次の一分
これにて本編は終了は終了となります。
地上へ戻ったあと、青年は何度も同じことを尋ねられた。
名前。
生年月日。
現在の日付。
ここへ来た目的。
地下区域へ入ってから、何があったのか。
質問する者は替わったが、内容はほとんど変わらない。青年も、そのたびに同じ答えを返した。
自分が誰で、なぜ青森にいるのかは分かる。
神崎と佐伯を覚えている。
地下区域へ入ってからのことも、消えていたあいだに認識したものも、失われてはいない。
ただし、それが何だったのかは説明できない。
最初の確認は、三人が地上へ戻った地点の近くで行われた。
現地支援班が設置していた車両へ移され、外傷、意識状態、体温、脈拍が順に確認された。携行していた装備も回収され、地下区域で使用した機器とは分けて保管された。
青年だけが、同じ質問を時間を置いて繰り返し受けた。
記憶に欠落がないか。
自分の身体に違和感はないか。
現在いる場所を正しく認識できているか。
視界に、地上には存在しないものが残っていないか。
どれも問題はなかった。
少なくとも、青年自身が答えられる範囲では。
神崎と佐伯も別々に確認を受けていた。二人の姿は車内の仕切り越しに一度見えただけで、その後は別の車両へ移された。
地下区域を出た直後から、三人が互いの証言を照合する機会は与えられていない。
それは疑われているからではなく、それぞれが何を見て、何を確認できなかったのかを、混ざる前に記録するためだと説明された。
青年にも、その必要性は分かった。
神崎と佐伯が確認したのは、青年の姿が消え、約二十秒後に別の位置へ現れたことだけだった。
青年がそのあいだに認識したものは、二人の証言だけでは説明できない。
先に誰かの説明を聞けば、自分の記憶の順序まで変わってしまうかもしれなかった。
青森での初期確認を終えたあと、三人は本局へ移動した。
移動中、青年はほとんど眠れなかった。
目を閉じると、幾何学的な輪郭が浮かぶ。
輪郭そのものを正確に思い出せるわけではない。線の数も、形も、配置も固定されず、思い返すたびに違って見えた。
それでも、忘れてはいなかった。
形を定められないまま、記憶の中に残っている。
本局へ到着すると、検査はさらに細かくなった。
神経学的な反応。
記憶と認知。
血液や画像による身体状態の確認。
地下区域へ入る前に残されていた記録との比較。
佐伯と神崎も検査を受けたが、青年だけは時間を置いて同じ項目が繰り返された。消失前後で変化がないかを確認するため、結果が出てもすぐには解放されなかった。
青年は本局内の一室で経過観察を受けることになった。
窓のない部屋だった。
簡素な寝台と机があり、壁にはデジタル時計が掛かっている。
秒を示す数字は止まらず、一分ごとに時刻表示が切り替わった。
青年は気づくたびに時計を見た。
何かが起きると思っていたわけではない。
ただ、次の数字へ切り替わったことを確かめてからでなければ、視線を外しにくかった。
会社には、翌日の午前中に連絡を入れた。
予定していた休暇を延ばしたいと伝えると、電話の向こうで上司が短く黙った。
「体調を崩したのか」
「検査が長引いていて」
嘘ではなかった。
ただ、何の検査なのかは説明できない。
青年が言葉を探していると、上司は詳しく聞こうとはしなかった。
「分かった。こっちは何とかする。戻れる日が決まったら連絡してくれ」
「すみません」
「謝るのは戻ってからでいい。今はちゃんと休め」
電話を切ったあと、青年はしばらく暗くなった端末の画面を見ていた。
検査と経過観察は数日続いた。
その間、日常生活への復帰を妨げる身体的、認知的な異常は確認されなかった。
青年本人と位置記録が食い違う状態も、地上へ戻ってからは再発していない。
ただし、既存の検査で異常が見つからなかったことだけを理由に、影響が残っていないとは判断されなかった。
その区別を、局は曖昧にしなかった。
三日目の午後、青年は正式な聞き取りを受けた。
これまでの確認とは違い、机の上には記録用の端末と複数の資料が置かれていた。正面には神崎が座り、その隣に聞き取り担当の局員がいる。
佐伯の姿はなかった。
彼女の証言は、別に記録されているらしい。
「最初から、順番に話してくれ」
神崎が言った。
「分からない部分は、分からないままでいい。見たと判断できないものを、見たことにする必要もない」
青年は頷いた。
どこから始めるべきかは、何度も考えていた。
