端末の夜
駅前の時計は二十三時五十六分を指していた。あと四分で今日が終わる。そう思ったところで、今日が終わったところで何かが始まるわけでもないことに気づき、僕は少しだけ笑いそうになった。笑いそうになったが、口角の動かし方を忘れていたので、ただ唇の端が乾いただけだった。
大学に入ってからというもの、僕は人並みに忙しいふりをするのが上手くなった。講義に出て、課題を提出し、誘われれば飲みに行き、誘われなければ家で寝た。誰かと親しいようで、誰とも約束していない。そういう生活を、僕は自由と呼んでいた。自由という言葉は便利だ。孤独にも、怠惰にも、逃避にも、薄くて綺麗な包装紙をかけてくれる。
ポケットの中でスマートフォンが震えた。こんな時間に連絡をくれる人間など、僕にはもういないはずだった。画面を見ると、通知ではなく、メールの下書きが開かれていた。宛先には、春から一度も会っていない友人の名前が入っている。件名は「まだ起きてる」。本文は空白だった。
僕はその下書きに見覚えがなかった。そもそも今どきメールで友人に連絡すること自体が少し古い。けれど宛先の名前を見た瞬間、胸の奥に、小さくて硬いものが落ちた。彼とは高校の頃、毎日のように一緒に帰っていた。進学先が分かれてからも、最初の一ヶ月くらいは互いに近況を送り合っていたが、そのうち返信の間隔が伸び、最後にはどちらからともなく止まった。別に喧嘩したわけではない。理由がないまま失われる関係ほど、責める相手がいなくて困る。
画面がひとりでに明るくなった。過去の通知が、雨上がりの虫のように次々と浮かび上がる。「今日暇?」「履修どうした」「また飯行こう」「生きてる?」。懐かしい文面だった。僕はその全部に、明日返そうと思った記憶がある。明日という言葉は、小さな棺桶に似ている。入れたものはたいてい戻ってこない。
ふと顔を上げると、駅のロータリーに誰もいなかった。タクシーも、酔った会社員も、コンビニの前でたむろする学生もいない。ただ白線だけが、夜の底に向かって幾何学的に伸びていた。その白線の上に、文字が並んでいる。僕が打たなかった返信だった。
「今度行こう」
「悪い、寝てた」
「最近ちょっと忙しい」
「また連絡する」
どれも嘘ではなかった。嘘ではない言葉ほど、人を遠ざけることがある。僕は白線の上にしゃがみ、指先で一つを撫でた。すると文字は細かい砂になって崩れ、アスファルトの隙間に吸い込まれていった。代わりにスマートフォンのバッテリーが一%減った。残りは二%だった。
駅の改札の向こうから、見覚えのある背中が歩いてきた。友人だった。高校の制服を着て、片方の肩にだけ鞄をかけ、相変わらず少し猫背で、こちらを見ずに券売機の前で立ち止まった。僕は名前を呼ぼうとしたが、喉が固まって声が出なかった。彼は振り向かないまま言った。
「忙しかった?」
その声は懐かしいというより、まだ昨日の続きのようだった。僕は何か言わなければならないと思った。ごめんでも、久しぶりでも、元気だったでもいい。けれど出てきたのは、あの頃と同じ、くだらない強がりだった。
「まあ、普通」
彼は少し笑ったように見えた。見えただけかもしれない。券売機の画面が青白く光り、その光の中で彼の輪郭が薄くなっていく。僕は慌ててスマートフォンに指を置いた。下書きの本文に、震える手で文字を打った。
まだ起きてる。
送信ボタンを押す直前、バッテリーが一%になった。押せば何かが変わる気がした。押しても何も変わらない気もした。駅前の時計は零時を過ぎていた。今日が終わり、明日になった。僕は明日という棺桶の蓋に、初めて少しだけ手をかけた。
送信した瞬間、画面は真っ暗になった。僕の顔だけが映っていた。ひどく疲れた顔だったが、まだそこにあった。遠くで電車の走る音がした。終電はもうないはずなのに、その音は確かにこちらへ近づいてきていた。




