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「どんなに若作りしてもムダよ。

 私がいるかぎり、オジさんはおじさんなんだからねっ」

 教卓の端をバンバン叩きながら、姪が言った。

 正確には「大姪」だ。

 彼女の剣幕にびっくりして、質問にきていた学生たちが、離れていく。

 といって、目を三角にしたり、呪いの言葉を吐いたりしながらではない。三々五々、姪にバイバイと手を振って去っていく。クスクス、ニヤニヤ笑いながら、去っていく。

 私も姪と一緒にバイバイと手を振りながら、学生さんたちを見送る。

「鼻の下、伸ばしてんじゃないのっ」

 思いっきり、足を踏まれた。

 私が飛び上がったのを見て、廊下に出た学生さんたちの笑い声が、大きくなる。

 姪は人気者だ。

 というか、この塾の名物女だ。

「桜子。営業妨害だぞ」

 質問受付は、塾講師の重要アフターサービスのひとつ、だ。口をすっぱくして毎度言い聞かせているのだけれど、ウチの姪は聞く耳もたない。

 わがまま、だ。

 小学生みたい、だ。

「何が質問よ。単に雑談してたくせに」

 図星であった。

 今日、私は珍しくジージャンにジーンズ姿であった。桜子に「若作り」とこばかにされたゆえん、である。

 でも、若作りで着てきたわけではない。

 単なる不精だ。

 私の颯爽たるスーツ姿には、少なからぬファンがいる。これ目当てで、我が塾生となっている女子学生もいるとか、いないとか。さきほどだべっていた女の子たちも、その口。

「今日は背広じゃないんですか? 水玉のネクタイかストライプのか、トトカルチョしてたのにぃ」と悔しがっていた。

 ああ、しかし。

「ネトゲのやりすぎで、着替えるヒマがなかったんでしょ」

「そのとおり。再三言うけれど、分かってるんなら、邪魔せんといてくれ」

「違うわよ。私も、相談に来たの」

「桜子が?」

「そうよ。恋愛相談」


 三十路を突っ走って、早ウン年。

 私は今、学習塾の経営をしている。

 発端は、学生時代の、アルバイト代わり、だ。軽い気持ちではじめたのが、当たった。今では専任講師三人に、大学生のアルバイトを五人抱える。当たり前だけど、就職氷河期も、リストラも無縁の人生だ。

 経営には経営の苦労というものがあるのだけれど、サラリーマンの道を進んだ友人たちには、分からないらしい。ここ数年、顔を合わせるたび、「宮仕え」の苦労を聞かされる。いや、そればかりじゃない。

一通り愚痴を聞かされたあとは、絡まれたりする。

「苦労知らず」

「お山の大将」

「死んでしまえ」

 親しい友人ばかりじゃない。同窓会なんぞで疎遠になった人たちに会っても、同じ。なぜか、散々クダを巻かれるのだ。

「年甲斐もない若作り」

「生徒たちから精気を吸い取ってるんだろ」

「ハレンチ教師」

 若く見えるのは単なる童顔のせいなのだけれど、誰も言いわけなんぞ聞いてくれない。

 ましてや「若い精気」なんて、吸いとってない。

 ここのところは大事なので、もう一度繰り返しておきたい。

 まさか生徒に、手は出せない。

 そして……今まで、本当に、ホントにモテなかったんだってばっ。


 我が姪、正確には「大姪」もオジと一緒で、この道にはトンとうとい。

 はいっ、はっきり言ってモテません。

 なにか遺伝子が関係しているのかも。

 見てくれは、悪くないと思う。

 少なくとも、貧乳マニアにはウケると思う。「デレ」なしのツンデレ好きにはウケると思う。「女の子にモテる女の子」の愛好者には、モテると思う。童顔ではあるけれど、眉毛が太くてイマイチ男の子みたいな女の子のファンには、ウケると思う……。

 あ。

 いちおう、褒めてるつもりです。

 服装には、それなり、気を使っているみたい。

 そう、この点ばかりは、普通の女の子と一緒ですね。

 桜子の高校(我が母校でもある)には、制服がない。私が在学中には「下駄で登校禁止」とか「他高校の制服で登校禁止」「無地の白Tシャツで授業を受けること禁止」とか、いろいろやかましい規定があった。

 今は、どうやら、何もないみたい。

 けれど、学生たちは案外と保守的で、制服じみた私服で登校するとのこと。

 私の在学中には、ランドセルをしょってきた奴あり、スカートをはいた男子あり、マントを羽織ったバンカラ応援団あり……とにぎやかだった。

 当時は男子校だったせいもあるかもしれない。今は、共学だ。

 現在、学校ご推薦の「高校生らしい服装」というのは、「百メートルを全力疾走できる格好」。

 桜子は、でも普段ミニスカート姿だ。

 そう、いまどきの女子高生の制服と、一緒。

 いや、確かに全力疾走はできるだろうけれど。

 一生懸命走れば、スカートの中身が見えてしまう。

 私の指摘に、姪はあっさり言ったものだ。「だって、こんな格好できるの、高校生のうちだけでしょ」

 これも、ささやかな女心の、発露なのかも。

 でも、ここまでがんばっても、彼氏いない歴、更新中なんだよなあ……。

 それで、だ。

 両親も最近は心配しているようだ。

 あまりの男気のなさに。

「リボンをつけたり、カチューシャをつけたり、上も懲りなさい」だの、「せめて髪を肩くらいに伸ばせば」だの、色々とうるさいらしい。

 普段は軽くかわす桜子だが、時には感情を爆発させることもある。

 そのときひきあいに出されるのが、私だ。

「そういう心配なら、まずオジサンにしてよ」

 桜子の両親の反応は、色々だ。

 娘の戯言を軽く受け流すこともある。

 虫の居所が悪いときには、とばっちりがこっちにくることもある。

 見合い話を一ダースも、持ち込まれたこともあるのだ。

「オジさんにはもったいなさすぎる」という理由で、桜子がみんな断ってくれたが。

 ちなみに、桜子の両親は、娘に輪をかけて、タフ。

 娘の妨害にも、めげるタイプじゃない。

 見合い相手の現物を、わざわざ塾まで連れてきたこともある。

「年齢三十四歳、賞味期限は切れてますけど、まだまだイケますっ」とのたまう、妙に明るい看護婦さんだった。「お医者さんと不倫をしていて、婚期を逃しましたっ」と、やはり明るく告白してくれた。正直者は嫌いじゃないけれど、丁重にお断りした。というか、例によって、桜子が破談にしてくれた。

「彼女いない歴三十ウン年、自他ともに認める魔法使いの童貞には、刺激が強すぎるでしょ」。

 ……。

 ちなみに、桜子の父親というのが、私の従兄弟にあたる。

 塾で桜子が私を「大叔父」呼ばわりするのは、こういう血縁関係のせいだ。授業の合間には、聞こえよがしに友達とダベって、あることないこと、言ってまわる。

「ウチのオジさん、高校生のときから、オジさんくさかったひとなのよ。ハンコ彫りが趣味なの」

 篆刻って言えよ。渋くていい趣味だと思うんだけど。やっぱり、ジジ臭いんだろうか。

「怪しげな易者と結託して、裏でボロ儲けしてんのよ。ハンコ売り。ネクタイのコレクションは、そうやって壷だの御札だのハンコだの、霊感商法したおかげなんだからねっ。それに、ほら、よく見て。本人がかっこいいわけじゃなくて、スーツがかっこいいだけだから。だまされちゃ、ダメっ」

 そんなこと声高に喧伝された日には、生徒さんがみな、逃げちゃう。

 けれど、商売の邪魔が、好きなのだ。

 スーツ姿の私にファンがいても、バレンタインにチョコひとつもらえない「ニワノゼミナール」七不思議のひとつは、間違いなく桜子が原因だ。

 だから、私も塾生の前で堂々、言い返したりする。「あ。気にしないで。ウチの姪、ごらんの通り、態度とお尻だけは大きいんだ。胸は全然成長してないんだけど」

 ……。

 自己紹介は、これくらいにしておくかな。

 どうもこう、身内の恥がダダ漏れになってくような気がする。

 どっちにしろ、脇役兼、語り手の補助だしね。


 桜子の恋愛相談というのは、もちろん、本人のことじゃない。

 ウチの塾生のひとりで、桜子の先輩のことだ。

「タクちゃん受け持ちの、水島マキ先輩」

「みずしま……マキ……」

「毎週、水曜と金曜、国私併願型・小論文Aタイプ・クラス」

 要するに、文学部・教育学部志望の女の子か。

「うーん。どんな子、だったっけ……」

「うわ。すんごい失礼。ていうか、タクちゃんファンの塾生みんなに、バラしちゃお。胸の大きさはチェックしてても、顔と名前は覚えてない卑劣漢だって」

「失敬な。ヒップの曲線も、ちゃんと覚えてるぞ。おしりフェチだし」

 胸を張って、言う。

 我が姪は、あからさまなため息をつく。

「タクちゃん。そんなんだから、年齢イコール彼女いない歴なのよ。セクハラ男」

「ふむ。男子校出身だから。バンカラかつ豪快に、下品なのだ。最初っから、分かってるだろ。恋愛相談は、他所で頼む」

「でも、タクちゃんじゃなきゃ、ダメなの」

「その、例の、マキちゃんのご指名か」

「そう。タクちゃんじゃ無理って、一生懸命とめたんだけど」

「……相談にはちゃんと乗るから、そのタクちゃんっていうの、塾ではやめてくれ」

 教室を出ていく生徒さんを横目で見ながら、頼む。

「でも、タクちゃんはタクちゃんでしょ」

「一応塾長なのに、威厳がない」

「でも、かわいいニックネームで呼ばれたほうが、女の子にはウケるわよ」

「そうかな?」

「かわいいっていうのは、女の子の褒め言葉だし。ほら、マリモッコリとか奈良のせんとくんとか、プロレスラーのアントニオ猪木とか」

「そう……かな?」

「タクちゃんっ」

「何?」

「そんな、真顔で信じないでよ。私、罪悪感わいちゃうじゃない」

「……」

 と、一通りからかわれた後、ようやく話は本題に入った。

 というか、相談に来た当人が、話題を戻してくれた。「あのう……」

「いつから、いたのっ」

 地味を絵に描いたような女の子が、桜子の陰から出てきた。

 ちょっとそばかすが散った顔に、四角い黒縁メガネ。ほんのり赤い頬。白いシャツに、なで肩がしっかり分かるカーディガン。そう、カーディガン。完全、無地のヤツ。確かに雨が降った日には少し寒い。しかし、ゴールデンウイーク、過ぎたぞ。キャラ作りのために来ているんだろうか。でも、それなら髪も三つ編みオサゲとかにしたほうがいい。マニアにはモテるかもしれない。私のパーティのメンバー(ネトゲの話だ、もちろん)にも、三度のメシよりイモ娘が好き、という隠れファンがいる。