地下区域で、二人の後ろを歩いていた。
そこまでの記憶はある。
だが、自分が地下区域から消えた瞬間は認識していない。
次に気づいたときには、上下も距離も定められない場所にいた。
「場所、と呼んでいいのかは分かりません。広さも、自分がどこにいるのかも定まりませんでした」
青年が言葉を止めると、神崎は先を促さなかった。
正確に話そうとするほど、一つの表現から外れるものが増えていく。
青年は、形を固定できない何かについて話した。
幾何学的で、機械のようにも見えた。だが、それ自体が機械だったのか、理解できないものを青年の認識がそう置き換えたのかは分からない。
「見られていると感じました。でも、目があったわけではありません。僕だけが、ほかから分けられていたような感じです」
「意思があると判断できたか」
「できません」
神崎はその答えを記録させた。
青年は次に、繰り返されていた配置について話した。
起点、入力、処理、結果、終端。
そう読めたわけではない。人間の言葉を当てはめるなら、それがもっとも近いと思えただけだった。
結果が一致しなければ、配置は起点に相当する状態へ戻される。青年にはそう見えた。
「同一の起点へ戻ったと断定できるか」
「できません。似た配置を、同じものだと思っただけかもしれません」
局員の指が端末の上で止まり、入力した文章の一部を修正した。
青年の証言は、少しずつ記録へ変わっていった。
実際に存在したものではなく、青年が存在したと認識したもの。
起きたと確認されたことではなく、青年にはそう感じられたこと。
二つは、明確に分けられていた。
青年は、六つに見えた反応と、その周囲に重なった《識別値13》についても話した。
一九九九年の六名と結びついているように感じたが、六名そのものを認識したとは言えない。数字も十三分停止を連想させただけで、同じものだとは判断できなかった。
「対応の可能性あり。意味は未確認として記録する」
神崎が告げると、局員が入力を続けた。
聞き取りは一度中断され、青年には水が渡された。
話した時間は一時間にも満たなかったが、最初にあの場所を認識したときよりも疲れていた。
言葉へ置き換えるたびに、記憶の一部だけを切り取っている気がした。
それでも、話さなければ残らない。
休憩のあと、青年は、自分が配置へ加えたと感じた考えについて話した。
既発生の結果を消して戻るのではなく、その結果を残したまま、もう一度選ぶ。
言葉が伝わったとは思っていない。ただ、その考えに相当する何かが配置へ加わったように見えた。
何度試されても、結果とその先のどちらか一方しか残らなかった。
「最後は」
神崎が尋ねた。
青年は目を閉じた。
記憶の中で、配置が再び組み替わる。
既発生の結果が残っている。
未知の入力も外れない。
その先へ、細い関係が延びていく。
「一度だけ、起点へ戻らずに残りました。少なくとも、僕にはそう見えました」
「成功した、あるいは君の考えが理解されたと判断できる反応は」
「ありませんでした」
神崎はそこで質問を止めた。
一度だけ異なる配置が残った。
客観的に記録できるのは、青年がそう証言したことだけだった。
それが何を変えたのか。
いまも残っているのか。
上位処理の全体に影響したのか。
どれも、この場では判断できない。
「ほかに残っているものはあるか」
神崎が尋ねた。
青年は答えようとして、言葉を止めた。
あの場所で認識したものは、すでにすべて話したつもりだった。
それでも、何かが残っている。
記憶の奥に沈んだまま、形を定められない断片。
一度だけ残った配置の周囲に現れ、青年自身がそこへ含まれる直前まで消えなかったもの。
「数字みたいなものがありました」
神崎の視線がわずかに変わった。
「《識別値13》とは別に?」
「はい。でも、数字だったのかも分かりません」
机の上へ紙が置かれた。
青年はペンを受け取り、記憶に残っている形を書こうとした。
一本目の線を引いたところで、手が止まる。
その隣へ何があったのかを思い出そうとすると、別の並びが重なった。
数字に近い。
位置を示しているようにも思える。
だが、どこからどこまでを一つの情報として扱えばよいのかが分からない。
青年は一度書いた線を消し、別の形を書いた。
それも違って見えた。
「固定できないのか」
神崎が尋ねる。
「覚えていないわけじゃありません」
青年は紙を見たまま答えた。
「思い出すたびに、違う並びが同時に出てきます。数字だけじゃなくて、その周りにあった位置関係まで一緒に残っているような……」
