するんだぞ」
「え……具体的に、どうやるんですか?」
「庭野塾長の話、面白いですね、とか。木下先生、意外とホラー話好きですね、とか。その場の話題をふる。話が弾んだら、彼氏の趣味について、質問してみる。スノボとか、釣りとか、色々とな。さらに話が弾むようなら、横についていて、焼肉とかを焼いてあげる。ヤツ、奉行をやっていて、あんまり食ってないはずだ」
「分かりましたっ」
「急接近はいいけれど、焦って皿をひっくり返したり、膝の上に座っちゃったり、するなよ」
「まさか、サクラちゃんじゃ、あるまいし」
「ちょっと先輩、何言ってんですかっ」
「うむ。軽口が出るくらい、リラックスしている証拠。幸先、いいぞっ」
実際の作戦開始は、渡辺啓介がトイレに立ち、ついでに庭の散歩までして戻ってきたので、三十分後になった。
「あのう……塾長。私は、どうしたらいいでしょう?」
手持ち無沙汰の時間、生真面目に質問してきたのは、もう一人の作戦担当、木下冬実先生である。
たったコップ一杯のビールで、顔を真っ赤にしている。
リクルートのときに着てきたという、地味極まるグレーのスーツ姿なのだけれど……とにかく、色っぽい。
マリリン・モンローの生まれ変わりのような、メリハリのついたボディ。ほとんど化粧はしてないのに、場末のキャバクラ嬢のような、妖艶な表情。
これでいて、中身はクソマジメ。
彼女を勢子役に選んだ第一の理由は、私に一番忠実な手駒だからである。けれど、木下先生がいては、渡辺啓介の視線がそっちにおよいじゃう、という理由も多分にある。
「水島さんへの脅し役なんですよね。私、ハロウィンみたいな化粧、してきましょうか」
彼女の提案は即座に却下された。
マキちゃん以外の女性陣を、目立たなくするための配役なのだ。
派手な化粧をされては、木下先生を勢子に配した意味が、なくなってしまう。
ワタナベ先生の視線が飛ばないように、ブラウスのボタンは一番上まで、しっかり閉めていてください、とだけお願いした。
「でも、ハロウィンっていうアイデアは、いいですね。魔女になったつもりで、せまってください」
で……。
木下先生は、自分の役割に忠実だった。
本当に、魔女みたいに、振舞った。
マキちゃんとの会話を再現すると、確か、こんな感じだった気がする。
「木下先生、顔真っ赤ですよ。大丈夫ですか?」
「すぐにのぼせちゃうタイプなのよ。赤面症って、感じ? いい年して、子どもみたいでしょ。前にデパートのスーツ売り場で働いてたんだけど、これが原因でやめたの。からかわれちゃうのよね。ズボンの裾上げをすれば、お客さんは脱いで脱ぎっぱなし、下着一丁のまま商品を返してよこすし。上司はしょっちゅう、私の前でシモネタ話するし。男って、どうして、ああいうふうに、セクハラ好きなのかしらね」
「それは……木下先生、美人だから、からかいたくなっちゃうんですよ。女の私でも、そう思いますもん」
「あら。水島さんが、そんなこと言うなんて。先生、嬉しいわ」
言いながら、木下先生はマキちゃんに近づき、手をとった。両手で、彼女の手を包み込むようにして、だ。
マキちゃんはびっくりして、あとじさった。
まあ、勢子としての目的はじゅうぶん達しているわけだけれど。
「でも、私、もう、おばさんよ。その点、水島さん、うらやましいわあ。若いって、いいわよねえ。これ、本当に洗顔料だけ? ファンデーションとか、使ってないの?」
言いながら、今度はマキちゃんの頬をなでまわす。いや、顎から、首筋、そしてむき出しの肩を通って、再び腕へ、だ。
マキちゃんは頬をひきつらせて、さらに後ろに下がる。