 ええっと。

 何の話をしようとしてたんだ。

 あっ、そうだ。

 恋愛相談。

「もしかして、スーツ姿の私の姿にメロメロになって、告白に来たとか?」

 先輩の代わりに、姪が答える。

「アホタレ。そんなわけ。ないでしょ。しょっぱなから、はずさないでよ」

「今のは、水島君をリラックスさせようとして、かましたんだ」

「チョーつまんない。オッサンくさい」

「どうせオジサンだよ」

 水島マキは、桜子と私を交互に眺めて、言った。

「仲、いいんですね」

「よくないよ」

「だって、いつも授業の終わりとかには、色々話してるみたいだし」

「見てきたように言うね。桜子とは、違うクラスなのに」

 桜子のケタタマシイ笑い声や、私のブツブツ言うボヤキを、何度も廊下で耳にしたらしい。

「テレビで吉本新喜劇見てるより、面白いっていうのが、塾のウリのひとつって、聞きましたけど」

 私は頭痛がしてきて、コメカミを揉んだ。

「それで、なんだかサクラちゃんがうらやましくて」

「なにが?」

「男のひとと、平気で会話できるところが」

「だって、ほら。タクちゃんと私は、叔父と姪だから」

「正確には、大叔父と大姪だけどな」

「タクちゃんは、黙ってて」

 例によって、教卓の端を叩く。

 マキちゃんが、おずおずと続ける。

「それでも、うらやましいの。私、従兄弟の男の子とだって、うまくしゃべれないもの。それに……他の先生とだって、塾生とだって、サクラちゃん、平気で話すじゃない」

「先生たちには、純粋に質問に言ってるだけよ」

「他の塾生たちには?」

「純粋に、質問されに言ってるんだ。桜子アニキ、本当は女の子っつうのはウソでしょ? なんてね」

「ちょっと、タクちゃんは黙ってて」

 なんでも、このマキちゃん、男のひとと話すのは苦手らしい。家はお寺で、パパはもちろんお坊さん。お母さんは、長刀道場を経営しているという。万事が古風な家柄。妹の同級生の男の子(六歳)から電話がかかってきても、両親がシャットアウトしてしまうそうだ。

「同級生の飼い犬ポチ(六歳・オス)から電話がかかってきても、シャットアウト?」

「まだワンちゃんから電話がかかってきたこと、ありませんけど……たぶん取り次いでもらえないと思います」

 なんだかヤケに真剣に答える。

 場を和ませるつもりだったんだけど。

 しかし、ねえ……。

 いかに田舎娘とは言え、いまどき男のひとと話すのが苦手だなんて。

 天然記念物なみ、かも。

「あれ? でも、今こうやって、私とは普通に会話してるよね?」

「そりゃ、タクちゃん、男と思われてないからでしょ」

「ちょっと待て。今、サラッと重大発言せんかったか?」

「空耳よ、空耳。タクちゃん、小さいことにこだわる男って、モテないよ」

「そうかなあ」

「まあ、先輩には、最初から男って思われてないわけだけど」

「あ。ほら。また、言った」

 マキちゃんが、おずおずと挙手する。

 とにかく、手でもあげないと、桜子のマシンガントークに割り込めない。

「はい、水島くん」

「庭野先生、ウチのお父さんと、どことなく似てるから……」

「ほほう。そうか。お父さんと」

「タクちゃんも髪が薄くなってきたからね。まあ、坊主頭には、ほど遠いけど」

「似てるっていうのは、ハゲてきたところだけかいっ」

「まあまあ。そういきり立たないで。せっかくの童顔が台無しじゃない」

「うむむ。そうかな」

「額に青筋立ててると、塾生の女の子たちに、かわいいって言ってもらえなくなるよ。ほら、マキ先輩も言ってやって。隣のトトロと似てるとか、ドラえもんに似てるとか、信楽焼きのタヌキに似てるとか、いろいろ」

 なんだか……これは、さっきと同じパターンだ。

「トトロとかドラえもんはともかく、トックリ下げのタヌキは、ちと、なあ……」

「あら。じゃあ、ショ、ショ、ショジョジのタヌキ」

「一緒じゃん」

 マキちゃんが悲しそうに口を挟む。

「あのう。私、お二人のマンザイは、じゅうぶん、堪能しましたから」

「……」

 で、ようやく本題。

 モジモジしてなかなか切り出せないマキちゃんに代わり、姪が単刀直入、説明する。

「この塾の先生、好きになったんだって」

「ウチのスタッフを?」

「理系向け数学担当、ワタナベ先生」

 渡辺啓介は週一で講義に来てもらっている、現役の東北大生だ。百八十を超える身長と、優しげな目線が、ウリといえばウリだろうか。線は細いが、スポーツマン。渓流釣りとスノーボードが、三度のメシより好き。シーズン中は週末ごと、オンボロなレビンで蔵王に通いつめている。

「夏には弱いけどな。パイプ椅子を四つ並べて、クーラーの下で昼寝して、風邪ひいてたぞ、去年。夏季講習にドテラ着て、毛糸の帽子をかぶってきたのは、創塾以来、アイツが初めて、だ」

「ちょっと、タクちゃん。マキ先輩にとっちゃ、憧れのひとなのよ、ワタナベ先生。もっとこう、ローマンスをかきたてるような話、できないわけ?」

「うーむ。塾講にはもちろんスーツで来てもらってるけど、私服姿もこざっぱりしてて、カッコいいぞ」

 しかし、これは、仙台人の特色かもしれない。

 オタクだろうが喪男だろうが、それなり見栄えのする格好をして歩くのだ。秋葉原や、大阪・日本橋なら、今でもチェックのネルシャツにリュックサックという、定番スタイルを見かけることが、あるかもしれない。けれど、仙台駅東口、市で一番の電器屋街で「いかにも」なひとには、なかなか出会わない。

「へえ」

「仙台って、女の人も、きれいですよね」

「うーん。たぶん……名古屋と水戸には、勝っていると思う」

 なんだか、また話が逸れた。

「で。何が問題なの?」

 「ワタナベ先生にステディがいるかどうか調べて」とか、「好みの女性のタイプを調べて」とか、ならできる。

 でも、彼の前で流暢に話せるようになりたい……とか言うのは、難しいぞ。

「それは水島君本人の問題だし、私より他のひとに相談したほうが、よさそうな話だし」

「先輩の相談って、そういうことじゃないわよ」

「じゃあ、どういうこと?」

「チャンスを作ってって、こと」

 文型クラスの水島マキには、直接渡辺啓介の授業を受ける機会は、ない。

 言うまでもなく、彼氏のほうは理系クラスを受け持っているからだ。

「じゃあ、見合いの席を作ってって、ことだね?」

「そういう、なんていうの、不自然な感じ、じゃなくて」

「何が不自然、だ。見合いっつーのは、日本古来からの、由緒ある交際術のひとつ、だぞ」

 時間・金・情報探索にかけるエネルギーの、大いなる節約。恋愛なんてものは、ここ半世紀ばかり、キリスト教的価値観が蔓延してからの現象に過ぎない。

「クリスマスがなんだっ。バレンタインが、なんだっ」

「ふっ。マキ先輩、気にしないでくださいね。年齢イコール彼女いない歴の男の、寂しい雄叫びなのよ」

 マキちゃんは、苦笑しながらも、慰めてくれる。

「でも庭野先生、今、モテてるじゃないですか。塾生の女の子たちに」

「……仮にも生徒さんだもの、手は出せないよ。ましてや、自分の娘くらいの年齢の女の子たちなんだよ」

 正直、恋愛対象の異性って感じではないのだ。

「もうガケっぷちなのに、余裕こいてどうすんのよっ」

「こいてないって」

「あのう……」そう、いまはこんな話をしている場合じゃない。

「本題に戻るよ。見合いのところから」

 喫茶店でも自習室でも、見合い場所には不自由しない。

 渡辺啓介を呼び出すのも、難しくはない。

「仲人役は、もちろん私と桜子で引き受けてあげるし」

 ここまで言うと、なぜか桜子とマキちゃんが顔を見合わせた。

 二人、発言を譲るかのように、ダンマリしてしまう。

 やがて、桜子がおずおずと切り出した。

「ダメな理由が三つ、あるのよ」

 一つ目。そういうセッティングをすれば、水島マキの気持ちが、隠しようもなく相手に伝わってしまうということ。

「その、伝わっちゃうことの、何がダメなんだよ」

 つーか、告白するための依頼、じゃないのか?

