21 スパイ犬
(エトは目を覚まして私の姿が見えなかったから、探しに隣の部屋に来たんだわ)
「……いぬしゃん?」
寝ぼけたエトワールの視線の先には、黒犬の姿になった公爵がお座りしていた。
「あっ、あのいぬしゃん!!」
エトワールはぱたぱたと駆け寄ると、そのまま黒犬に飛びつき、ぎゅっと抱きしめた。
(「あの犬さん」ってことは……今日エトワールが話していた『窓から見た犬』って、公爵のことだったのね)
「……」
抱きつかれた犬公爵は、石像みたいに固まって動かない。
どうすればいいのか、わからないのだろう。
(この人、危険物処理と執務ばかりだし。子どもの相手は完全に初心者なんだわ)
「おとぅしゃま……」
その一言に、黒い耳がぴくっと動いた。
私も息を呑む。
部屋がしんと静まり返った。
(エトが初めて、『お父様』って呼んだ……)
それはエトワールが公爵を父として受け入れた証のようで、胸がじんわり温かくなる。
(公爵、嬉しくて涙ぐんでたりして)
ちらりと様子をうかがうと、その姿は黒犬だった。
(そうだった、今の公爵はどう見ても犬! まさかエト、この黒犬が公爵だって気付いて……!?)
「いぬしゃん……おとぅしゃま、たべちゃった」
エトワールはじっと、床に散らばった公爵の服を見ている。
「しろいいぬしゃん、おかぁしゃま、ぱくって。このいぬしゃんも……」
(あ、そういえば。エトは前に「私が大きな犬に食べられた夢」を見て、泣いていたんだった)
「エト、この犬はお父様を食べたりしないわ。強くて、優しくて、かわいい子なの。お父様は今……そう、秘密のお仕事をしてるの。だから、この犬さんが知らせに来てくれたのよ」
「……いぬしゃん、スパイ?」
つぶらな瞳がキラッと光り、公爵に注がれる。
「わ、わふ」
その鳴き声は、公爵の美声そのままだった。
しかも、演技が下手すぎる。
私は犬が公爵だと疑われないように、慌てて話を合わせた。
「そ、そうよ。スパイ犬なの!」
エトの顔がぱっと輝いた。
最近は、私の描いたスパイものに夢中なのだ。
「だからこの犬さんのことは、私たちだけの秘密にしましょう」
「あいっ。エトもないしょして、へいわまもるおてつだい! いぬしゃん、えらいの、なでなでっ」
小さい手が黒犬の頭を撫で、また首元に抱きつく。
犬公爵はフリーズしたままだ。
「おかぁしゃまも、こうちてなでなでっ、ぎゅって!」
「え、わ、私も?」
「……おかぁしゃま、いぬしゃん、こわいの?」
「そ、そんなことないわ」
私は戸惑いつつも黒犬の肩へ手を回し、艶やかな毛並みをそっとすいた。
ふわっとして温かい。
(このほっとする感触、どこかで触れたことがあるような……)
くうくうと寝息が聞こえる。
エトワールは安心したのか、黒犬に腕を回したまま眠ってしまっていた。
私は犬姿の公爵にエトワールを背負ってもらい、寝室へ運んだ。
安らかな寝息を確かめる。
私と公爵は顔を見合わせ、同時にふうっと息をつく。
「俺のところに来たのは、用があったのではないか?」
(そうだった。公爵にラボラとのことを報告しに来たんだった)
「はい。今日は新しい菓子店に導入する魔道具開発の交渉で、魔道具師にお会いしてきました」
私はラボラに依頼した魔道具、ハンドミキサーの試作と契約について説明した。
「菓子店の経営はコスト面で採算が合わず、ベテランの経営者でも断ったが……アルージュに任せたのは正解だった。それに……今日は助かった。もう休め」
「はい。旦那様も無理をせずお休みください。あと、エトと私以外の前で犬になったら、喋らないほうがいいと思います」
(犬の鳴き声が下手すぎるから)
「それに、エトは秘密を守れる子ですから安心してください。あなたの姿のこと、私も誰にも言いません」
「……別に、心配などしていない」
背を向けて言う公爵の尻尾がブンッと揺れた。
(犬姿だと、完全にツンデレだわ)
◇
それからの数日、公爵が犬化することはなかった。
エトワールは以前のように公爵を警戒することはなくなった。
目が合うたびに「へいわまもる、おてつだい……」と呟いている。
黒犬姿を見られたときは、ヒヤッとしたけれど。
あの夜を境に、父と子の距離は確かに変わった気がする。
◇
そして五日後。
私はラボラの工房に足を運んだ。
ラボラは大切そうに縦長の箱を抱えて現れると、テーブルの上にそっと置いた。
「こちらが『ハンドミキサー』の試作品です」
「もう出来たのね。早くて驚いたわ」
「私も驚きました。気づいたら五日経っていたので」
「それ、ずっと徹夜続きってこと……!?」
「アルージュ様にご連絡を差し上げた直後に気を失い、そのまま安眠しました。ご安心を」
安心していいのかは微妙だけど。
ラボラは相変わらず無表情のまま、でもどことなくウキウキした雰囲気で箱を開け、丁寧に試作品を取り出した。
手にした瞬間、胸が熱くなる。
「そう、これよ!」
見た目は理想のハンドミキサー。
羽根の形も付け替え可能で、速度は五段階で調整できる。
(あとは使い心地ね)
スイッチを押すと、ウィーンと軽やかな音が響く。
ボウルの中のクリームがあっという間に泡立ち、角の立ったホイップができあがった。
「すごく使いやすいわ!」
「さらにオーブンと冷蔵庫、たこ焼き器も順に試作中です」
(開発スピード、異次元すぎない!?)
彼女なら、エトワールが召喚した調理家電を再現してくれるはずだ。
(この世界でも、ついに懐かしの味が気軽に楽しめるようになるわ!)
「ラボラ様、ありがとうございます。これで従業員たちも無理せず働けます。でも、ラボラ様の方が過労になるような開発は依頼できません。あなたの情熱を守るためにも、休んでくださいね」
「……っ、アルージュ様の語彙選択は効率と温情の最適解! 尊敬の臨界点を超えています! その言葉を胸に毎晩寝ます!!」
(たぶん、「毎日寝る」って約束してくれたのよね?)
ラボラは感激したように胸の前で両手を握り、一枚の紙を差し出した。
「お待たせいたしました。こちらが予算です」
笑顔で差し出された紙を受け取り、私は固まった。
手にした紙がぷるぷる震える。
「……一台、金貨五枚?」
前世換算で、五百万円。
こんな高価な魔道具を大量導入したら、ローン必須の高級菓子になる。
(私が目指しているのはコスパ最強の絶品スイーツなのよ!)
「これだと製造費が高くなりすぎて、商品の値段を上げるしかなくなるわ。どうにかして、ワンコインくらいで気軽に買えるようにしたいの」
「ワンコインとは、金貨一枚のことですか?」
(それ、百万円……)
異世界はスイーツだけじゃなく、魔道具も高い。
「価格を下げることはできないの?」
「奥の手ですが……九十九パーセント、下げる方法があります」
「それよ、それ!」
「こちらがその方法です」