なかなかの「魔女」っぷりだ。
マキちゃんは、本当に怖いんだろう……まあ、色々な意味で。
「で、でも、木下先生。先生だって、まだぴちぴちのお肌ですよ。私なんか、ほら、そばかす出てるし。お肌のお手入れ、私のほうが教えてほしいくらい」
「簡単よ。ずーっと昔からある、古典的な方法。フランス革命前の出来事なんだけど……エリザベートっていう、女領主、知ってる? 夜な夜な、若い娘さんを捕まえてきては、鉄張りついた人形の中に入れて、生血を絞ったんですって」
「あ。その先の話、聞いたことがあります。鉄の処女、ですよね。それで、生血のお風呂に使ったとか言う……でも、現代ニッポンでは、できない話ですよね」
「あら。でも、若いぴちぴちの女の子のエキスを吸い取る方法は、他にもあるのよ」
台詞とともに、木下先生はマキちゃんの膝をなぜ回した。
畳のこすれる音高く、マキちゃんは後退した。
「あの。あの。木下先生って、意外とホラー話好きですよね」
私は声なき声で、マキちゃんに言い返す。
「それは、私じゃなく、ワタナベ先生に向かって言う台詞だろ」
「だってえ」
「それに、ホラー話でもない」
「でも」
「せっかくだし、あちこちなぜまわされているところ、ワタナベ先生に見せつけてやりなさいっ」
「でも、でも、私、百合趣味なんて、ありませんよお」
「じゃあ、今日から、その趣味にはまりなさいっ」
私の叱咤が耳に届いたのか、木下先生が妖艶に微笑む。
今度は私に向かってだ。
私は、心を鬼にして、こっくりうなずいた。
合図とともに、木下先生の手が伸び、スルスル、「窮鳥」のスカートの中に入っていく……。
なにやらエッチくさい攻防戦の最中、姪は相変わらず焼肉にぱくついていた。
水島マキのリアクションを見ながら、キングコングのように胸を叩き、佐渡オケサを踊り、そして「あっかんべー」をした。
気づいた渡辺啓介が、腹を抱えて大笑いしている。
水島くんたちの奮闘が、台無しだ。
教訓。
ウチの姪は、天性のコメディアンだな……。
気づくと、渡辺啓介が、ひっくりかえっていた。
マキちゃんが、彼氏の膝の上に腰かけている。
全然、気づいてない。
パーソナルスペース、入りすぎだよ、こりゃ。
勢子役が、あまりにも上手すぎたのも、敗因のひとつ。
桜子が焼肉に気を取られて、合図が遅れたのも、敗因のひとつかもしれない。
木下先生の手の感触に驚いたマキちゃんは、文字通り、渡辺啓介のところに、飛んでいった。
カルビと砂肝の入った皿をひっくり返し、ビール瓶を割った。
炭火から落ちた鉄網を拾おうとして、私がちょっとだけ火傷した。
ビール瓶のかけらは、黙々焼肉を堪能していた、新人講師へと飛んでいった。
西君、というこのガタイのいい新人は、高校時代ラグビーのフランカーだったそうな。
「ボールのあるところ、真っ先に飛んでいく」役目だそうで、年中生傷だらけ、だったと言う。
ビールのかけらがざっくり、コメカミからほほに突き刺さっても、西君は平気な顔をしていた。
「怪我すると、酒が飲めなくなるから、ツライっすよね」
ひとごとのように言って、ウチの姪同様、端を休めない。
見かねた木下先生が、宿のご主人に頼んで、救急箱を借りてきた。オキシドールと赤チンで、応急処置をする。過酸化水素水が、ぶくぶくと泡を立て始めた。
うわ、むちゃくちゃ痛そう。
けど、西君はやっぱり、平気の平左。
「こんな美人に手当てをしてもえらるなら、もっと怪我してもいいくらいですよ」と相変わらずビールジョッキをあおり続けたのだった……。
その日の夕方、帰りの電車の中。