「だから、告白する以前に仲良くなる、チャンスがほしいって……」

「よく分からん」

「だからあ、いきなり告白する勇気がでないっていうか。あたって砕けろ、じゃあまりにも成功率が低いでしょ。少しは仲良くなって、OKもらえそうな感触、ほしいじゃない」

「うむ」

「それと。付添いつきの告白なんて、他力本願ぽいところ、印象あんまりよくないんじゃないの。たとえはよくないけど、友達経由の告白が成功しないのと、一緒で、ダメなのよ、やっぱり」

「そうかなあ」

「それに、マキ先輩を紹介する場面、想像してみなさいよ」

「というと?」

「この子はウチの塾生の一人で、大姪の先輩で、とか切り出すんでしょ」

「そりゃ、当たり前だ」

「でもさ、たぶん、ワタナベ先生、こういうと思うのよ。あれ、こんなひと、いたっけかなあ」

「うむむむむ」確かに、影の薄そうなタイプだしな。

 桜子の言葉に、マキちゃんはしょんぼりうつむいてしまった。

 まあ、第一印象で勝負するのは、超・苦手なタチなんだろうなあ。

「理由、その二。ワタナベ先生も、無口なタチでしょ」

「まあね」

「当事者より、仲人がぺらぺらしゃべりまくりってことに、なっちゃいそう」

「……」

 そこまで言うと、桜子は急にだんまりになった。

「理由、その三っていうのは?」

 桜子は横目で先輩を気遣いながら、言った。

「実はね……それとなく理系クラスの友達から伝わってきたことなんだけど、さ。ワタナベ先生、どちらかというと、元気印の女の子が好みなんだって。ちょっと気が強くて、スポーツもよくできて、けれど男にあんまり免疫がなさそうな」

「ほうほう。その、免疫がないっていうの、もうちっと、詳しく」

「ほら。彼氏のためにお弁当とか作ってきて、『べ、べつにアンタが好きで作ってきたんじゃ、ないんだからね』、とか言うタイプ」

「ずいぶんとベタなたとえだな。要するにアレか。ツンデレ娘」

 そういえばヤツはコテコテの理系、スポーツも好きだが、パソコン中毒の男、でもあったな。

「それでね……具体的にこの塾ではどんな女の子が好みかって、その友達が質問したんだって」

「さすがに、水島くんの名前はでなかったか」

「うん。代わりにね……私の名前が出たのっ」

 驚天動地だ。

「桜子、デレする相手がいないじゃん。ツンツン娘だな」

「うっさい」

 まあ、でも……。

 彼女の両親が聞いたら、盆と正月が同時に来たように、舞い上がるかもしれん。

 水島くんには悪いが、ここはひとつ、桜子の味方をするべきか?

「いや、あの、その……あたし、ワタナベ先生、全然タイプなひとじゃないから」

「ふむ。成長したな、桜子。先輩にそこまで気を使うとは。でもな……ここでいつもの台詞、カウンターでお見舞いさせてもらうぜ。……選り好みしてると、行き遅れるぞ、桜子っ」

「え。いや。えり好みとか、そういうのじゃないでしょ、ワタナベ先生の場合。どちらかと言えば、高嶺の花とか、そういう感じ。女の子の憧れの的、みたいな」

「そうかなあ」

 自分が男だから……というか、いい年したオジサンだから、そういうのには鈍くなっているのかもしれん。

 ヤツに「女生徒に告白されました」なんて相談、持ちかけられたこともないしな。

 まあ、渡辺啓介の受持ちクラスは工学部志望者がメイン、最初っから男子生徒ばかりなんだが。

「じゃあ、桜子。本当にいいのか。せっかく言い寄ってきた男とくっつける応援、せんでも」

「なによ、その、言い寄ってきたって言い方は。好みのタイプがどーのこーのっていう話の中で、名前が出てきただけだし。第一、あたし、ああいうかっこいいタイプって苦手だし」

 どちらかというと、砕けたタイプ、一緒にいて肩の凝らないタイプがいいとのこと。

「背は高いほうが好みか? やはりスポーツ好きがいいか?」

「だからあ、タクちゃん、あたしの話はいいから」

「ふうむ。じゃ、水島くんの話に戻す。……しかし、好みのタイプが違うっつーのは、問題だな」

 しょっぱなから、暗礁ってヤツだ。

 渡辺啓介にネットで拾ってきたイモ娘の画像でも見せて、洗脳するか。

「ちょっとお、洗脳だなんて……でも、少しはしてもらったほうが、いいかな?」

 水島マキが、困ったふうな顔で、けれど少しは期待がこもった顔で、私たちのほうを見回す。

 引っ込み思案な性格は、分かるけど……。

 ふと、気づいた。

「ところで、水島くん。渡辺啓介の、どこが気に入ったの?」

「戦国バサラの、伊達政宗に、雰囲気が似ているところです」

 マキちゃんは、すらすら、藩祖公の生涯をおさらいしてみせた。

 ふむ。

 ただのイモ娘じゃ、ないらしい。

「イモ歴女か」


 特訓は、週末、ウチに本拠を移して、行うことになった。

 塾から車で、二十分。

 北上川河畔が望める、昔からの住宅地だ。道々、海も見える。砂浜も見える。知られざる絶景だ。

 日和大橋を挟んで、東側が漁港、西側が工業港。

 工業港には、日本最大の、電話帳工場がある。

 漁港は水揚量で日本第三位、船着場は日本最長を誇る。

 旧漁港は銚子港同様川中にあり、昔はよく船が転覆しそうになった……。

 運転中の私に代わって、姪が色々、解説役を買ってでる。

 ここいらへんは、お父さん譲り、と言ったところか。

 マキちゃんが、後部座席から、おずおずと言う。

「サクラちゃんと、庭野先生って、もしかして同居中なんですか?」

「同居とは、違うな」

「でも、同じお家なんでしょ?」

「うむむ。同じというか、違うというか」

 二世帯住宅の片側に、私。他の一方に桜子一家が住んでいるのだ。

 もともとは、桜子の祖父母が住まう予定だった。というか、実際、二年くらいは暮らしていた。

 知合いの大工さんに改築してもらい、安く済んだローンを完済したその年、交通事故で、二人、あっけなく他界したのだ。

「八年前のことだよ。桜子が、小学二年のとき」

 思い出したのか、桜子は急にしょんぼりする。

 黙ってしまった我が姪を横目に、あわててマキちゃんが質問する。

「それで、庭野先生が、代わりに住んでるんですか」

「そう。用心棒代わり」

 桜子のお父さんは、魚市場の職員さん。お母さんは助産師、昔風にいうと、産婆さんだ。

「産婆っていうと、字面から年食ってるみたいな感じだけど……年齢的にはかなり若いよ。産科専門の医院に勤めてるんだ」

 当然ながら、両親ともに不規則な勤務形態。二人揃って夜勤が入ってしまうということも、全然珍しくない。

「で、子守役を兼ねて住み込んでるって、わけ」

 しゃべっているうちに、到着した。

 玄関口も、二手に分かれている。

 下駄箱の中は、もちろん私自身の靴と、なぜか桜子の履物が一式、揃っている。

 反抗期真っ只中の中学時代、両親と顔を合わせるのもイヤ、とこちらに移ってきた名残だ。

 一階はリビングにバス・トイレ、それに仏壇を備えた居間と、年寄り向きの間取りになっている。猫額の広さだけど、裏庭だってついている。間口の広さ一間の、土間付・板敷きの八畳が、この庭に面して設えてある。桜子のおじいさんが、何に使うつもりだったのかは、今となっては分からない。現在は、私の趣味の作業場、篆刻専用ルームだ。

「ちなみに、もうひとつの趣味、ネトゲは寝室でやってるけどね」

 足腰が弱って、階段を上がるのが億劫だからと、桜子のおじいさんは寝室も一階に設けていた。

「個人的に、この間取り、大変気に入っている」

「そりゃ、タクちゃんが、ジジくさいから」

「もう、それはエエっちゅうのっ」

 そして、二階には……。

「すっごーい。ちょっとした、図書館ですねえ」

 二階には仕切りがなく、本棚がところ狭しと並べてある。昔風の木組みの本棚には、もちろん書物がぎっしりだ。

 桜子の祖父という人は、生前小学校の先生をしていて、童話や児童本のコレクターだった。

 ただ、レア物、珍本のたぐいはない。

 場所ばかりとる紙の束、と言ってしまえばそれまでだけど、これは桜子の祖父が、孫娘のためにと蒐集してきたものだ。捨てるに忍びなく、ヒマつぶしにも格好なので、そのままにしてある。

「あれ? じゃあ、サクラちゃんの部屋は?」

「屋根裏部屋。一番奥のところに、ハシゴがあるでしょ。あそこから、あがる。なんだか、子供みたいでしょ」

「いいえ。素敵です」

 ちなみに、姪がこちらに泊まるのは、週の半分くらい。母屋にも、ちゃんと部屋を持っているのだ。

「ま。案内はこれくらいで。何かとってくるから、腰を下ろしてて、くれ」

 桜子に、閲覧用のパイプ椅子を出してもらう。私は、一階の冷蔵庫に向かった。

 果汁百パーセントのジュースを各種用意しておいたのに、二人のオーダーは「ミネラルウオーター」。

「君ら、ダイエットの必要なんて、ないだろ」

 特に、Tシャツにスパッツ姿の桜子は、そうだ。私から見ると、やせすぎにさえ、見える。大きめのブラウスで体型を隠しているマキちゃんにしても、全然太っちゃいない。

 私の指摘に、水島くんがすまなさそうに、言う。

「でも、体重、どうしても気になっちゃいますよ」

「私は、マキ先輩のお相伴だから」

 なんでもいいんだけど、一緒のものを頼む、だそうだ。

 パンプキンクッキーも買っておいたのだが、お土産に持たせることにした。

 ちなみに、私は無調整の豆乳だ。

「ジジくさっ」

 健康にいいんだぞ。渋い趣味と言ってくれ。

 桜子は一挙にコップの中身を飲み干すと、私にあごをしゃくった。

「それで?」

「うむむ……それで、だ。水島くん」

「はい」

「君、本気で渡辺啓介のこと、好きか」

「え?」

「いや、だからね。君の覚悟がどれくらい本気か、知りたいんだよ。中途半端な気持ちなら、最初からやらないほうがいい。恋愛っていうのは、そういうもんなんだよ。分かる?」