「特定の場所を示していると思うか」
「分かりません」
地点を示しているのか、配置の中で占める位置なのか、それとも人間の数値へ置き換えられない情報なのか。青年には判断できなかった。
青年は何度か書き直した。
どれも完全には一致しなかった。
それでも、並びが変わっても残る部分があった。
互いに離れた二つのまとまり。
そのあいだにある、読み取れない関係。
どちらが先かは定まらない。
だが、一方が変わると、もう一方の位置も変わった。
神崎は書き直された紙を順に並べた。
すぐに意味を求めることはせず、青年が書いた順序と、そのとき口にした説明を一つずつ記録させていく。
「今日はここまでにしよう」
最後の紙が保存されたあと、神崎が言った。
青年はペンを置いた。
結局、断片が何を示しているのかは分からなかった。
ただ、意味のないものとして消されることもなかった。
青年が形を固定できないこと。
数値または位置関係に近いものとして認識していること。
表現を変えても、一部の関係だけは残り続けること。
それらが、青年の証言として記録された。
机の上には、同じものを書こうとして一致しなかった複数の紙が並んでいる。
神崎はそのどれか一枚を答えとして選ばなかった。
すべてを別々に保存するよう局員へ指示した。
青年にも、異論はなかった。
まだ、意味は分からない。
けれど、分からないまま残すことはできる。
一度だけ起点へ戻らなかった配置と同じように、その断片も消されることなく、人間側の記録へ加えられた。
青年が書いた紙は、翌日には画像データへ変換され、現地観測記録と同じ画面に並べられていた。
元の紙も残されている。
線を引いた順序。
書き直す前に青年が口にした言葉。
途中で消した形。
一度は違うと判断しながら、別の紙でも同じ位置へ書き加えた線。
完成した図だけを比べるのではなく、そこへ至るまでの過程も、一つずつ記録されていた。
青年は前日と同じ部屋に座っていた。
机の配置は変わっている。正面の大型画面には、青年が書いた複数の図が半透明に重ねられていた。その隣には、青森地下区域で取得された三名分の位置記録と、神崎の携行端末に残った表示が並んでいる。
佐伯も同席していた。
本局へ戻ってから、三人が同じ部屋に揃うのは初めてだった。
神崎は画面の前に立ち、照合担当の局員が操作する端末へ視線を向けている。
「最初に、分けておく」
神崎が言った。
画面の表示が切り替わった。
左側に《観測事実》、右側に《本人証言》と記された二つの欄が現れる。
「地下で記録されたことと、君が認識したことは同じではない。対応しているように見える部分があっても、先に一つへまとめない」
青年は頷いた。
左側には、消失前後の観測結果が時系列に沿って並んでいた。
青年の姿が確認できなくなった時点でも、三名分の反応は維持されている。
そのうち一つは、神崎と佐伯の後方に残り続けた。
約二十秒後、後方の反応は消失せず、途中の位置も記録されないまま二人の前方へ切り替わった。
そこに青年が現れた。
画面上では、一本の線が途中で途切れているように見えた。
だが、実際には移動記録が途切れたのではない。
移動そのものが記録されていなかった。
後方にあった点が、次の観測では前方にある。
そのあいだに成立する位置が存在しない。
「反応が同一のものだったと、機器側で確認できるんですか」
青年が尋ねた。
照合担当の局員が答える。
「同じ対象として追跡していた反応です。ただし、それが消失中のあなた本人だったとは、観測記録だけでは証明できません」
「別の何かだった可能性もある?」
「排除できません。反応の継続と、あなたの不在が同時に確認されています」
佐伯が画面を見たまま言った。
「そこにいるという記録だけが残って、本人はいなかった」
「そう見える」
神崎が答えた。
「だが、何が残っていたのかは分からない。君の一部だったのか、位置だけだったのか、機器が同じ反応として扱った別のものなのか。その区別はまだできない」
青年は右側の欄へ目を移した。
そこには、青年の証言が断定を避けた形で整理されていた。
上下も距離も定められない場所を認識した。
形を固定できない幾何学的な何かが存在した。
同じように見える配置が繰り返された。
期待されている結果と一致しない場合、配置は起点に相当する位置へ戻されたように感じられた。
《識別値13》に近い情報と、形式不一致を認識した。