仙台に帰る渡辺啓介と西君を見送り、私たちは仙石線の下りに乗った。
野蒜駅につくまで、マキちゃんは無言だった。駅前には、東名まで続く長い運河があり、船外機つきの和船が、そこかしこに繋留されていた。
帰りの道々、渡辺啓介が眼前のボートの品評をしてくれた。釣り好きだけあって、詳しいのだ。
桜子や木下先生のついで、という感じではあったけど、渡辺啓介はマキちゃんにも色々話題を振ってくれた。けれど、彼女は視線を運河に向けたまま、ああ、とか、うん、とか生返事を繰り返すばかりだった。
内心、何を考えているのか、分からない。
せめてサクランボみたいに頬でも染めてくれれば、かわいげあるところだけれど、それもない。
精気の抜けた、おばあさんみたいな感じ。
彼女は駅の改札をくぐっても、終始無言だった。
石巻帰宅組は、水島マキに合わせて、みな、黙りこくった。
お通夜みたいな雰囲気だ。
「忘れないうちに、今日の総括、しておかなきゃ」
私が誰ともなく言うと、すかさず、姪が相槌を打ってくれる。
「ああ。うん。そうだね」
声がどこか、遠慮がち。
で……。
反省会というには、略式すぎるけど、まあ反省会だ。
もちろん、背面アプローチの。
疲れ顔の木下先生と、水島マキを座らせる。
席が空いてないわけじゃなかったけれど、私たちはつり革につかまって、話すことにした。
桜子が、まず、切り出す。
「結局、ワタナベ先生、宴会中、マキ先輩としゃべらなかったね」
そうなのだ。
彼氏は優しく、懐に飛び込んできた「窮鳥」の心配を、しはした。
怪我はない?
大丈夫?
『せっかくのおしゃれなスカートに、タレ、ついちゃったね。すぐに水洗いしないと、とれなくなるよ」
で、水島マキに洗面台の場所を教えた。彼女が消えると、ウチの姪相手に、バカ話を始めた……。
「ま。肩の凝らないタイプ、なのかもしれんな」
実は、桜子好みのタイプかもな。
「ちょっと。先輩を刺激するようなこと、言わないでよ」
「いや、でも、な」
私はキャミソール姿のままのマキちゃんを、見下ろした。
「ふー」彼女は窓の外を見ている。
石巻市内に入るまでは、ささやかながら、海が見えるのだ。
仙石線の座席は、横長の椅子で、外を見るには首をひねるしかない。
私たちからすれば、そっぽを向いているように見える。
愛想をつかされたようで、ちょっぴり悲しい。
マキちゃんに土下座せんばかりの風情で、猛省していたのは、木下冬実先生。
彼女が悪いわけじゃ、ないんだけど。生真面目なんだよなあ。
私は、言った。
もし、今回の作戦がうまくいかなかったとしたら、それは私の責任である、と。
木下先生の「勢子役」が下手だったというならともかく、うますぎるぶんには、仕方がない。
「そうよ、そうよ。ぜんぶ、タクちゃんが悪いのっ」
姪が変な加勢をする。
「桜子、君にも責任の一端はあるんだぞ。ミラー役、ちゃんとやっていれば……」
「ふんっ」
「あと。口のまわりに、焼肉のタレ、ついてるぞ。女の子なら、もうちっと頻繁に鏡を見ろ」
「ぎゃーっ。なんで、宿を出るとき、言ってくれなかったのっ」
子供みたいな声をあげると、私のネクタイをひっぱり、口をぬぐう。
本当に、ウチの姪は……。
「汚名挽回のチャンスをくださいっ」
姪に続き声を張り上げたのは、木下先生だ。
桜子が離したばかりのネクタイにしがみつき、必死で嘆願してくる。
うぐぐぐぐ。
熱心なのは分かるけどさ、あなた、しがみつくところが違うでしょっ。
首がしまる。
みるみる紫色に染まる、私の顔。
慌てて手を離す木下先生に、ダメもとで言ってみる。