「えっ、いや……よく分かりませんけど、分かるような」

「君には、今から修行をしてもらう。少林寺三十六房より厳しくつらい修行だ。『巨人の星』の星飛馬くらいの根性がないと、完遂はできない」

「ええっ。よく分からないけど、大変そうですね」

「大変なんだよ」

「タクちゃん、巨人の星だのなんだのって、たとえが古いって」

 どうして、そう、ジジくさいのっ。

 私は姪の茶々を無視して、続ける。演説の、一番いいところなのだ。

「師匠が命じたことは、黙々と実行する。疑問をさしはさまないこと、これが信頼の証だ」

「はい」

「これから、私のことを、先生と呼びたまえ」

「呼びたまえも何も、マキ先輩、最初っから言ってるじゃない」

「ええいっ。うるさいっ。塾の先生じゃなく、恋愛の先生ってことで、だよ」

「はいはい、分かった、分かった。それで、タクちゃん先生」

「うむ。この間、相談を受けたとき、ウエストのサイズ聞いたこと、覚えてるかい?」

「しっかり覚えてるわよ、スケベ先生」

「桜子、そういちいち、横から口を挟むな……それでだな。ここに股下マイナス二センチのマイクロミニスカートを準備した。これをはいて、ノーパン・ミニスカ姿になりたま……」

 最後まで言う前に、姪のスーパーロケットパンチが飛んできた。ついでに、回し蹴りや金的蹴りやアッパーやフックや頭突きまで飛んできた……。


「ぼこぼこ」という表現は、言い得て妙、だと思う。

 どこがへこんだわけではないけれど、私は「ぼこぼこ」になっていた。

 頭から湯気を立てた桜子が、昔の特高警察よろしく、私を尋問にかかる。

「ほら、白状しなさい。片思い中の女の子の弱みにつけこんで、エッチなことをしようとしたって」

「いや、待て。確かにいくらは趣味に走ってるところはあるけれど」

「ああん? いくらか? 変態趣味、丸出しのくせに」

「本当に、まじめな恋愛修行なんだよ、これ」

 途中で、ぐうぐう寝ないって約束してくれるんなら、理由、語るけど。

「約束するわ。けど、ノーパンにならなきゃならないっていう、合理的な理由、ちゃんとなければ、もう一回ボコボコにしちゃうわよ」

「……まず第一にだな、彼氏の前に出てもあがらないように……」

「度胸をつけるため、なんて、まさか言うわけじゃないわよねっ」

「いや、まさに、それも理由のひとつかな……」

 ぼこぼこ。

 マキちゃんがどうやら止めてくれ、そこからようやく、私の説明が始まった。


 これは、男の「ナンパマニュアル」の逆なのだ。

 世の女の子たちが、好きな男をゲットするのに四苦八苦しているように、男のほうも、みんなそれなりに苦労している。

 書店の男性誌コーナーで、ちと立ち読みしてみたまえ。

 馬に食わせるほど、ナンパ術の解説書が立ちならんでいることに、気づくだろう。

 私がこれから伝授する術は、その応用、というか逆の技、なのだ。

「要するに、肉食系女子とか、そういうふうになれっていう、マニュアル?」

「違うよ」

 いくらマスコミが騒いでも、積極的に打って出るのが苦手という女子は、いつの世にも存在する。

 そう、この水島マキくんのように。

 それで、受身タイプの女の子が、受身のまま、異性にアプローチする方法を編み出したのだ。

「それが今から伝授する、背面アプローチ」

「背面アプローチ?」

 高校生にはちと難しいかもしれないけれど、どこかの書店で、心理学の入門書をぱらぱらめくってみたまえ。

 基本的には、実験心理と臨床心理と、二系統ある。このうち、実験心理学のほうのテキストを色々、漁ってみるのだ。

「それで?」

 実験心理学というのは、エッシャーの騙し絵みたいな錯覚に関することから、交通標識への応用まで、広い範囲に渡っている。そのうちのひとつに、「パーソナルスペース」という単語が出てくるはずだ。

「ぱーそなる、すぺーす?」

 私の下手な説明より、グーグルあたりで検索してもらったほうが、理解がはやいんだろうけれど……絵解きじゃないと、直感的に分かりにくいか……ええっと、だな。

 普通の社交生活をしている人間っていうのは、赤の他人と交渉するとき、一定の距離をとる。その、つかず離れず、相手を避けようとする無意識の空間を、パーソナルスペースと呼ぶのだ。

「前面一メートルちょい、左右と後方、三十センチちょい、の空間だったかな」

 これは、男性と女性とで微妙に違う。

 場所にも左右される。満員電車の中とかでは、当然のことながら、スゴク圧縮される。

「マンガなんかで、見たことあるかも」

 桜子の言葉に、マキちゃんもうなずく。

「うむ。了解しているのなら、話は早い。この心理学上の発見、最初は経営・ビジネスの分野でよく利用されたのだ。具体的に言うと、訪問販売セールスマンの、交渉術」

 布団だの百科事典だの化粧品だの壷だの御札だのハンコだの……とにかく、一昔前には、玄関口まで出かけていって、モノを売るセールスマンがいた。

 呼び鈴を鳴らして、いかにドアを開けさせるか……とか、財布の口を緩める方法だとか、この心理学を応用したマニュアルが、結構出回った。

「簡単に言ってしまえば、奥さん方のパーソナルスペースになんとか入り込んで、心をとろかしなさいって、そういう術だ」

「なんだか、言い方がいやらしい」

「でも、実際そうなんだから、仕方がない」

 で、そのうちに、このノウハウを応用して、ナンパ術に用立てる輩が現れた。

「要するに、モノを買わせるのも、彼女を引っ掛けるのも、一緒なんだな。キモは、相手のパーソナルスペースに、いかに入るか」

 実際には、心を許した相手に入らせてあげる……という空間なんだけれど、この場合は逆。

 どうにかこうにかパーソナルスペースに入り込み、信頼に足る相手、と錯覚を起こさせる、と言ったほうがいいかもしれない。

「なんか、しょーもないテクニック、な感じがする」

「いやいや。涙ぐましい努力の結果なんだよ」

 で、今回水島くんに伝授するのは、さらにこの応用。

 好きな男子を、いかに自分のパーソナルスペースに入らせるか。

「簡単じゃない。相手の体にぶつかるくらい、近づけばいいって、だけでしょ」

「そりゃ、君みたいなデリカシーのない人間は、それでいいだろうけどさ」

 そんなことができれば、最初から苦労はしない。

 正面から近づくということは、必然、相手のパーソナルスペースに立入る、ということでもある。

「普通はどきっとしちゃうよ。口が悪いタイプなら、なんだこの女、ずうずうしい……なんて言いかねない」

「そうかなあ」

「もっと露骨に言おう。好みのタイプの美人なら、鼻の下を伸ばして歓迎するかもしれない。けれど、そうでないタイプなら……」

「ああ。分かった。分かったわよ」

 で。

 引っ込み思案、とまではいかないけれど、普通の受身の女の子なら、正面切ってお目当ての彼氏に近づくのは難しい。

「それで……お目当ての彼氏に、後ろから近づいていくための、アプローチ?」

「正確に言えば、彼氏に後ろから近づいてもらうための、アプローチだけどね」

 利点が、いくつかある。

 一つ目。パーソナルスペースが一番薄い部分なので、身体同士の接近が、容易。

「逆説的ではあるけれど、パーソナルスペースに入らせないでも、親近感が湧く距離に近づける。正面と違って、彼氏を入らせやすい部位でもある。女の子にとって、抵抗の少ない場所なんだ」

 二つ目。振られたときの痛手が、最小。

「何度か背面アプローチをしていれば、マキちゃんの気持ちも自然、ワタナベ先生に伝わると思う。それから、彼氏がどうするか、だよね。思し召しがあれば、何くれとなく話しかけたり触ったり、してくれるかもしれない。そうでない場合には、さりげなく逃げちゃうんじゃないかな、と思う。この逃げられたときのダメージが少ない。だって、彼氏は背後なんだから。最後まで、気づかないふりをすればいいのさ」

 三つ目。応用範囲が極めて広い。

「男のナンパ術のマニュアルとか、セールスマンの交渉術の本を見れば分かるんだけど……融通が利かない。パーソナルスペースはあくまで正面突破、セールストークと根性でごまかせ、みたいな。でも、背面アプローチは違う。たとえば、電車で横並びの席に座って、寝たふりをする、なんていうのも、この応用って言っていい。野郎のほうの手練手管って、意外とバリエーション少ないんだよね」

 桜子とマキちゃんは、しばし、私の言葉をかみ締めていた。

 二人、相談しあって、私の講義を理解しようとも、していた。

 やが、桜子が代表して、言った。

「百歩譲って、タクちゃんの言うとおりだと、するわよ。でもね。それとノーパン・ミニスカが、どう関係するわけ?」

「背中に目をつける、トレーニングだよ」

 私は胸のポケットから、魔法の道具を取り出した。

「近遠、両用メガネだ」

 ドラえもんなら、高らかなファンファーレがなってもいい場面だぜ。

 さあ、驚いてくれ。

「ジジくさっ」

「桜子は、どうしてこう、ひとをジジイ扱いするのが好きなんだ?」

「だって、実際ジジイくさいじゃない。遠近両用メガネって、お年寄りがよくかけてるヤツでしょ?」

「遠近、じゃない。近遠だ」

 遠近両用メガネは、近くも見えない、遠くも見えなくなったお年寄りが、近くの場所、遠くの場所を見るための補正レンズである。

「これはその逆。近くも見えなくなり、遠くも見えなくなるメガネ」

「タクちゃん、それって意味、ないじゃん」

「一定の距離だけ、しっかり見えるんだよ。ちょうど、視野三十センチの距離に、調整してある」

 いうまでもなく、後方のパーソナルスペースに該当する距離だ。

「これから水島くんには、この本棚の掃除を手伝ってもらう。雑巾とバケツを持って、あちこち動いてもらう。私は水島くんの補助をする。もちろん、後ろから近づいていくわけだ。で、たとえば後方三十センチの距離まで近づけば、当然水島くんの真っ白なお尻が見える」

「なんか、ヤラシイ言い方」

「だって、実際ヤラシイもん……でもさ、後ろにしっかり『目』がついていれば、ガードだってできるだろ。やり方は、二つ。一つ目。私がこのメガネの焦点を合せる前に、スカートの裾を、しっかり抑える。要するに、パーソナルスペース内に、いれない。もう一つは……私を水島くんの背中、三十センチ以内の距離に入れる。まあ、ぶつかるつもりで、逆に近づく。つまり、自分のパーソナルスペースのさらに中に、観察者たる私を入れる、ということ。何度かやって、完全にお尻をガードできるようになるころには、背面部分のパーソナルスペース位置を覚えるって寸法」

