空いている椅子
その町では、結婚は二人で行うものではなかった。
一人で行うものだった。
役所の奥に、結婚室という小さな部屋があり、そこに入ると椅子が二つ並んでいる。
だが、座るのは必ず一つだけだった。
もう一つの椅子は、誰も座らないまま、毎回きれいに拭かれていた。
結婚する人は、決められた時間にその部屋へ行く。
名前を書く。年齢を書く。
理由を書く欄はない。
書こうとすると、紙が破れるからだと、皆なんとなく知っていた。
職員は何も聞かない。
ただ、「相手はいますか」と一度だけ確認する。
「います」と答える人もいれば、「いません」と答える人もいる。
どちらでも手続きは進む。
違いは、判子の音だけだった。
「います」と答えた場合、少し重い音がする。
結婚すると、世界が変わる。
そう言われていたが、実際には何も変わらなかった。
朝は朝のまま来て、夜は夜のまま終わる。
仕事も同じで、家も同じだ。
ただ、結婚した人は、道を歩くとき、少しだけ体がずれるようになる。
自分の中心が、どこかに引っ張られている感じがするらしい。
その「どこか」は誰にも分からない。
相手がいる人でも、いない人でも、同じだった。
町には長く結婚している人が多かった。
結婚年数が増えるほど、その人は軽くなっていく。
風が強い日は、手すりを持たないと浮いてしまう人もいた。
逆に、結婚したばかりの人は重かった。足跡が深く残る。
彼は、何年も迷ってから結婚した。
相手はいなかった。
結婚室で、空いている椅子を見たとき、そこに誰かが座っていたような気がした。
顔は見えなかった。見ようとすると、首が動かなかった。
判子の音は軽かった。
帰り道、体の中心がずれた。
確かに、何かに引かれていた。
ただ、それが前なのか後ろなのか分からなかった。
数日後、彼は気づいた。
結婚すると、過去が少し遅れてやって来る。
昨日の後悔が、今日の朝に現れる。
十年前の失敗が、夕方に肩を叩く。
順番がずれているだけで、量は変わらない。
だから皆、結婚すると静かになる。驚く余裕がなくなる。
ある日、町の規則が理由もなく変わった。
結婚は二人で行うものだ、と掲示が出た。
誰も抗議しなかった。
だが翌日から、結婚室の椅子は一つになった。
もう一つは、どこへ行ったのか分からない。
最初からなかったと言う人もいた。
彼は、あの椅子に誰が座っていたのか、まだ分からないままだ。
最近、体のずれが弱くなってきた。
軽くも、重くもならない。
ただ、夜になると、使われなかった椅子を拭く音だけが、どこからか聞こえる。
それが自分の家の中なのか、外なのか、確かめる方法はなかった。