「もうダメだ。このまま死んじゃうかも。木下先生、人口呼吸お願いします」
私のささやかなリクエストは、桜子のアッパーにとってかわった。
「どう、直った? それとも、もう一発お見舞いしとく?」
「……結構です」
塾長の威厳、台無しだ。
ささやかな茶番の間も、マキちゃんは車窓の外を見つめたままだった。
野蒜の民宿に、気持ちを置き忘れてきたのか。
こほん。
私は改めて、木下先生に言う。
「チャンスをくれと頼むとしたら、私ではなく、水島くんにだよ」
私の言を受け、桜子が、おそるおそる先輩に話しかける。
夢見るようなトロンとした表情で、マキちゃんはつぶやいた。
「……たくましかった……」
渡辺啓介のことを言っていると気づくまで、三十秒くらい、かかったろうか。
なるほど、線は細く見えても、ヤツはスポーツマン。
胸板とか、二の腕とか、女の子的にポイントの高い部分は、しっかり「たくましい」のだろう。
男に対する免疫のない彼女のこと、こういうちょっとした触合いでも、敏感に反応してしまうのかも、しれない。
「あ。胸板とか、二の腕とかじゃなくて、ですよ」
「じゃなくて?」
膝の上にダイブしたとき、触っちまったという……男の、もっとも男らしい部分を。
「最初、お尻の下に敷いたときには、ぷにぷにしてたんです」
勢い込んで、マキちゃんは言う。
「それが、渡辺先生に謝りながら、立ち上がるときに、触っちゃって……ぷにぷに、から、もこもこ。あ。偶然ですよ、偶然。手のひらで、ちょっとタッチしただけで、、握ったり揉んだりなんて、決してしてませんから」
マキちゃん。誰もそこまで、突っ込んで聞いてないよ。
「もこもこ、から、カチンカチンまで、二十秒くらいだったと思います。ネットで見た、AV男優なみはあるかも、とか思って。すごいですよね。服の上の感触であれなら、実物、どういうのかなって、想像しちゃって」
今まで呆けてたのは、そんなこと考えてたんかいっ。
それにねえ……いくら「楽屋オチ」の話だからって、そんなはしたない話、しちゃダメだよ。ウチの姪みたいになっちゃうよ。
「タクちゃん。一言、余計」
「なあ、桜子。水島くんって、こういうキャラなの?」
つーか、ネットでエロ画像を検索するイモ娘って、いったい……。
「上杉謙信とか、織田信長とか、色々調べてたら、いつのまにか、そういう画像にたどりついちゃったりするんですっ」
「へー。いつのまにか、ねえ」と棒読み口調の私。
すかさず、桜子がフォローする。
「男の子に縁のない生活してると、女の子でも、色々と想像、たくましくなっちゃうもんなのよ」
女子高あたりにいくと、もっと「重症」なのが多い、とか。
石巻終着まで、水島マキは、延々渡辺啓介のパンツの中身の話をしていった。
あきれたのも確かだけれど、まっ、彼女もいまどきの女の子と知って、安心したりもした。
木下先生が苦笑して、いう。
「ていうか、いまどきの腐女子、女オタクですよね」
なるほど。
確かにネトゲの仲間にも、水島くんっぽいひとがいるな。
シモネタにも平気の平左というタイプが。
「それ、ネカマの可能性もありますよ」
「……」
女の子二人の話題は、いつしかゲームの美形キャラに移っている。
「なあ、水島くん。歴史の勉強と、渡辺啓介の股間の研究と、どっちが好き?」
間髪いれず、桜子から返事が返ってきた。
「どっちも、に決まってるでしょっ」
桜子と今度はヤオイ話に興じるマキちゃんは、どうやら、今回の「窮鳥」を失敗とはみなしてないらしい。
よし、それなら。
再チャレンジも、じゅうぶん可能だ。