 つまり、後ろにもしっかり『目』がつく、ということなのだ。

「スカートは、真っ白いお尻と対照的になるように、紺、黒の二種類を用意した。これだと、光の加減でよく見えたり、見えなかったりする。水島くんがパーソナルスペースの範囲を覚えた暁には、この光線の強弱で視線をかわす練習をしてもらう。応用だね。周囲の環境をじゅうぶん利用できるようになれば、一人前の背面アプローチ使い、認定だ」

「でもさ、タクちゃん。それなら、単なるミニスカで、いいんじゃない? あえてノーパンじゃなくとも、白いパンツはいてりゃ……」

「それじゃ、必死でガードする気に、なれないだろ」

「なるわよ」

「ここでの苦労が、あとで力になるんだよ。最初は一生懸命近づいていっても、彼氏に無視されるかもしれない。でも、ここでノーパンにまでなって修行したんだって思えば、つらく苦しい途中経過でも耐えられるようになるっ」

「そうかなあ」

「そういうもんなんだよ」

 水島マキは、半分水のはいったコップをもてあそんでいる。

 やるかやらないか、決心がつかないといった風情だ。

 水は飽きたのか、桜子は冷蔵庫からウーロン茶を持ってくる。

 後輩の勧めを断って、マキちゃんは相変わらず、コップの水を眺めたままだ。

「最初は、床にカラーのガムテープを貼って、位置決めしようと思ったんだけどね。それだと動きがない。どんな場面にも対応できるようにって、苦労してこの方法を編み出したんだ」

「ふーん」

 彼女、まだ決心がつかないようだ。

「水島くん」

「はいっ」

「やっぱり、やめとく?」

「えっ……」

「君の、ワタナベ先生への思いって、その程度だったの?」

「……」

「たとえば、たとえばだよ。この間は否定してたけど、桜子もワタナベ先生のこと、狙ってたとする。ウチの姪が君に差をつけたくて、パンツ脱ぎますって宣言しても、君はやらないわけ?」

「ちょっと、タクちゃん、それなによ。キョーハクじゃない」

「愛の鞭だ」

「やっぱり、キョーハクよ」

「……二人っきりだと貞操の危機、かもしんないけど、桜子っていうオブザーバーがいるわけだし。大丈夫、途中で発情して襲ったりもしないから」

 私は、ただ、生徒さんの幸福を願っているだけなんじゃあ……とさらに力説してみる。

 ダメ押しに、「逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ」と某アニメの名台詞を耳元でささやいてみた。

 水島マキは、イモな外見に似合わず、ノリがよかった。

「私、やります。パンツ、脱ぎますっ」

 こうして、彼女は修行を開始したのだ。


 年齢イコール彼氏いない歴から脱したいから……と桜子も参加することになった。

 まあ、一人でも二人でも、同じである。

 スカートもちょうど二着あるし。

 マキちゃんが、両手で裾をしっかり押さえながら、言う。

「見えちゃったら、見えたって、言うんですか?」

「いんや。お尻、ぺんぺんする」

 けれど、実際、マキちゃんのお尻をぺんぺんする場面は、ほとんどなかった。

 ガードが異様に固いんである。

 いや、最初から後ろに目がついていたから、というわけじゃない。

 後ろにばかり注意がいって、前の作業がおろそかになっているのだ。

「水島くん。本棚、全然きれいになってないよ」

「え。でも……」

「デモも、ストも、へったくれもないよ。右手か左手か、どっちかスカートから手を離しなさい。でないと、掃除、できないでしょ」

「え。でも……」

「バケツで水を絞るときには、当然両手で、ね。そうしないと、ダラダラ垂れちゃうでしょ」

「そんな……」

 いち早く、私の気配を感じるのは、悪くない。

 けれど、私が二メートル以上先にいるのに、そそくさ逃げるのはどうかと思うのだ。

「距離感掴む、練習にならないよ」

 十回目の指摘のあと、マキちゃんはため息をついて、言った。

「せめて、尻尾でもついてれば、ガードできるのに」

「尻尾はないけれど、猫耳はあるよ。水島くん、つける?」

 ごそごそ秘蔵の段ボール箱を漁っていると、姪の鉄拳制裁が飛んできた。

「マジメにやれ、この高齢童貞オタクっ」


 マキちゃんとは対照的に、我が姪のガードは甘かった。

 つうか、全然してない感じ?

 本棚が次々、きれいになっていくのは、確かに嬉しい。けれど、姪の行く末に一抹の不安を感じてしまう。

「もう少し、恥じらいってのを持てよ、桜子」

「何よ。タクちゃんこそ、手加減してよ。もう、結構痛いって」

 十回目の「ぺんぺん」でお尻を叩くのをやめた。

 仮にも嫁入り前の娘、小猿みたいな真っ赤っ赤なお尻になっては、情けない。

 水島マキが、あきれたように言う。

「でも、本当に、サクラちゃん、ガードとかしない人なのね」

 いくら身内でも、恥ずかしくない?

 姪に代わって、私が答える。

「いや、まあ……去年まで、一緒にお風呂、入ってたからね」

「ウッソー」

「いや、本当なんだってば」

 余計なことを言わないで、と桜子が顔に朱を散らして、言う。お尻より、さらに赤い顔だ。

「同居の事情は、さっき説明したよね」

 夜、家を空ける両親に代わって、小学二年生をお風呂に入れるのは、まあ、ふつうのことだと思う。

「で、そのとき桜子が約束してくれたわけ。生理が始まって大人になるまで、一緒に入ってあげるって」

 ところが、その初潮がなかなかやってこなかった。中学入学時、いい加減にしなさいと、桜子はたしなめられた。反抗期に入っていた姪は、両親への反発もあって、約束をかたくなに守ると言い張った。

「で、去年ようやく、その約束のときがやってきたって、わけ」

 嘘かマコトか、同級生で一番最後だったという。

「御赤飯、どんぶりでバクバク五杯も食ったのよ、このひとは」

「うむ。感無量だったからさ。父親気分を満喫したら、ちと、寂しくなったんだ」

 マキちゃんが、意味ありげに、私たちを見る。

「ふうん」

「さっ、続き、続き」

 今度は叩くのはよして、撫ぜることにした。

 痛くはないはずだけど、やはり桜子の顔は真っ赤なままだった。

 なんだか、眼の端から、涙がこぼれているような気がする。

「すまん、桜子。やっぱり、痛む? これくらいで、修行、やめとく?」

「続けるわよ。先輩もやってるのに、中断できないでしょ。それに、もう、痛まないし」

「しかし、顔、赤いぞ」

「赤くても、痛くないのっ」

「でも、触るたび、ぴくぴくお尻、震わせてるからさ」

「ええいっ、余計なことを言うなっ」

「しかも、一向に上達しないし」

 脚立で最上段の掃除をしているときが、最悪だった。ガードどころか、お尻を突き出しているようなきがする。

 こっちは一生懸命やっているのに。

 もっと、マジメにやっとくれ。

 罰を兼ね、再び、スパンキングだ。

 あんまり強く叩いたつもりではなかったのだけれど、姪は「きゅう」とうなって、倒れた。

「桜子、大丈夫か」

 見ようによって幸福そうな顔をして、床に転がっている。

 私は姪を抱き上げて、ぺちぺち頬を叩いてみた。

 マキちゃんもそばによって、アドバイスをくれる。

「顔より、お尻をぺちぺちしたほうがいいと思います」

 言われたとおりにすると、桜子はすぐに気づいた。

「ええいっ。いつまで触ってんのよ。スケベっ」

「桜子、もしかして、お尻ぺんぺんされて……イッちゃった、わけ?」

 なんと変態ちっくな姪だ。

「こんなんで、本当に嫁にいけるのかね」

 すかさずマキちゃんが、声を励まして、言う。

「大丈夫ですよ、先生。最近は、こういうプレイが好きな男の子も、結構いるみたいですから」

「……」

 なんか、姪に負けず劣らず、ツッコミどころがありそうな娘だぜ。


 さて。

「基礎技術の習得は、このへんで、いったん切り上げ。これから、本戦に臨む。覚悟はいいかね、水島くん」

 ハイ、という返事とともに、水島マキは、しっかりうなずいた。

 そう、あの図書館での修行を始めて、はや一ヶ月。

 とうとう、成果を試すときがやってきたのだ。

 場所は、ここ、東松島野蒜海岸そばの民宿。

 二階を借り切っての新人講師歓迎会、焼肉パーティーの席上、だ。

 ゴールデンウイーク過ぎに採用、新人研修を終えたアルバイト講師の御披露目である。

 学習塾最大の稼ぎ時、夏季講習に向けて、現スタッフたちに栄養を蓄えてもらう、という意味もある。

 出席者は講師と事務方ばかりなのだけれど、なぜか毎年桜子も参加する。

 塾講師に興味があるから、ではない。

 単に焼肉を食いにきているだけだ。

 今年は、その桜子のオマケとして、水島マキも参加……という段取りなわけだ。

「一応みんなにはビールを振舞うけど、君らは飲んじゃダメだぞ」

「そんなの分かってるわよ。それより、なんで今年は石巻市内じゃ、ないわけ」

「ここの民宿、塾生のお父さんが経営しててな。安く見積もり上げてくれたんだ」

 服に匂いが移るから、一張羅なんか着てくるなよ、とスタッフたちには釘をさしてある。

 まあ、たいていは着古したスーツか、それに準じた姿だ。

 ちなみに我が姪は、学校のジャージ姿。

 食い気まんまんで、「よだれかけ」まで用意してきている。

 マキちゃんには、さりげなくおしゃれを命じた。

 女性スタッフに囲まれても、見劣りしないようにという、老婆心だ。

 宿のパンフにはオーシャンシーと明記してある。けれど、実際には時代劇に出てくるような松原と、砂浜に囲まれた場所だった。ふつうの民家みたいな、二十坪ばかりの庭が玄関脇にある。裏には殺風景な駐車場。この日はあいにくの入梅だったが、確かに潮の香りはする。水着のまま、海水浴場まで、歩いていける距離。宿の主人が指差した先には、確かに石垣の防波堤が見える。テニス場や乗馬倶楽部も近所にはある、と宿の主人は商売気たっぷりに教えてくれた。