既発生の結果を残したまま、その先へ別の選択を加える考えを示した。
最後の一度だけ、結果と未知の入力の両方を含む配置が、起点へ戻らずに残った。
すべての項目に、同じ注記が付いている。
《本人の認識に基づく証言》
「記憶の欠落は、やはり確認されていません」
別の局員が検査結果を表示した。
「少なくとも、通常の記憶検査で確認できる範囲では、消失前後に連続性があります。地下へ入る以前の記憶にも、新たな欠落は見つかっていません」
「佐伯さんの時とは違う」
青年が言うと、佐伯はわずかに視線を下げた。
彼女が別の世界から帰還したとき、失われていたのは出来事そのものではなかった。
六名で地下区域へ入ったこと。
仲間がいたこと。
自分だけが別の場所へ移り、帰還を選んだこと。
そうした概略は残っている。
だが、五名それぞれの顔や名前、交わした細かな言葉は、思い出そうとするたび輪郭を失った。
「同じ処理を受けたとは限らない」
神崎が言った。
「消失時間も、戻った位置も、帰還後の状態も違う。共通しているのは、通常の移動では説明できない位置の変化が起きたことだけだ」
画面に、別の記録が加えられた。
青年の周囲で最初に確認された解析端末の異常表示。
佐伯の帰還後に確認された表示。
青年が佐伯と面会した際、その接近に伴って安定した六つ目の照合枠。
それぞれが、表示の発生時刻と、その直前に通常機器が取得していた物理的変化とに分けて並べ直された。
表示された語だけを見れば、互いに関係しているように思える。
《観測対象》
《整合対象六》
《接続維持対象》
《代償対象》
だが、それらを一つの処理系が送った文章として扱える記録はない。
送信元は確認されていない。
通信履歴にも残っていない。
通常ログへ保存されなかった表示もある。
同じ操作を繰り返して再現できた例もなかった。
「端末が、あの存在から情報を受け取っていたわけではないんですね」
青年が言った。
「少なくとも、その証拠はない」
神崎は答えた。
「通常機器が記録したのは、現実側で起きた位置、時刻、反応、接続状態の変化だ。異常表示については、通常の測定項目へ収まらない変化へ、既存の表示系が近い診断語を割り当てた可能性がある」
照合担当の局員が、過去の表示と通常観測値の変化を一つずつ対応させていく。
すべてが説明できるわけではなかった。
通常の測定項目へ収められない変化を、端末側の表示形式へ置き換えようとした可能性はある。
その仮定を用いれば、異常表示の一部は、上位の何かから答えを受信したと考えなくても説明できた。
ただし、それだけですべての表示を説明できるわけではない。端末内の既存語彙だけでは構成できない表示もあり、発生源は依然として確認されていなかった。
「それなら、表示された役割が正しかったとも限らない」
佐伯が言った。
「ああ」
神崎は頷いた。
「現実側に何らかの関係が生じたことまでは観測できる。だが、その関係を《代償対象》と呼ぶのが正しいかは別だ。機器がそう表示したことと、実際にその役割が存在したことは分ける必要がある」
青年は、右側に残された自分の証言を見た。
自分が認識した文章も同じだった。
読めたからといって、それが元の情報と同じ意味だったとは限らない。
人間の言葉へ置き換えようとした結果、起点や入力、結果という語に近づいただけかもしれない。
それでも、繰り返されていた関係そのものは覚えている。
結果が合わなければ戻る。
同じような配置が、何度も組み直される。
最後の一度だけ、戻らなかった。
神崎が画面上の二つの欄を見比べた。
「ここから先は仮説になる」
室内にいた局員たちの手が止まった。
「一九九九年以降に確認された異常を、すべて無関係な事象として扱うことにも無理がある。時刻、位置、対象、記録、世界間の接続。現れ方は違うが、比較すべき共通点が残っている」
画面上で、複数の記録が一本の時間軸へまとめられた。
一九九九年の十三分停止。
青森地下区域での六名の消失。
二十七年後に確認された地下構造。
別世界への移行と佐伯の帰還。
青年の周囲で安定した六つ目の照合枠。
世界規模へ拡大した位置の不一致。
青年の消失と、途中の位置を記録しない再出現。
個別に見れば、同じ現象とは言えない。
発生した場所も、規模も、観測された結果も異なる。
それでも、通常なら一つに定まるはずの関係が定まらないという見方をすれば、複数の記録を比較できる余地があった。