しかし、キャラ変更による作戦の練り直しは必要かもしれない。
「むっつり・イモ歴女、だもんな」
この翌週のこと。
私は最高級のドレスアップをして、件のメンバーとともに、塾の応接ルームにいた。
職員室の一番奥、パーティションで仕切っただけの空間だが、革張りのソファと観葉植物で、それとなく立派に見せている。
言葉に「誠意」を持たせるための、装置である。
もちろん、「場」だけでなく、「格好」も言葉の一種である。
いつもはQBハウスで間に合わせる床屋だが、カリスマ理容師を紹介してもらい、きっちり整髪した。
スーツはピンストライプのアルマーニ。ネクタイは京都西陣の絹製、上品な藍色に銀糸で鶴と富士山の刺繍が入った縁起モノだ。
「桜子。これは、渋いんだからなっ。あくまで渋い趣味なのっ」
「分かった、分かった。ジジくさいって、言わないから」
ウチの姪も、この日ばかりは元気がなかった。
当然である。
この日は、メンバー全員で、叱られる予定だったからだ。
いつもはミニスカート一辺倒の桜子も、この日は地味な紺一色、膝がすっぽり隠れるロング姿。隣には、同じような格好をした水島マキが、腰を下ろしている。そわそわ落ちつかないのは渡辺啓介で、応接ルームを行ったり来たりしている。
秘書役の木下先生が、みんなにお茶を振舞った。
「西先生のお母さんって、こわい人、なんですか?」
「モンスターペアレントタイプ、とかは聞いたことがある」もちろん、その息子からだ。
私、そういう人、苦手だな、と水島マキがつぶやく。
ウチの姪も唱和する。
「教育ママゴンって感じのひと?」
「そうだなあ。そういう映画があったら、準主役くらいは張れるかもしれないタイプ、らしい」
すかさず、渡辺啓介が補足する。
「西くんと一緒で、頑丈一点張りって、感じだったな」
しかし、当の息子のほう、西くんは見かけほど頑丈ではなかった。
本人は「これくらいの怪我、ツバつけとけば、すぐに治るっスよ」と言い張ったらしい。けれど、渡辺啓介は、仙台に到着するなり、西君を強引に病院に引っ張っていったらしい。
その結果。額を三針も縫う大怪我だと分かった。
原因が授業にまつわる不可抗力な事故なんかではなく、単なる飲み会で、だと知って、西君のお母さんは怒った。救急車その他、塾スタッフが必要な処置をしてくれなかったことを、怒った。
何より、やんちゃ娘の悪ふざけのトバッチリと知って、西君のお母さんは怒り心頭に達したのだ。
詳しい事情が知りたい、と先方から日時の指定があった。それがこの日、この時刻なのだ。
「後日、こちらから見舞いにいくつもり。治療費は労災で……」
最後まで言い終わらないうちに、頭に包帯を巻いた、西君が来た。
そして、後ろにはワインレッドのスーツを着た、ご母堂が……。
私はすかさず名刺を差し出し、会釈した。
「私が塾長の庭野卓郎です。このたびは大変失礼をば……」
西君のお母さんには、私の言葉が全然聞こえていなかったようだ。
すぐさま、罵声が飛んできた。
「ちょっと。そこのお姉ちゃんっ。お茶汲みは、もういいからっ。そこに正座しなさいっ。あんたも原因なんでしょっ。そこの小娘も、こっちのソバカス娘もっ」
彼女の怒りは、なぜか女性陣三人に向かっていった。
間接原因の木下先生、直接原因のマキちゃん、そしてタコ踊りで囃していた我が姪と。
筒井康隆の小説には、「死ね死ね死んでしまえ」から始まって、やたら罵詈雑言を浴びせるキャラが登場する。最近は、そんな漫画よりマンガチックな人物がやたら増えているようだ。
西君のお母さんも、その口だった。
渡辺啓介が耳元でささやく。
