2 ここにサインを
寝室の扉が乱暴に開き、紫髪を束ねた男が飛び込んできた。
「アルージュ、あの手紙は何だ!」
ラウルドは令嬢たちに『美形の聖騎士』ともてはやされる顔を怒りで歪め、私に詰め寄る。
かつてはそばにいてほしいと願ったはずが、今は近づかれるのも不快だ。
「思ったより遅かったわね。自分の家だったのに、迷っていたの?」
「偉そうな口を聞くな、悪喰が! 俺はあの子を孤児院から連れてこいと命じただけだ! 余計なことをしやがって!」
彼の震える手には、私が送りつけた売買証明書が握りしめられている。
「なぜ俺の財産をすべて売り払った!」
「すべて?」
思わず笑いが込み上げた。
「それなら、あなたの財産はすべて私のものだったのでしょうね」
「なんだと……!」
「さぁ、離縁申請書にサインしてください」
寝室にあるたったひとつの家財。
テーブルの上に置かれた書類を指さすと、ラウルドの顔がひきつった。
「ふざけるな! 嫁の貰い手のないお前を、俺が世話してやっていたんだぞ!」
「世話? 街から離れた邸に閉じ込めて放置していただけでしょう。ましてや、勝手に財産を使い込んだり、聖女の極秘出産まで手伝わせるなんて」
「黙れ! 俺の名誉が――教会の信頼が失われたらどうする!」
「そんなに嫌なら、もう終わりにしましょう」
静かに告げると、ラウルドは目を逸らした。
結局、彼が守りたいのは己の立場だけ。
私の人生を割引商品みたいに扱われるのは、もうごめんだ。
「……別れるつもりなどない。お前も俺のことを愛しているだろう!」
散々ないがしろにしておいて、まだそんな勘違いができるとは。
ため息をつきたくなるほど、都合のいい男。
もっとも、ラウルドが離婚に抵抗するのは想定内。
彼が惜しいのは財産だけではない。
ラウルドは聖騎士という名誉にしがみつき、数々の不正を隠している。
「そういえば、これは売り忘れていました」
私はテーブルに手を伸ばし、透明なバラをかたどったペンダントをつまみ上げた。
ラウルドの瞳が揺れる。
この品は結婚の誓いとして夫が妻に贈る定番の贈り物――クリスタルローズ。
陣痛を和らげる作用があり、出産時に身につければ、その人の魔力を宿して光るようになる。
「マルゴー様はこのペンダントを、喜んで買い取ってくださるでしょうね。彼女は大司教派ですから。不審な点があれば、すぐに大司教の耳に入ります。もし、あなたの名が刻まれたクリスタルローズを、純潔であるはずの聖女が身につけて光ったら……」
「やめろ!」
ラウルドは机を叩き、口を開いては閉じた。
「俺は……俺は騎士として……」
言い訳を紡ごうとしても、続く言葉は出てこない。
「では、ここにサインを」
「……考え直せ」
「あら、そろそろマルゴー様が来る時間ね。こんなところを見られたら、洗いざらい事情を話すことになるわ」
「アルージュ……」
すがるような視線を向けられても、心は動かない。
これで七年分の愛と涙に、ようやく終止符を打てる。
「もう話はありません」
ラウルドが震える手で署名するのを、静かに見届けた。
彼はペンダントを取り戻せば、不正を誤魔化せると信じているのだろう。
証拠がそれだけだと、なぜ思い込んでいるのかしら。
すでに売り払った不動産や宝飾品は、マルゴー商会で査定中なのに。