時刻、位置、対象、所属する世界。本来なら一つに定まるはずの関係を確定しようとすると、別の記録との矛盾が生じる。
さらに、先行する異常で確認された特徴と、後年の記録とのあいだには、比較可能な部分が残っている。
「君が見た反復が客観的に存在したとは、まだ認定できない」
神崎は青年へ向き直った。
「だが、君の証言を除いても、一九九九年以降に複数の異常が確認され、その一部に過去の記録と比較できる特徴があることまでは確認できる。それらが同じ原因から生じたのか、過去の結果を引き継いでいるのかは、まだ分からない」
「別々に見えたことが、つながっているかもしれない?」
「その可能性がある」
神崎は断定しなかった。
「自然現象なのか、自動的な処理なのか、意思を持つ存在によるものなのか。それも分からない。ただ、君の証言にあるような、人間とは異なる基準で結果を照合する何かを仮定すれば、複数の記録を同じ観点から検討できる」
青年が認識した、形の定まらない存在。
自分を見ていたように感じたもの。
配置を何度も組み替えていた何か。
それが本当に一つの主体だったのかは分からない。
幾つもの処理が重なったものを、青年が一つの存在として捉えただけかもしれない。
「《識別値13》は」
佐伯が尋ねた。
画面に、一九九九年七月十八日の時刻記録が表示された。
《16:42》
《16:55》
十三分。
その隣には、青年の証言から抽出された《識別値13》が置かれている。
「対応を疑う理由はある」
神崎が答えた。
「だが、同じ数字だからというだけでは意味を確定できない。《13》が停止時間を示したのか、対象を識別していたのか、処理上の別の値が十三として認識されたのかは分からない」
「それでも、並べて検討する必要はある」
「そうだ。だから対応の可能性として残す」
一つの答えにはならなかった。
それでも、これまで別々に保管されていた記録は、初めて同じ仮説の上へ置かれた。
人間とは異なる基準で結果を照合する何かが存在する可能性。
その何かが、期待する結果へ至らない処理を反復していた可能性。
一九九九年以降の異常の一部が、その反復と関連している可能性。
どれも確定ではない。
だが、検討する価値のある仮説として、記録から退けられることもなかった。
「では、残った断片を確認します」
照合担当の局員が画面を切り替えた。
青年が書いた複数の図だけが残る。
線の形は一致していない。
離れた二つのまとまりも、紙ごとに位置が違う。上下が入れ替わっているものもあれば、一方がもう一方を囲むように描かれたものもある。
昨日は、どれも別の図に見えた。
だが、半透明にして重ねると、変化していない部分があった。
二つのまとまりの距離ではない。
向きでもない。
一方が動くと、もう一方も一定の関係を保ったまま位置を変える。
紙の上では形が崩れていても、その対応だけは失われていなかった。
「この部分を、もう一度書けますか」
局員が一枚の紙を示した。
青年は新しい紙を受け取った。
前日と同じ形を再現しようとはしなかった。
記憶に浮かぶものを、そのまま線へ置き換えていく。
やはり、途中で並びが変わった。
青年は手を止めたが、紙を捨てず、変わったあとの位置へ別の線を書き加えた。
「今、同じものが動いたんですか」
「動いたというより……見方が変わると、場所も変わります」
「何から見た場所ですか」
「分かりません」
「二つのまとまりの関係は」
青年は紙を見つめた。
形は違う。
位置も違う。
それでも、一方だけを動かすことはできなかった。
「離れているけど、別々ではないように感じます」
局員が、その言葉を記録する。
青年はさらに数枚の紙へ書いた。
同じ形にはならなかった。
だが、表現が変わっても残る関係は、次第に絞られていった。
二つのまとまり。
一方を基準にしたときだけ定まる、もう一方の位置。
そのあいだにある、向きとも距離とも一致しない変化。
局員が図の重ね方を変えた。
紙の端や線の向きを基準にするのではなく、一方のまとまりだけを同じ位置へ固定する。
すると、もう一方の線が狭い範囲へ集まった。
「座標ではないな」
神崎が言った。
「このままでは違います」
照合担当の局員も頷く。
「固定された一点を示していません。基準を変えるたび、再計算が必要になります」
「だが、位置情報に近い」
神崎は画面へ近づいた。
青年が帰還したとき、絶対座標は確定できなかった。