「そんな。不謹慎ですよ」
西君が怪我したのは、事実なんですから。親としては当然の怒りです。
「どうやったら、許してもらえると思う?」
「一生懸命、誠意をもって謝罪するしか、ありません」
「たとえばだよ、この三人の誰かが代表して、西君のお嫁さんになるとか、どうだろう」
「塾長。冗談言ってる場合じゃ、ないですよ」
怪我した本人がいつの間にか私たちの側にきて、言う。
「オレも塾長の意見に一票っス。大歓迎ッスよ。でも、それだと壮絶な嫁姑争いになりそうッす」
「西君。君、ひとごとじゃないだろう」
「いや。ひとごとッスよ」
小学校のとき、鉄棒の逆上がりをしていて、砂場に落ちた。それでもご母堂は、学校に殴りこんできたという。中学のときには、黒板消しを投げつけられて。これは、西君が悪友たちと音楽の先生の着替えを覗いていたからだと言う。
三人同時に、言葉が出た。
「子どもの頃から、過保護だったンすよ」と西君。
「子どもの頃から、やんちゃだったってわけだ」と渡辺啓介。
「その音楽の先生ってさ、どこまで脱いでたの?」と私。
なぜか二人の冷ややかな視線が、私の横顔に突き刺さる。
痛い。
こほん。
ここはひとつ、威厳を取り戻すようなこと、言わねば。
「説教するほうも、されるほうも、もうクタクタみたいだ。そろそろ潮時、切り上げるきっかけをやったら、どうだろう」
西君が、すかさず、言う。
「お茶、冷めたようだし、新しいの出したらいいッスよ」
渡辺啓介も賛成した。
私は給湯室に向かった。
「うむ。選挙カーのウグイス嬢も真っ青なくらい、しゃべりまくってるみたいだからな。塾長、手ずからのお茶で、あとは勘弁してもらうかな」
しかし、西君のお母さんは、まだ怒り足りなかったようなのである。
私がおそるおそる差し出したお茶には、見向きもしなかった。
目配せで合図を送った木下先生には、私の意図が通じたようだ。
我が姪の肘を掴んで、立ち上がらせる。
二人、深々と頭を下げ、お開きと相成るところだったのだが……。
二人?
そう、なぜか水島マキが立ちあがらなかったのだ。
桜子が無言の悲鳴を上げても、やはり立ちあがらなかった。
ふてくされたような泣きそうな顔で、じっと、テーブルを見つめている。
間が持たない。
気まずい。
取り繕うのは、自分の役目だと思った。
駄菓子を持った洋皿が、カサッと音を立てる。
皿ごとみんなに差し出す。
精一杯にこやかな顔をしたけれど、見向きもされない。
「大丈夫。紙製の皿ですから、壊れても、破片飛び散りませんよ」
場を和ませるつもりでつぶやいたのだけれど、今度は応接ルームに居合わせた全員から、背筋の凍るような視線を浴びるはめになった。
ぼそぼそ、私にだけ聞こえるように、桜子がつぶやく。
「タクちゃん、どうしてこう、空気読めないかな」
すまん、桜子。男子校出身だから。バンカラかつ豪快に、鈍感なんだよ。
さらに気まずい数秒が続く。
やがて、西君のお母さんが、啖呵をきる。
「ああ、そうかい。あんた自分のしたことは棚にあげて、開き直るってわけかいっ。どうせ、アタシのこと、口うるさいババアって思ってんだろ」
西君がご母堂を止めに入った。
けれど、一歩遅かった。
彼女はいきなり、目の前の茶碗を掴んで、水島くんに投げつけた……。
「申し訳ありません。あとで、よく、言い聞かせますから」
水島マキの盾になり、熱いお茶を浴びたのは、誰であろう、渡辺啓介だった。
頬から滴り落ちる緑色の液体をぬぐいもせず、彼はそのまま西君のお母さんに、頭を下げた。
気迫勝ち、と言っていいかもしれない。