 蒸し暑い。

 しかしこれが幸いした。

 この日のマキちゃんは、桜子が選んだ水色のキャミソールに、膝までのフレアスカート姿。

 薄手の上着をとると、健康的な色気をアピールできる。

 これだけ暑ければ、自然に脱げる。

 ウチの女性スタッフで、さすがに肌を露出した格好をしているのは、いない。

 これで、点数、いくらか稼げればいいんだけど。

 少なくとも、影の薄いのはカバーできているはず。

 渡辺啓介は新人の隣に陣取って、黙々、焼肉奉行をしている。

 私自身の挨拶、新人講師の挨拶、宿のご主人の祝辞のあと、桜子の音頭で乾杯。

 宴会の……もとい、背面アプローチの、はじまりだ。


「今日は、アプローチ四十八手のうち、『窮鳥』を使うことにする」

 勢子には、私自身と、秘書兼講師の木下冬実先生。

 ミラー役には、桜子、だ。

「ねえ。フガフガ、タクちゃん。そのミラー役って、フガフガ、何よ」

「口にモノを入れたまま、しゃべるなよ……ていうか、オマケで来てるんだからもうちっと、遠慮しいしい食えんのか……ええっと、だな。ミラー役っていうのは、ワタナベ先生の反応を、水島くんに伝える役だよ。文字通りの、バックミラー代わり。後ろの気配を掴む練習、ずいぶんしたけれど、やっぱバックアップがあると、楽だろ」

 二人でブロックサイン、決めときな。

 たとえば、渡辺啓介がマキちゃんの背中を見ているようなら、頭をかく、とか。

 逆に無視しているようなら、鼻歌歌う、とか。

「先生が先輩を抱きしめそうになったら、焼肉を食う、とか?」

「フガフガ、ひっきりなしに食ってるのに、サインになるかっ」

 私自身と、木下先生が、マキちゃんを少しばかり怯えさせるような話をする。

 しながら、もちろん彼女に迫っていく。

 マキちゃんは、私たちの動きに合わせて、ゆっくり、後ろ向きのまま、後退。

 そう、いかにも追い詰められている感じで。

 もちろん、ゴールは渡辺啓介のところだ。

「彼氏のほうがリアクションを起こしたら、水島くん、君もうまく反応するんだぞ」

「え……具体的に、どうやるんですか?」

「庭野塾長の話、面白いですね、とか。木下先生、意外とホラー話好きですね、とか。その場の話題をふる。話が弾んだら、彼氏の趣味について、質問してみる。スノボとか、釣りとか、色々とな。さらに話が弾むようなら、横についていて、焼肉とかを焼いてあげる。ヤツ、奉行をやっていて、あんまり食ってないはずだ」

「分かりましたっ」

「急接近はいいけれど、焦って皿をひっくり返したり、膝の上に座っちゃったり、するなよ」

「まさか、サクラちゃんじゃ、あるまいし」

「ちょっと先輩、何言ってんですかっ」

「うむ。軽口が出るくらい、リラックスしている証拠。幸先、いいぞっ」

 実際の作戦開始は、渡辺啓介がトイレに立ち、ついでに庭の散歩までして戻ってきたので、三十分後になった。

「あのう……塾長。私は、どうしたらいいでしょう?」

 手持ち無沙汰の時間、生真面目に質問してきたのは、もう一人の作戦担当、木下冬実先生である。

 たったコップ一杯のビールで、顔を真っ赤にしている。

 リクルートのときに着てきたという、地味極まるグレーのスーツ姿なのだけれど……とにかく、色っぽい。

 マリリン・モンローの生まれ変わりのような、メリハリのついたボディ。ほとんど化粧はしてないのに、場末のキャバクラ嬢のような、妖艶な表情。

 これでいて、中身はクソマジメ。

 彼女を勢子役に選んだ第一の理由は、私に一番忠実な手駒だからである。けれど、木下先生がいては、渡辺啓介の視線がそっちにおよいじゃう、という理由も多分にある。

「水島さんへの脅し役なんですよね。私、ハロウィンみたいな化粧、してきましょうか」

 彼女の提案は即座に却下された。

 マキちゃん以外の女性陣を、目立たなくするための配役なのだ。

 派手な化粧をされては、木下先生を勢子に配した意味が、なくなってしまう。

 ワタナベ先生の視線が飛ばないように、ブラウスのボタンは一番上まで、しっかり閉めていてください、とだけお願いした。

「でも、ハロウィンっていうアイデアは、いいですね。魔女になったつもりで、せまってください」

 で……。

 木下先生は、自分の役割に忠実だった。

 本当に、魔女みたいに、振舞った。

 マキちゃんとの会話を再現すると、確か、こんな感じだった気がする。

「木下先生、顔真っ赤ですよ。大丈夫ですか?」

「すぐにのぼせちゃうタイプなのよ。赤面症って、感じ? いい年して、子どもみたいでしょ。前にデパートのスーツ売り場で働いてたんだけど、これが原因でやめたの。からかわれちゃうのよね。ズボンの裾上げをすれば、お客さんは脱いで脱ぎっぱなし、下着一丁のまま商品を返してよこすし。上司はしょっちゅう、私の前でシモネタ話するし。男って、どうして、ああいうふうに、セクハラ好きなのかしらね」

「それは……木下先生、美人だから、からかいたくなっちゃうんですよ。女の私でも、そう思いますもん」

「あら。水島さんが、そんなこと言うなんて。先生、嬉しいわ」

 言いながら、木下先生はマキちゃんに近づき、手をとった。両手で、彼女の手を包み込むようにして、だ。

 マキちゃんはびっくりして、あとじさった。

 まあ、勢子としての目的はじゅうぶん達しているわけだけれど。

「でも、私、もう、おばさんよ。その点、水島さん、うらやましいわあ。若いって、いいわよねえ。これ、本当に洗顔料だけ? ファンデーションとか、使ってないの?」

 言いながら、今度はマキちゃんの頬をなでまわす。いや、顎から、首筋、そしてむき出しの肩を通って、再び腕へ、だ。

 マキちゃんは頬をひきつらせて、さらに後ろに下がる。

 なかなかの「魔女」っぷりだ。

 マキちゃんは、本当に怖いんだろう……まあ、色々な意味で。

「で、でも、木下先生。先生だって、まだぴちぴちのお肌ですよ。私なんか、ほら、そばかす出てるし。お肌のお手入れ、私のほうが教えてほしいくらい」

「簡単よ。ずーっと昔からある、古典的な方法。フランス革命前の出来事なんだけど……エリザベートっていう、女領主、知ってる? 夜な夜な、若い娘さんを捕まえてきては、鉄張りついた人形の中に入れて、生血を絞ったんですって」

「あ。その先の話、聞いたことがあります。鉄の処女、ですよね。それで、生血のお風呂に使ったとか言う……でも、現代ニッポンでは、できない話ですよね」

「あら。でも、若いぴちぴちの女の子のエキスを吸い取る方法は、他にもあるのよ」

 台詞とともに、木下先生はマキちゃんの膝をなぜ回した。

 畳のこすれる音高く、マキちゃんは後退した。

「あの。あの。木下先生って、意外とホラー話好きですよね」

 私は声なき声で、マキちゃんに言い返す。

「それは、私じゃなく、ワタナベ先生に向かって言う台詞だろ」

「だってえ」

「それに、ホラー話でもない」

「でも」

「せっかくだし、あちこちなぜまわされているところ、ワタナベ先生に見せつけてやりなさいっ」

「でも、でも、私、百合趣味なんて、ありませんよお」

「じゃあ、今日から、その趣味にはまりなさいっ」

 私の叱咤が耳に届いたのか、木下先生が妖艶に微笑む。

 今度は私に向かってだ。

 私は、心を鬼にして、こっくりうなずいた。

 合図とともに、木下先生の手が伸び、スルスル、「窮鳥」のスカートの中に入っていく……。


 なにやらエッチくさい攻防戦の最中、姪は相変わらず焼肉にぱくついていた。

 水島マキのリアクションを見ながら、キングコングのように胸を叩き、佐渡オケサを踊り、そして「あっかんべー」をした。

 気づいた渡辺啓介が、腹を抱えて大笑いしている。

 水島くんたちの奮闘が、台無しだ。

 教訓。

 ウチの姪は、天性のコメディアンだな……。


 気づくと、渡辺啓介が、ひっくりかえっていた。

 マキちゃんが、彼氏の膝の上に腰かけている。

 全然、気づいてない。

 パーソナルスペース、入りすぎだよ、こりゃ。

 勢子役が、あまりにも上手すぎたのも、敗因のひとつ。

 桜子が焼肉に気を取られて、合図が遅れたのも、敗因のひとつかもしれない。

 木下先生の手の感触に驚いたマキちゃんは、文字通り、渡辺啓介のところに、飛んでいった。

 カルビと砂肝の入った皿をひっくり返し、ビール瓶を割った。

 炭火から落ちた鉄網を拾おうとして、私がちょっとだけ火傷した。

 ビール瓶のかけらは、黙々焼肉を堪能していた、新人講師へと飛んでいった。

 西君、というこのガタイのいい新人は、高校時代ラグビーのフランカーだったそうな。

「ボールのあるところ、真っ先に飛んでいく」役目だそうで、年中生傷だらけ、だったと言う。

 ビールのかけらがざっくり、コメカミからほほに突き刺さっても、西君は平気な顔をしていた。

「怪我すると、酒が飲めなくなるから、ツライっすよね」

 ひとごとのように言って、ウチの姪同様、端を休めない。

 見かねた木下先生が、宿のご主人に頼んで、救急箱を借りてきた。オキシドールと赤チンで、応急処置をする。過酸化水素水が、ぶくぶくと泡を立て始めた。

 うわ、むちゃくちゃ痛そう。

 けど、西君はやっぱり、平気の平左。

「こんな美人に手当てをしてもえらるなら、もっと怪我してもいいくらいですよ」と相変わらずビールジョッキをあおり続けたのだった……。


 その日の夕方、帰りの電車の中。

 仙台に帰る渡辺啓介と西君を見送り、私たちは仙石線の下りに乗った。

 野蒜駅につくまで、マキちゃんは無言だった。駅前には、東名まで続く長い運河があり、船外機つきの和船が、そこかしこに繋留されていた。

 帰りの道々、渡辺啓介が眼前のボートの品評をしてくれた。釣り好きだけあって、詳しいのだ。

 桜子や木下先生のついで、という感じではあったけど、渡辺啓介はマキちゃんにも色々話題を振ってくれた。けれど、彼女は視線を運河に向けたまま、ああ、とか、うん、とか生返事を繰り返すばかりだった。