それでも、三名の反応と保存記録との相対関係は照合できた。
現在地がどこか分からなくても、既知の記録のどこに相当するかは比較できた。
神崎は画面上の一方のまとまりを指した。
「これを青森側の記録と仮定してみてくれ」
「根拠は」
「仮定するだけだ。合わなければ外す」
局員が、一九九九年に記録された青森地下区域の位置情報を呼び出した。
現在の地図へ一点を置くだけでは一致しない。
当時の測量記録。
異常発生前後の変動。
六名の位置が確認できなくなった時点の相対配置。
それらを基準にして、一方のまとまりへ重ねる。
もう一方のまとまりが、地図上の別の位置へ移った。
画面に複数の候補地点が表示される。
一九九九年当時、青森と同じ時期に異常が報告されながら、調査の優先度が低いと判断された地点だった。
記録の不足。
異常継続時間の短さ。
現地確認時に再現しなかったこと。
理由は地点ごとに異なるが、いずれも主要な調査対象にはならず、未解決記録として保存されている。
局員が候補を一つずつ照合した。
最初の地点では、一部の関係だけが一致した。
二つ目は、距離を合わせると向きが外れた。
三つ目では、当時の観測値と青年の図に共通点を見いだせなかった。
候補が減っていく。
最後に残った地点で、局員の操作が止まった。
画面上の線が重なる。
完全な一致ではない。
青年が書いた形そのものは、地図上の座標列にはならない。
それでも、青森を基準とした相対関係へ置き換えたとき、何度書き直しても残った部分が、一九九九年の記録と同じ位置を示した。
「別の変換条件でも確認してください」
神崎が言った。
基準の取り方が変えられた。
一枚の図を除外する。
最初に書いた紙だけを使う。
途中で消した線を含める。
順序を逆にして再構成する。
結果には幅が出た。
だが、その地点だけは範囲から外れなかった。
「一致と判断できます」
局員が言った。
「少なくとも、青年の再現図から抽出した関係を位置情報として扱う場合、この候補地点と対応します」
神崎はすぐに答えなかった。
青年も画面を見ていたが、その場所に見覚えはなかった。
地名を聞いても、何も思い出さない。
あの場所で見た断片が、そこを示していたという感覚もなかった。
一致したのは、青年の記憶ではない。
記憶から取り出された関係と、局に保存されていた記録だった。
「この地点の、その後の記録を」
神崎が言った。
検索範囲が広げられた。
一九九九年当時の観測資料だけではなく、その周辺で後年に発生した未解決事例、保護記録、身元不明者、時刻や位置の不整合を伴う報告が呼び出される。
数件の記録が表示された。
多くは、今回の照合と結びつかなかった。
年代が違う。
発見位置が離れている。
通常の事故や失踪として処理され、異常を示す記録が残っていない。
その中に、一件だけ、局の要観察記録へ移された事例があった。
一九九九年から約十年後。
候補地点の近くで、身元不明の男性が保護されている。
「この記録……」
佐伯が身を乗り出した。
青年にも、その反応が何に向けられたものかは分からなかった。
画面には、発見時の状況が簡潔に表示されている。
早朝、付近に住む老夫婦が男性を発見した。
見慣れない服装。
照合できない所持品。
外傷は軽微。
意識の回復後も、本名と過去の身元情報を答えられなかった。
通常の行方不明者記録に該当者はなく、複数の照会でも身元は確認されていない。
一部の物理的な記録にも、既存資料と照合できない欠落があった。
そのため、発見記録は局の前身資料に残る異常事例と関連づけられ、男性本人も要観察対象として登録されていた。
「青森の記録とは照合されていなかったのか」
神崎が尋ねる。
「候補には入っています」
局員が答えた。
「ただし、一九九九年の五名には顔写真と基本情報があります。保護された男性とは、通常の照合で一致しませんでした。年齢推定にも幅があり、指紋その他の記録も対応していません」
「本人確認に使える記憶は」
「ありません。本人は保護以前の身元を思い出していません」
佐伯は黙ったまま画面を見ていた。
彼女に残る五名の記憶も、人物を特定できる状態ではない。
名前を見ても、顔を思い出すことはできない。
その人物が仲間だったと証言するための記憶は、彼女の中にも残されていなかった。
「現在は?」
神崎の問いに、局員が別の資料を開いた。
男性は、発見後、自分を保護した老夫婦のもとで暮らし始めていた。
