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嘘の世界1

空いている椅子

作者: ハル

その町では、結婚は二人で行うものではなかった。

一人で行うものだった。


役所の奥に、結婚室という小さな部屋があり、そこに入ると椅子が二つ並んでいる。

だが、座るのは必ず一つだけだった。


もう一つの椅子は、誰も座らないまま、毎回きれいに拭かれていた。


結婚する人は、決められた時間にその部屋へ行く。

名前を書く。年齢を書く。


理由を書く欄はない。

書こうとすると、紙が破れるからだと、皆なんとなく知っていた。



職員は何も聞かない。

ただ、「相手はいますか」と一度だけ確認する。


「います」と答える人もいれば、「いません」と答える人もいる。


どちらでも手続きは進む。

違いは、判子の音だけだった。

「います」と答えた場合、少し重い音がする。



結婚すると、世界が変わる。

そう言われていたが、実際には何も変わらなかった。


朝は朝のまま来て、夜は夜のまま終わる。

仕事も同じで、家も同じだ。


ただ、結婚した人は、道を歩くとき、少しだけ体がずれるようになる。

自分の中心が、どこかに引っ張られている感じがするらしい。

その「どこか」は誰にも分からない。


相手がいる人でも、いない人でも、同じだった。



町には長く結婚している人が多かった。


結婚年数が増えるほど、その人は軽くなっていく。

風が強い日は、手すりを持たないと浮いてしまう人もいた。


逆に、結婚したばかりの人は重かった。足跡が深く残る。


彼は、何年も迷ってから結婚した。

相手はいなかった。


結婚室で、空いている椅子を見たとき、そこに誰かが座っていたような気がした。

顔は見えなかった。見ようとすると、首が動かなかった。



判子の音は軽かった。


帰り道、体の中心がずれた。

確かに、何かに引かれていた。

ただ、それが前なのか後ろなのか分からなかった。


数日後、彼は気づいた。

結婚すると、過去が少し遅れてやって来る。


昨日の後悔が、今日の朝に現れる。

十年前の失敗が、夕方に肩を叩く。

順番がずれているだけで、量は変わらない。


だから皆、結婚すると静かになる。驚く余裕がなくなる。



ある日、町の規則が理由もなく変わった。

結婚は二人で行うものだ、と掲示が出た。


誰も抗議しなかった。

だが翌日から、結婚室の椅子は一つになった。


もう一つは、どこへ行ったのか分からない。

最初からなかったと言う人もいた。

彼は、あの椅子に誰が座っていたのか、まだ分からないままだ。


最近、体のずれが弱くなってきた。

軽くも、重くもならない。


ただ、夜になると、使われなかった椅子を拭く音だけが、どこからか聞こえる。


それが自分の家の中なのか、外なのか、確かめる方法はなかった。


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