 内心、何を考えているのか、分からない。

 せめてサクランボみたいに頬でも染めてくれれば、かわいげあるところだけれど、それもない。

 精気の抜けた、おばあさんみたいな感じ。

 彼女は駅の改札をくぐっても、終始無言だった。

 石巻帰宅組は、水島マキに合わせて、みな、黙りこくった。

 お通夜みたいな雰囲気だ。

「忘れないうちに、今日の総括、しておかなきゃ」

 私が誰ともなく言うと、すかさず、姪が相槌を打ってくれる。

「ああ。うん。そうだね」

 声がどこか、遠慮がち。

 で……。

 反省会というには、略式すぎるけど、まあ反省会だ。

 もちろん、背面アプローチの。

 疲れ顔の木下先生と、水島マキを座らせる。

 席が空いてないわけじゃなかったけれど、私たちはつり革につかまって、話すことにした。

 桜子が、まず、切り出す。

「結局、ワタナベ先生、宴会中、マキ先輩としゃべらなかったね」

 そうなのだ。

 彼氏は優しく、懐に飛び込んできた「窮鳥」の心配を、しはした。

 怪我はない?

 大丈夫?

『せっかくのおしゃれなスカートに、タレ、ついちゃったね。すぐに水洗いしないと、とれなくなるよ」

 で、水島マキに洗面台の場所を教えた。彼女が消えると、ウチの姪相手に、バカ話を始めた……。

「ま。肩の凝らないタイプ、なのかもしれんな」

 実は、桜子好みのタイプかもな。

「ちょっと。先輩を刺激するようなこと、言わないでよ」

「いや、でも、な」

 私はキャミソール姿のままのマキちゃんを、見下ろした。

「ふー」彼女は窓の外を見ている。

 石巻市内に入るまでは、ささやかながら、海が見えるのだ。

 仙石線の座席は、横長の椅子で、外を見るには首をひねるしかない。

 私たちからすれば、そっぽを向いているように見える。

 愛想をつかされたようで、ちょっぴり悲しい。

 マキちゃんに土下座せんばかりの風情で、猛省していたのは、木下冬実先生。

 彼女が悪いわけじゃ、ないんだけど。生真面目なんだよなあ。

 私は、言った。

 もし、今回の作戦がうまくいかなかったとしたら、それは私の責任である、と。

 木下先生の「勢子役」が下手だったというならともかく、うますぎるぶんには、仕方がない。

「そうよ、そうよ。ぜんぶ、タクちゃんが悪いのっ」

 姪が変な加勢をする。

「桜子、君にも責任の一端はあるんだぞ。ミラー役、ちゃんとやっていれば……」

「ふんっ」

「あと。口のまわりに、焼肉のタレ、ついてるぞ。女の子なら、もうちっと頻繁に鏡を見ろ」

「ぎゃーっ。なんで、宿を出るとき、言ってくれなかったのっ」

 子供みたいな声をあげると、私のネクタイをひっぱり、口をぬぐう。

 本当に、ウチの姪は……。

「汚名挽回のチャンスをくださいっ」

 姪に続き声を張り上げたのは、木下先生だ。

 桜子が離したばかりのネクタイにしがみつき、必死で嘆願してくる。

 うぐぐぐぐ。

 熱心なのは分かるけどさ、あなた、しがみつくところが違うでしょっ。

 首がしまる。

 みるみる紫色に染まる、私の顔。

 慌てて手を離す木下先生に、ダメもとで言ってみる。

「もうダメだ。このまま死んじゃうかも。木下先生、人口呼吸お願いします」

 私のささやかなリクエストは、桜子のアッパーにとってかわった。

「どう、直った? それとも、もう一発お見舞いしとく?」

「……結構です」

 塾長の威厳、台無しだ。

 ささやかな茶番の間も、マキちゃんは車窓の外を見つめたままだった。

 野蒜の民宿に、気持ちを置き忘れてきたのか。

 こほん。

 私は改めて、木下先生に言う。

「チャンスをくれと頼むとしたら、私ではなく、水島くんにだよ」

 私の言を受け、桜子が、おそるおそる先輩に話しかける。

 夢見るようなトロンとした表情で、マキちゃんはつぶやいた。

「……たくましかった……」

 渡辺啓介のことを言っていると気づくまで、三十秒くらい、かかったろうか。

 なるほど、線は細く見えても、ヤツはスポーツマン。

 胸板とか、二の腕とか、女の子的にポイントの高い部分は、しっかり「たくましい」のだろう。

 男に対する免疫のない彼女のこと、こういうちょっとした触合いでも、敏感に反応してしまうのかも、しれない。

「あ。胸板とか、二の腕とかじゃなくて、ですよ」

「じゃなくて?」

 膝の上にダイブしたとき、触っちまったという……男の、もっとも男らしい部分を。

「最初、お尻の下に敷いたときには、ぷにぷにしてたんです」

 勢い込んで、マキちゃんは言う。

「それが、渡辺先生に謝りながら、立ち上がるときに、触っちゃって……ぷにぷに、から、もこもこ。あ。偶然ですよ、偶然。手のひらで、ちょっとタッチしただけで、、握ったり揉んだりなんて、決してしてませんから」

 マキちゃん。誰もそこまで、突っ込んで聞いてないよ。

「もこもこ、から、カチンカチンまで、二十秒くらいだったと思います。ネットで見た、AV男優なみはあるかも、とか思って。すごいですよね。服の上の感触であれなら、実物、どういうのかなって、想像しちゃって」

 今まで呆けてたのは、そんなこと考えてたんかいっ。

 それにねえ……いくら「楽屋オチ」の話だからって、そんなはしたない話、しちゃダメだよ。ウチの姪みたいになっちゃうよ。

「タクちゃん。一言、余計」

「なあ、桜子。水島くんって、こういうキャラなの?」

 つーか、ネットでエロ画像を検索するイモ娘って、いったい……。

「上杉謙信とか、織田信長とか、色々調べてたら、いつのまにか、そういう画像にたどりついちゃったりするんですっ」

「へー。いつのまにか、ねえ」と棒読み口調の私。

 すかさず、桜子がフォローする。

「男の子に縁のない生活してると、女の子でも、色々と想像、たくましくなっちゃうもんなのよ」

 女子高あたりにいくと、もっと「重症」なのが多い、とか。

 石巻終着まで、水島マキは、延々渡辺啓介のパンツの中身の話をしていった。

 あきれたのも確かだけれど、まっ、彼女もいまどきの女の子と知って、安心したりもした。

 木下先生が苦笑して、いう。

「ていうか、いまどきの腐女子、女オタクですよね」

 なるほど。

 確かにネトゲの仲間にも、水島くんっぽいひとがいるな。

 シモネタにも平気の平左というタイプが。

「それ、ネカマの可能性もありますよ」

「……」

 女の子二人の話題は、いつしかゲームの美形キャラに移っている。

「なあ、水島くん。歴史の勉強と、渡辺啓介の股間の研究と、どっちが好き?」

 間髪いれず、桜子から返事が返ってきた。

「どっちも、に決まってるでしょっ」

 桜子と今度はヤオイ話に興じるマキちゃんは、どうやら、今回の「窮鳥」を失敗とはみなしてないらしい。

 よし、それなら。

 再チャレンジも、じゅうぶん可能だ。

 しかし、キャラ変更による作戦の練り直しは必要かもしれない。

「むっつり・イモ歴女、だもんな」


 この翌週のこと。

 私は最高級のドレスアップをして、件のメンバーとともに、塾の応接ルームにいた。

 職員室の一番奥、パーティションで仕切っただけの空間だが、革張りのソファと観葉植物で、それとなく立派に見せている。

 言葉に「誠意」を持たせるための、装置である。

 もちろん、「場」だけでなく、「格好」も言葉の一種である。

 いつもはQBハウスで間に合わせる床屋だが、カリスマ理容師を紹介してもらい、きっちり整髪した。

 スーツはピンストライプのアルマーニ。ネクタイは京都西陣の絹製、上品な藍色に銀糸で鶴と富士山の刺繍が入った縁起モノだ。

「桜子。これは、渋いんだからなっ。あくまで渋い趣味なのっ」

「分かった、分かった。ジジくさいって、言わないから」

 ウチの姪も、この日ばかりは元気がなかった。

 当然である。

 この日は、メンバー全員で、叱られる予定だったからだ。

 いつもはミニスカート一辺倒の桜子も、この日は地味な紺一色、膝がすっぽり隠れるロング姿。隣には、同じような格好をした水島マキが、腰を下ろしている。そわそわ落ちつかないのは渡辺啓介で、応接ルームを行ったり来たりしている。

 秘書役の木下先生が、みんなにお茶を振舞った。

「西先生のお母さんって、こわい人、なんですか?」

「モンスターペアレントタイプ、とかは聞いたことがある」もちろん、その息子からだ。

 私、そういう人、苦手だな、と水島マキがつぶやく。

 ウチの姪も唱和する。

「教育ママゴンって感じのひと?」

「そうだなあ。そういう映画があったら、準主役くらいは張れるかもしれないタイプ、らしい」

 すかさず、渡辺啓介が補足する。

「西くんと一緒で、頑丈一点張りって、感じだったな」

 しかし、当の息子のほう、西くんは見かけほど頑丈ではなかった。

 本人は「これくらいの怪我、ツバつけとけば、すぐに治るっスよ」と言い張ったらしい。けれど、渡辺啓介は、仙台に到着するなり、西君を強引に病院に引っ張っていったらしい。