アルバイトのあんたが、そんな責任を感じなくてもいいんだよ、とか何とか、西君のお母さんは、口の中でモゴモゴつぶやいた。
それでも、渡辺啓介は頭を上げず、よく言って聞かせますから、と言い続けた。
彼が頭をあげたとき、息子に腕を引っ張られ、母親は玄関口へと向かっていた……。
役者、退場。
木下先生が、茶碗一式をお盆に載せ、給湯室に向かう。
渡辺啓介も上着をパーティションの縁にひっかけると、顔を洗いにいった。
桜子が、ドスンとソファに腰を下ろす。
私は水島マキにお説教をするつもりだった。
「ちょっとタクちゃん。マキ先輩、一年分くらいのお説教を浴びたばかりなんだからさ、今日はよしてよ」
そして、少しやさしめの声で、言う。
「先輩、怖くて腰が抜けちゃっただけなんですよね。先輩のお母さんによく似たタイプですもんね。私だって、一番の標的にされたら、先輩みたいになっちゃいますよ」
しかし、事態は、桜子のフォローを上回るものだった。
「最初に叱られたとき……びっくりして……おもらし、しちゃったの……」
あまりにトホホ……過ぎて、さすがの桜子も絶句した。
私も、思わず漏らした。
「へタレ・むっつり・イモ歴女か」
マキちゃんは、私のつぶやきに、涙目・涙声で答えた。
「へタレ・むっつり・イモ娘の、どこが悪いんですかっ」
「いや、悪いとは言ってないよ」
かばってもらったことで、渡辺啓介への気持ちが、本気になったらしい。
「ワタナベ先生、へタレ娘も好みなら、いいけどな」
「ああ。そうか。どうしよう」
「マキ先輩、大丈夫ですよ。タクちゃん、ネットでへタレ娘の画像を拾ってきて、ワタナベ先生を洗脳するのっ」
「お前なあ……」
とりあえず、かばってくれたお礼をして、点数を稼ぐくらいのことは、したほうがいい。
私が言うと、マキちゃんはコクコク、うなずいた。
「サクラちゃん、ついてきてね」
一人で行きなさい……て、無理か。やっぱ、へタレ娘だ。
恋する乙女は、それでも精一杯勇気をふるうつもりらしい。
「次行く決心つきましたっ。再セッティング、お願いしますっ」
もちろん、背面アプローチの、だ。
パーティション一枚挟んで、講師がいっぱいいるのに、濡れたパンツを下げた。
へんなところで、勇気があるんだよなあ。
桜子が必死でフォローする。
「女の子にとってはね、好きな男子以外、イモなのカボチャなのニンジンなのっ。野菜畑でパンツ脱ぐのと変わんないんだからねっ」
「分かった、分かった。どうせウチの講師陣は、カボチャだよ」
「庭野先生。ノーパンになるついでに、基礎訓練もお願いしますっ」
「もっと静かな声で」
彼女は真剣な顔で、続けた。
「必要なら、このスカートも脱ぎます」
「やめれ」
ウチの姪が乗り移ったような、非常識ぶりだ。
ちなみにパンツの洗濯は、木下先生が率先して引き受けた。
「この洗濯、汚名挽回のチャンスですから」
一生懸命手洗いしたあと、懐に入れて乾かします……だと。
ちよっと、百合趣味モロ出しじゃないか。
しかし、水島マキが屈託なく、言う。
「先生。木下冬実じゃなくって、木下藤吉郎だったんですね」
いや。あれはパンツじゃなく、草履じゃなかったか?
「ご先祖様をネタに使うなんて、すてき。同志の歴女が、こんな身近にいたなんて」
「……いや、百歩譲っても、先祖なわけなかろう」
なぜか私のツッコミは無視され、連帯感が強まったようだ。
桜子がダメ押しする。
「よし。後は練習あるのみ、よね。私もここでパンツ脱いじゃお」
「おいおい、ちょっと待てっ」
君ら、熱意があるのはいいけれど、ちょっと矛先違うくない?