37 約束のバルコニー
「約束の通り、ここからは俺との時間だ」
公爵の温かな掌が、冷え切った私の手を包み込む。
「ずっと気を張っていただろう。今は俺に任せろ」
そのまま、アンティーク調の白いテーブルのそばへと導かれる。
「エトワールの発表まで、少し休もう」
テーブルには軽食が並んでいた。
本日、大聖堂の一角にオープンした『おかしのオルゴール』支店の品々だ。
大司教の要望もあり、子どもが食べやすいものを多めに揃えている。
私たちは向かい合い、香り高い紅茶とパンに手を伸ばした。
サクッと軽い食感と、中には芳醇なスパイスが広がるカレーパン。
もっちりした生地に包まれた、まろやかな甘みの餡が詰まったアンパン。
一口ごとに、忘れていた空腹が目を覚ましていく。
今日のはじめての食事に、張り詰めていた心までほどけていくようだ。
「旦那様、ありがとうございます」
「この礼は一度でいい。明日もその先も、俺がもらうが」
「お礼の先約ですか? でも私、忘れてしまうかもしれませんけど」
「なら、俺が毎日思い出させる」
「あ、はい。ありがとうございます」
思わず二度目の礼を口にしてしまったけれど、公爵は咎めることもなく微笑んだ。
私は視線を落とし、手元の紅茶の揺らぎを見つめた。
(今、どんな顔をすればいいのかしら……)
食後に喉を潤し、手すりに手をかける。
上階のバルコニーは舞台も客席も一望できる特等席だ。
舞台袖の列からエトワールがひょっこり顔をのぞかせる。
こちらに気づくと、「やりましゅ!」と口パクで元気よく伝えてきた。
私と公爵は、同時に手を振った。
「旦那様、エトとすっかり仲良しですね」
「アルージュのおかげだ」
幕が上がり、子どもたちのダンスが始まった。
小さな体が音楽に合わせ、跳ねたり回ったり、全身で一生懸命にポーズを取っている。
(エト……! あんなに練習してたものね……うう、もう泣きそう)
エトワールは動作に迷って固まった子に気づくと、そっと合図を送っている。
さりげない優しさに、胸の奥がじんわりと温かくなる。
そして最後の決めポーズ。
満面の笑みを浮かべたエトワールが、私たちに向かって両手をぶんぶん振った。
(もう、うちの子が世界一かわいいっ!!)
拍手に夢中になって身を乗り出し、足元がふらつく。
公爵の腕が自然と私の腰を支えた。
「すみません。夢中になりすぎました」
「構わない。お前は自由にすればいい。俺がこうして離さないから……これからも」
向けられた穏やかな微笑みに、私は思わず目を逸らした。
(最近……どう返せばいいか、わからないわ)
「お前は本当にエトワールをかわいがっているな」
「……もしかして、『血が繋がっていないのに』って思ってます?」
「いや。血の繋がりに関係なく、アルージュは人を愛せる」
迷いのない声だった。
「お前は愛する父を失った悲しみから、ひたむきに魔術を学んだ。もう誰にも同じ思いをしてほしくないと」
(どうして、知っているの……?)
誰にも言ったことはない。
口にすれば、涙が止まらなくなるから。
ただ、一度だけ。
もう父のいない夜。
死にかけの獣を手当しながら、ぽつりぽつりと、耐えきれずに呟いた。
あのときじっと耳を傾けてくれたのは、黒い毛並みの、月色の瞳をした……
(まさかあの獣。魔力暴走で犬化した――)
公爵を見上げたそのとき、彼が私の手を取った。
「アルージュ、俺の魔力を吸ってみろ」
「……え?」
「お前から魔力を感じる」
あまりにも突然の言葉に、瞬きをする。
「そんなはずは。私は悪喰になってから、魔力を蓄えられない体質に……」
半信半疑のまま、そっと吸ってみる。
すると、自分の内側に、温かな流れが満ちていくのを感じた。
「本当に……魔力が貯められてる?」
「何かの要因で、体質が変化したのだろう」
「そんなことが……」
まだ確信は持てないけれど、調べる方法ならある。
「私の魔力を魔充具に移せれば、はっきりします。予備の魔充具で試してみます。備品倉は奉仕女棟を通ればすぐ……さすがに旦那様を女装させるわけにいきませんから、ここで待っていてください」
「備品倉は、危険かもしれない」
「そのときは、旦那様が助けに来てくださいますよね?」
「ああ。当然だ」
相変わらずの過保護ぶりだ。
けれど最近は私も慣れてきたのか、胸の奥がくすぐったくなる。
「確認したら、すぐ戻りますね」
私は静かな回廊を抜ける。
関係者以外立入禁止の札がかかった扉を開け、備品倉へ入った。
(やっぱり、魔力を貯められるわ)
悪喰になってから、吸っても空になるだけだったのに。
(さっき食べたパンが原因とか? それとも旦那様の過保護補正とか?)
首を傾げながら、棚に予備の魔充具を戻した、そのとき。
視界の端で、人影が動いた。