 その結果。額を三針も縫う大怪我だと分かった。

 原因が授業にまつわる不可抗力な事故なんかではなく、単なる飲み会で、だと知って、西君のお母さんは怒った。救急車その他、塾スタッフが必要な処置をしてくれなかったことを、怒った。

 何より、やんちゃ娘の悪ふざけのトバッチリと知って、西君のお母さんは怒り心頭に達したのだ。

 詳しい事情が知りたい、と先方から日時の指定があった。それがこの日、この時刻なのだ。

「後日、こちらから見舞いにいくつもり。治療費は労災で……」

 最後まで言い終わらないうちに、頭に包帯を巻いた、西君が来た。

 そして、後ろにはワインレッドのスーツを着た、ご母堂が……。

 私はすかさず名刺を差し出し、会釈した。

「私が塾長の庭野卓郎です。このたびは大変失礼をば……」

 西君のお母さんには、私の言葉が全然聞こえていなかったようだ。

 すぐさま、罵声が飛んできた。

「ちょっと。そこのお姉ちゃんっ。お茶汲みは、もういいからっ。そこに正座しなさいっ。あんたも原因なんでしょっ。そこの小娘も、こっちのソバカス娘もっ」

 彼女の怒りは、なぜか女性陣三人に向かっていった。

 間接原因の木下先生、直接原因のマキちゃん、そしてタコ踊りで囃していた我が姪と。

 筒井康隆の小説には、「死ね死ね死んでしまえ」から始まって、やたら罵詈雑言を浴びせるキャラが登場する。最近は、そんな漫画よりマンガチックな人物がやたら増えているようだ。

 西君のお母さんも、その口だった。

 渡辺啓介が耳元でささやく。

「そんな。不謹慎ですよ」

 西君が怪我したのは、事実なんですから。親としては当然の怒りです。

「どうやったら、許してもらえると思う?」

「一生懸命、誠意をもって謝罪するしか、ありません」

「たとえばだよ、この三人の誰かが代表して、西君のお嫁さんになるとか、どうだろう」

「塾長。冗談言ってる場合じゃ、ないですよ」

 怪我した本人がいつの間にか私たちの側にきて、言う。

「オレも塾長の意見に一票っス。大歓迎ッスよ。でも、それだと壮絶な嫁姑争いになりそうッす」

「西君。君、ひとごとじゃないだろう」

「いや。ひとごとッスよ」

 小学校のとき、鉄棒の逆上がりをしていて、砂場に落ちた。それでもご母堂は、学校に殴りこんできたという。中学のときには、黒板消しを投げつけられて。これは、西君が悪友たちと音楽の先生の着替えを覗いていたからだと言う。

 三人同時に、言葉が出た。

「子どもの頃から、過保護だったンすよ」と西君。

「子どもの頃から、やんちゃだったってわけだ」と渡辺啓介。

「その音楽の先生ってさ、どこまで脱いでたの?」と私。

 なぜか二人の冷ややかな視線が、私の横顔に突き刺さる。

 痛い。

 こほん。

 ここはひとつ、威厳を取り戻すようなこと、言わねば。

「説教するほうも、されるほうも、もうクタクタみたいだ。そろそろ潮時、切り上げるきっかけをやったら、どうだろう」

 西君が、すかさず、言う。

「お茶、冷めたようだし、新しいの出したらいいッスよ」

 渡辺啓介も賛成した。

 私は給湯室に向かった。

「うむ。選挙カーのウグイス嬢も真っ青なくらい、しゃべりまくってるみたいだからな。塾長、手ずからのお茶で、あとは勘弁してもらうかな」

 しかし、西君のお母さんは、まだ怒り足りなかったようなのである。

 私がおそるおそる差し出したお茶には、見向きもしなかった。

 目配せで合図を送った木下先生には、私の意図が通じたようだ。

 我が姪の肘を掴んで、立ち上がらせる。

 二人、深々と頭を下げ、お開きと相成るところだったのだが……。

 二人?

 そう、なぜか水島マキが立ちあがらなかったのだ。

 桜子が無言の悲鳴を上げても、やはり立ちあがらなかった。

 ふてくされたような泣きそうな顔で、じっと、テーブルを見つめている。

 間が持たない。

 気まずい。

 取り繕うのは、自分の役目だと思った。

 駄菓子を持った洋皿が、カサッと音を立てる。

 皿ごとみんなに差し出す。

 精一杯にこやかな顔をしたけれど、見向きもされない。

「大丈夫。紙製の皿ですから、壊れても、破片飛び散りませんよ」

 場を和ませるつもりでつぶやいたのだけれど、今度は応接ルームに居合わせた全員から、背筋の凍るような視線を浴びるはめになった。

 ぼそぼそ、私にだけ聞こえるように、桜子がつぶやく。

「タクちゃん、どうしてこう、空気読めないかな」

 すまん、桜子。男子校出身だから。バンカラかつ豪快に、鈍感なんだよ。

 さらに気まずい数秒が続く。

 やがて、西君のお母さんが、啖呵をきる。

「ああ、そうかい。あんた自分のしたことは棚にあげて、開き直るってわけかいっ。どうせ、アタシのこと、口うるさいババアって思ってんだろ」

 西君がご母堂を止めに入った。

 けれど、一歩遅かった。

 彼女はいきなり、目の前の茶碗を掴んで、水島くんに投げつけた……。

「申し訳ありません。あとで、よく、言い聞かせますから」

 水島マキの盾になり、熱いお茶を浴びたのは、誰であろう、渡辺啓介だった。

 頬から滴り落ちる緑色の液体をぬぐいもせず、彼はそのまま西君のお母さんに、頭を下げた。

 気迫勝ち、と言っていいかもしれない。

 アルバイトのあんたが、そんな責任を感じなくてもいいんだよ、とか何とか、西君のお母さんは、口の中でモゴモゴつぶやいた。

 それでも、渡辺啓介は頭を上げず、よく言って聞かせますから、と言い続けた。

 彼が頭をあげたとき、息子に腕を引っ張られ、母親は玄関口へと向かっていた……。


 役者、退場。

 木下先生が、茶碗一式をお盆に載せ、給湯室に向かう。

 渡辺啓介も上着をパーティションの縁にひっかけると、顔を洗いにいった。

 桜子が、ドスンとソファに腰を下ろす。

 私は水島マキにお説教をするつもりだった。

「ちょっとタクちゃん。マキ先輩、一年分くらいのお説教を浴びたばかりなんだからさ、今日はよしてよ」

 そして、少しやさしめの声で、言う。

「先輩、怖くて腰が抜けちゃっただけなんですよね。先輩のお母さんによく似たタイプですもんね。私だって、一番の標的にされたら、先輩みたいになっちゃいますよ」

 しかし、事態は、桜子のフォローを上回るものだった。

「最初に叱られたとき……びっくりして……おもらし、しちゃったの……」

 あまりにトホホ……過ぎて、さすがの桜子も絶句した。

 私も、思わず漏らした。

「へタレ・むっつり・イモ歴女か」

 マキちゃんは、私のつぶやきに、涙目・涙声で答えた。

「へタレ・むっつり・イモ娘の、どこが悪いんですかっ」

「いや、悪いとは言ってないよ」

 かばってもらったことで、渡辺啓介への気持ちが、本気になったらしい。

「ワタナベ先生、へタレ娘も好みなら、いいけどな」

「ああ。そうか。どうしよう」

「マキ先輩、大丈夫ですよ。タクちゃん、ネットでへタレ娘の画像を拾ってきて、ワタナベ先生を洗脳するのっ」

「お前なあ……」

 とりあえず、かばってくれたお礼をして、点数を稼ぐくらいのことは、したほうがいい。

 私が言うと、マキちゃんはコクコク、うなずいた。

「サクラちゃん、ついてきてね」

 一人で行きなさい……て、無理か。やっぱ、へタレ娘だ。

 恋する乙女は、それでも精一杯勇気をふるうつもりらしい。

「次行く決心つきましたっ。再セッティング、お願いしますっ」

 もちろん、背面アプローチの、だ。

 パーティション一枚挟んで、講師がいっぱいいるのに、濡れたパンツを下げた。

 へんなところで、勇気があるんだよなあ。

 桜子が必死でフォローする。

「女の子にとってはね、好きな男子以外、イモなのカボチャなのニンジンなのっ。野菜畑でパンツ脱ぐのと変わんないんだからねっ」

「分かった、分かった。どうせウチの講師陣は、カボチャだよ」

「庭野先生。ノーパンになるついでに、基礎訓練もお願いしますっ」

「もっと静かな声で」

 彼女は真剣な顔で、続けた。

「必要なら、このスカートも脱ぎます」

「やめれ」

 ウチの姪が乗り移ったような、非常識ぶりだ。

 ちなみにパンツの洗濯は、木下先生が率先して引き受けた。

「この洗濯、汚名挽回のチャンスですから」

 一生懸命手洗いしたあと、懐に入れて乾かします……だと。

 ちよっと、百合趣味モロ出しじゃないか。

 しかし、水島マキが屈託なく、言う。

「先生。木下冬実じゃなくって、木下藤吉郎だったんですね」

 いや。あれはパンツじゃなく、草履じゃなかったか?

「ご先祖様をネタに使うなんて、すてき。同志の歴女が、こんな身近にいたなんて」

「……いや、百歩譲っても、先祖なわけなかろう」

 なぜか私のツッコミは無視され、連帯感が強まったようだ。

 桜子がダメ押しする。

「よし。後は練習あるのみ、よね。私もここでパンツ脱いじゃお」

「おいおい、ちょっと待てっ」

 君ら、熱意があるのはいいけれど、ちょっと矛先違うくない?





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