やがて老夫婦の姓を名乗り、朝に目を覚ましたことから、新しい名も与えられた。
画面に、現在の登録名が表示される。
《小野寺朝人》
青年は、その名前を初めて見た。
発見当時の写真が開かれた。
簡素な服を着た男性が、正面を向いている。
警戒しているようにも、自分がどこにいるのか分かっていないようにも見えた。
写真だけを見れば、青年には知らない人物だった。
佐伯が息を止めた。
画面へ伸ばしかけた手が、机の上で止まる。
写真の顔。
目元と、わずかに傾けられた首。
そのどこに佐伯が反応したのか、青年には分からなかった。
それでも、佐伯は画面から目を離さなかった。
「まさか――」
「佐伯」
神崎が静かに止めた。
否定する声ではなかった。
佐伯も、それ以上は言わなかった。
「確認できたのは、地点の一致までだ」
神崎は画面上の記録を指した。
「青年に残った断片から再構成した位置は、この男性が発見された地点と一致している。発見された時期や当時の状態にも、比較すべき点はある」
「でも、この人が」
「可能性はある」
神崎は言葉を遮らずに答えた。
「だから再調査する。ただ、この写真に面影を感じたことだけでは、人物の特定には使えない。君の記憶には、五名を個別に識別できる情報が残っていない」
佐伯は、写真から目を離さなかった。
否定されたわけではない。
だが、肯定されたわけでもなかった。
「分かってる」
「小野寺朝人が、一九九九年に消えた五名のうち一人である可能性は調査する。ただし、何人目だったのかは決めない。三人目だと断定できる記録も、まだない」
画面には、一九九九年当時の五名の資料と、小野寺朝人の保護記録が並べられた。
通常の人物照合では一致しない。
記憶による確認もできない。
だが、青年が持ち帰った断片は、青森とは別の一地点へつながった。
その地点では、五名の消失から約十年後、過去を持たない一人の男性が発見されている。
無関係な別人である可能性は残る。
別の異常失踪者である可能性もある。
それでも、これまで生存を示す記録が見つかっていなかった五名について、初めて「その後」が存在する可能性が加わった。
「生きていたかもしれないんですね」
青年が言った。
神崎はすぐには頷かなかった。
「この男性が五名の一人なら、その後も生きていたことになる」
慎重に区切られた言葉だった。
「今の記録から言えるのは、まだそこまでだ」
佐伯は写真を見つめていた。
思い出したとは言わなかった。
名前を呼ぶこともできない。
それでも、その視線は、ただの身元不明者を見るものには見えなかった。
青年は、机の上に残された自分の紙へ目を落とした。
何を示しているのか分からなかった断片。
一つの形にさえ定められず、何度書いても別の並びになったもの。
そこから、失われた五名の一人かもしれない人物へ結びつく可能性が、照合結果に加わった。
あの存在が教えたのかは分からない。
青年は、机の上に残された自分の紙へ目を落とした。
何を示しているのか分からず、何度書いても一つの形に定まらなかった断片。
そこから、失われた五名の一人かもしれない人物へ結びつく可能性が、照合結果に加わった。
あの存在が教えたのかは分からない。
青年に何かを伝えようとしていたとも限らない。
一度だけ起点へ戻らなかった配置の周囲に、別の処理で使われていた情報が残っただけかもしれなかった。
それでも、その断片は消えなかった。
青年の中に残り、人間の記録へ移され、過去の資料と照合された。
分からないまま残されたものが、二十七年前に途切れた記録の先へ、細い線を延ばしていた。
自宅へ戻ると、美琴が先に来ていた。
玄関に揃えられた靴を見つけた瞬間、佐伯はようやく肩の力を抜いた。
「おかえり」
居間から顔を出した美琴が言った。
「ただいま」
佐伯が答えると、美琴は母の顔をしばらく見てから、小さく息を吐いた。
「連絡、遅かった」
「ごめんなさい」
「三人とも戻ったって聞くまでは、安心できなかった」
佐伯は何も言い返さなかった。
食卓には、二人分の夕食が並べられていた。温め直したらしい湯気が、照明の下でゆっくりと崩れている。
「何か分かったの」
美琴に尋ねられ、佐伯は椅子へ座る前に足を止めた。
「分かったことはある」
口にしてから、少し考える。
「でも、まだ分かったとは言えないことの方が多いわ」
美琴はそれ以上を尋ねなかった。
テーブルの向こうで首を傾ける。その何気ない仕草に、佐伯は一瞬だけ別の顔を重ねた。
画面の中にいた、知らないはずの男性。
