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境界線 ―1999、世界は十三分止まった―  作者: 夕花
第二部『帰還』

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13/25

- Introduction II - 未完了

「帰還とは、来た道を戻ることではない。残された道のどれを帰路と呼ぶか、選ぶことである」

――ミレイユ・アーデン『帰郷について』

扉が閉じたあとも、室内にはしばらく人の気配が残っていた。


机の上には、閉じられた資料が一冊。


神崎と青年が去ったいま、それに触れる者はいない。


壁際の端末だけが、低い駆動音を保っていた。


画面には、先ほどまで閲覧されていた報告書が表示されている。


《時間異常調査局 特別調査報告書》


報告番号――TAR-1999-07-18-AO-13。


青森県八甲田山地下区域で確認された未知構造物、および関連する時間異常現象について。


現地調査は、ひとまず完了した。


報告書は承認され、一つの記録として閉じられた。


画面の隅には、そのことを示す表示が浮かんでいる。


《処理完了》


やがて端末が休止状態へ移行し、室内から光が消えた。


暗闇のなかで、機械の動作音だけがわずかに続いていた。


数秒後。


消えたはずの画面が、再び点灯した。


誰も操作していない。


入力を示すカーソルが明滅し、閉じられた報告書の文字列が上から順に読み取られていく。


《観測対象》


《13》


二つの語句が抽出され、照合処理が開始された。


検索範囲は、調査局の現行記録に留まらなかった。


端末は保管区分を越え、閲覧制限のかけられた記録群へ接続する。


通常の検索では表示されない、古い記録領域だった。


画面の中央に、短い警告が現れる。


《アクセス権限を確認できません》


その表示は、次の瞬間には消えていた。照合は止まらない。


年代も、作成部署も、記録形式も異なる資料が次々と通過していく。


該当なし。


該当なし。


該当なし。


同じ結果が繰り返されたあと、処理が止まった。


一件の記録が画面に残る。


文書名は表示されていない。


作成者も、記録された場所も空欄だった。


ただ、中央に並んだ項目だけが、暗い室内を照らしている。


《調査参加者 六名》


《帰還者 一名》


《経過観察 終了》


その下に、今回の報告書から抽出された二つの語句が重ねて表示された。


《観測対象》


《13》


一致を示す枠が、両方の記録を囲む。


処理は、何らかの判断を待つように停止していた。


やがて、古い記録の最下段でカーソルが動いた。


《経過観察 終了》


最後の二文字が、音もなく消去される。


代わりに、新しい文字が一つずつ入力されていく。


《経過観察 再開》


更新日時が記録される。


だが、更新者の欄は空白のままだった。


画面が消える。


今度こそ、室内は完全な暗闇に戻った。


机の上には、処理を終えた報告書だけが残されている。


一連の現地調査は、完了した。


公式記録の上では、そう結論づけられていた。


ただ一つ。


二十七年前に閉じられたはずの記録だけが、その結論を認めていなかった。





女性は、暗闇のなかで目を覚ました。


音がしたわけではなく、夢を見ていた記憶もない。


ただ、眠りの底から突然押し戻されたように、意識だけが浮かび上がっていた。


枕元へ手を伸ばすと、触れた端末の画面が点灯し、淡い光が室内を照らした。


《23:31》


指が止まった。


その時刻を見た瞬間、胸の奥で何かが震えた。


痛みではない。


恐怖とも違う。


長いあいだ沈黙していたものが、こちら側へ戻ろうとしている。


そんな感覚だった。


女性は身を起こした。


画面の数字は変わらない。


時刻の下にあるはずの秒数が消え、《23:31》だけが取り残されていた。


やがて、視界の端に白い光が差した。


室内には存在しない光だった。


記憶が重なる。


暗い通路。


足元に伸びる、境界のような細い線。


振り返った先に立つ、一人の青年。


顔は見えない。


声も、遠い。


自分を帰すことを選んだ。


その意味だけが、二十七年のあいだ消えなかった。


女性は息を止めた。


続きがあったはずだった。


なぜ自分だけが帰されたのか。


残った五人が、どこへ消えたのか。


あの青年が何を選び、そのあと何が起きたのか。


思い出そうとするたび、記憶は同じ場所で途切れた。


白い光。


伸ばされた手。


閉じていく境界。


そして、次に目を開けたときには、女性だけがこちら側へ戻っていた。


何度も調査を受け、同じ質問に、同じ答えを返した。


覚えていない。


分からない。


誰の声だったのかも、なぜその言葉を知っているのかも。


やがて質問はなくなり、記録は閉じられた。


経過観察も終了した。


それで終わったのだと、女性自身も思うようになっていた。


画面の数字が揺らぐ。


《23:31》


その下に、一瞬だけ別の文字が浮かんだ。


《観測再開》


女性が触れるより早く、表示は消えた。


部屋は静まり返っていた。


壁の時計から、秒針の音が消えている。


やがて、端末の時刻が《23:32》へ進んだ。


失われていた音が戻るように、壁の時計の秒針が動き始めた。


女性は画面を見つめたまま、動けなかった。


あの青年が何かを告げた、その感覚だけが残っている。


何を告げられたのかは思い出せない。


ただ、自分を帰すことを選んだ、その意味だけが残っていた。


かつては、それを別れの意思だと思っていた。


だが今夜、別の可能性が浮かんだ。


自分を帰したあとにも、何かが続く。


彼は、それを知っていたのではないか。


暗くなった画面に、女性の顔が映っている。


その背後。


誰もいないはずの室内に、白い線が一本だけ浮かんでいた。





女性が目を覚ましたのと、ほぼ同じころ。


時間異常調査局の保管区画で、一つの記録媒体が起動した。


八甲田山地下区域から回収されたものだった。


解析はすでに終了している。


内部に残されていた記録は複製され、媒体そのものは調査資料として封印されていた。


外部電源には接続されておらず、通信機能も確認されていない。


それでも、暗い保管棚のなかで、小さな表示部に光が灯っていた。


《23:31》


数字が消え、代わりに見覚えのない文字列が表示された。


《帰還対象を確認》


短い間を置いて、次の行が現れる。


《欠損を確認》


媒体の内部で、何かを照合するような音が続いた。


表示が一度乱れる。


《整合性――不成立》


その下に、複数の記号が高速で流れていく。


これまで確認されたいずれの記号体系とも一致せず、解析済みのデータにも存在しない配列だった。


やがて記号は消え、一つの文章へ置き換わった。


《観測を再開する》


保管区画の監視装置は反応せず、異常を知らせる警報も鳴らない。


記録媒体だけが、誰にも知られることなく処理を続けていた。


《帰還対象 確認》


《欠損領域 継続》


《選択結果 保持》


そこで表示が止まった。


長い空白のあと、最後の一行が浮かび上がる。


《代償対象を確認できません》


同じ処理が繰り返される。


《代償対象を確認できません》


《代償対象を確認できません》


媒体の奥で、低い音がした。


何かを探している。


本来そこに存在するはずのものを、見つけられずにいる。


やがて表示部から光が消え、保管区画は再び静寂に戻った。


ただし、記録媒体の内部では、新しい項目が追加されていた。


《処理状態 未完了》


そのころ。


女性は、室内に浮かんだ白い線を見つめていた。


細い光は、床から壁へ向かってゆっくりと伸びている。


二十七年前と同じだった。


忘れようとしても忘れられなかった、境界の光。


その向こうに、誰かが立っているような気がした。


女性は震える息を吐いた。


「……まだ、終わっていなかった」


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