《小野寺朝人》
似ていたわけではない。
ただ、写真を見たときにも、記憶の奥で何かがわずかに動いた。
思い出したわけではなかった。
あの顔を知っていると証言することもできない。
写真に感じたものを、証拠に変えることはできなかった。
神崎から再び確認を求められたなら、佐伯は断らないつもりだった。
ただ、自分の感覚だけを理由に、すでに自分の生活を築いている男性の前へ立つつもりもなかった。
「まだ、終わってないんだね」
美琴が言った。
佐伯は否定しなかった。
「ええ。でも、今日は帰ってきたわ」
美琴は一度だけ頷き、箸を手に取った。
「お母さん、冷めるよ」
美琴の声に、佐伯は顔を上げた。
「今行く」
佐伯は立ち上がり、美琴の待つ食卓へ戻った。
神崎は、翌朝もいつもと同じ時刻に本局へ入った。
夜勤者と朝の担当者が引き継ぎを行い、室内の端末には複数の案件が並んでいた。
青森の記録が追加されても、それ以前から続く調査が消えるわけではない。
自席に着くと、机上には昨夜までに整理された資料が置かれていた。
進入班の行動記録。
現地支援班の観測結果。
青年の消失と再出現に関する時刻資料。
本局で行われた聞き取りの記録。
神崎は、それぞれに付けられた分類を確認していった。
青年が見たものは、本人の申告として保存されている。接触した存在の実在までは、確認事項に移されていない。
小野寺朝人についても、確認できた記録と、そこから考えられる可能性は分けて扱われていた。
再構成された位置と発見地点の一致は照合結果へ加えられたが、青森で消失した五名との対応は保留されたままだった。
「小野寺朝人の記録は、通常案件から切り離して再確認してください」
神崎が担当者へ告げた。
「本人への接触はどうしますか」
「まだ行わない。現在の生活状況と、当時の保護記録を先に確認する」
「佐伯さんへの聞き取りは」
「必要になれば続ける。ただし、写真への反応を人物同定の根拠にはしない」
担当者が頷き、指示を記録した。
「二十七年前の記録だけを理由に、今の生活へ踏み込むことはできない」
神崎は画面上の人物記録へ視線を戻した。
「接触するなら、確認すべきことを先に整理する」
画面の端には、一九九九年の時刻記録が残っていた。
《16:42》
二十七年前にも、何が起きたのかは分からなかった。
今も、答えが得られたわけではない。
確認できた事実と、まだ判断できない項目は、別々の欄に残されていた。
「この件の区分はどうしますか」
担当者が尋ねた。
神崎は、画面に残る複数の未確認項目を見た。
「継続で」
数日後、青年は会社へ戻った。
電車は予定どおり駅へ着いた。降りた人々はそれぞれの行き先へ歩き、青年もその流れに混じった。
執務室へ入っても、誰かが立ち上がって迎えるようなことはなかった。
自席へ向かう途中、近くの同僚が顔を上げた。
「もう大丈夫なのか」
「はい。ご迷惑をおかけしました」
「それは上司に言ってくれ」
同僚は青年の机を指した。
「こっちはちゃんと残してあるから」
机の上には、確認待ちの資料が積まれていた。
「少しは減っているかと思いました」
「休んだ人間にそんな都合のいい話があるか」
青年は小さく笑い、椅子を引いた。
休んでいたあいだの仕事が、すべて止まっていたわけではない。
同僚が引き継ぎ、次の工程へ進んだものもある。青年の確認を待ったまま、残されている案件もあった。
青年は残された案件を手元へ寄せ、最初の資料を開いた。
「ところで、何の検査だったんだ」
同僚に尋ねられ、青年は資料へ目を落としたまま少し考えた。
「説明しにくい検査です」
「じゃあ聞かない」
それで会話は終わった。
午前中は、休暇中に更新された内容を追うだけで過ぎた。
見慣れた数字。
修正された予定。
自分がいないあいだに加えられた判断。
青年は一つずつ確認し、必要な箇所へ印を付けていった。
体験したことを、ここで話すことはできない。
それでも、話せないことまで消えたわけではなかった。
記憶の奥には、形を定められない配置が残っている。
一度だけ起点へ戻らなかったもの。
その周囲に残った、まだ意味を持たない断片。
青年は資料から顔を上げた。
気づけば、机の端に表示された時刻を見ていた。
数字が変わるまで待っている自分に気づいた。
一秒。
もう一秒。
時計の数字が切り替わった。
次の一分が、何事もなく始まった。
青年は視線を戻し、残っていた仕事へ手を伸ばした。




