20 満月
◇
満月のきれいな夜更け。
男爵別荘の客間で、私はエトワールを寝かしつける。
(そうだ。ラボラに依頼した「ハンドミキサー開発」の報告を公爵にしておこう)
彼は公爵領につくる新スイーツ店の進捗が気になっているはずだ。
そう思い、続き部屋の扉を静かにノックする。
私たちの結婚が利害一致だとは、誰も知らない。
寝室を別にしたのも、表向きは「彼のマナの実の駆除任務で、睡眠時間が合わない」ということにした。
(……返事がないわね。さっき入室する音はしたのに)
「旦那様、いますか? お話があるんですけど」
「……入れ」
(あれ? 声、かすれてる?)
扉を開けると、部屋はしんと静まり返っていた。
窓の外の満月が、冷たく室内を照らしている。
公爵は寝台の脇で、壁にもたれるように座り込んでいた。
襟元は乱れ、額にはうっすら汗が滲んでいる。
寝台まで行けないくらい、具合が悪いのだろうか。
「すぐ侍医を呼び――」
「いい。満月とマナの実の駆除が重なり、魔力が荒れているだけだ。すぐ収まる」
そう言いながらも視線をそらす。
息をするのも苦しそうで、呼吸のたびに肩が上下している。
普段は冷静な彼が、見たこともないくらい辛そうだ。
(いつもこんな任務をこなしているなんて……って。待って)
「旦那様、確か子どもの頃からマナの実の駆除を命じられていたんですよね?」
「大したことはない。前公爵の子に登録されてからは日常だ」
(日常? この状態が……?)
「この症状は父……先帝が亡くなるまで、“マナの聖水”で魔力暴走の耐性をつけさせられたためだ」
(マナの聖水? って、今は禁止されてる危険なやつよね!?)
それはかつて、『魔力を増やす奇跡の秘薬』として、もてはやされたもの。
でも魔力暴走を引き起こす被害者が続出した。
禁制品を与えられ、帝国が誇る最強の魔術師が生まれたなんて。
公爵は誰にも言えず、頼ることもできなかったはずだ。
(絶対おかしいでしょ! 何そのブラック育成……!!)
言葉を失っていると、公爵はいつもと変わらず、私を安心させるように笑った。
「そんな顔をするな。俺は慣れてしまった。あの食事に比べれば、大抵のことは耐えられる」
私の考案したメニューを彼がおいしそうに食べる様子を思い出し、胸が締め付けられる。
(だからこの人は、子どもたちの食にあんなにこだわるんだ。食べることを喜びにしてほしくて)
「……っ」
苦しげな呻きに、私は慌ててかがみ込んだ。
至近距離の美貌が歪んでいる。
(苦しそう……魔力が暴れているのに、周囲に被害を出さないように抑えているから)
「魔力、吸っていいですか?」
「……俺の魔力は汚れている」
「私は悪喰です。魔力を吸っても分解するので、苦しくなりません」
「だが、お前が近くにいると……今の俺は、っ」
彼の上体がよろめき、私の肩に触れる。
浅い呼気が首筋をかすめ、頬は赤く身体も熱い。
(うっ……見た目が麗しすぎて、こんなに近いと目の保養どころか耐え難いんだけど)
とはいえ、逃げている場合ではない。
「触れても、いいですか?」
彼は小さく頷く。
確認を取ってから、指先で彼の手の甲にそっと触れた瞬間――ぴりっと熱が走った。
荒れ狂う魔力が私へと濁流のように流れ込み、公爵が呻く。
「……っ、く」
(こんなもの、抱えたまま耐えてたの? 顔色も悪くなるわ)
私は必死に、凶暴な魔力を悪喰の力で吸い込んでいく。
一瞬、その重圧に意識が遠のきかける。
そのとき、一番助けたかった人の笑顔が心に浮かんだ。
(お父様……!)
暴力的な魔力が徐々になだめられていく。
私はしばらく、ただ息をするだけで精一杯だった。
私の身体にもたれかかる公爵は、微動だにしない。
「旦那様、どうですか? たぶん、これで楽に……」
ふと、私たちを照らす月明かりが青白く瞬いた。
耳鳴りがして、身体の芯がぎゅっと縮まる。
(なに、この感覚?)
肩に感じる重みが変わる。
闇の中で、公爵の輪郭がぐにゃりと揺らぐ。
息苦しいほどの威圧感に、声がかすれる。
「だっ、旦那様――」
「見るな!」
低く響いた声と同時に、空気が軋んだ。
公爵の姿は溶けるように黒い影となり、次第に膨張していく。
(そ、そんな……)
私の腕の中にいたのは、漆黒の獣だった。
艶やかな毛並みに、ぴんと立った耳。
月を閉じ込めたような金色の瞳。
そのぐったりと傾いた体がずるずると滑り落ち、私は慌てて抱きとめた。
「旦那様、どうして……」
――どうして、こんなにかわいい犬に!?
(まさか、私が魔力を吸ったせいで悪化した?)
「まだ具合が悪いんですか!?」
「違う。この姿はマナの聖水の副作用だ。体調は、お前のおかげで落ち着いている」
(犬だけど……しゃべった)
「ただ、理性より先に……アルージュの香りに包まれると、抑えが利かなかった」
犬の耳がしょんと垂れる。
その仕草が、妙に人間っぽい。
(っていうか、香りに包まれると抑えが利かない、って……私、そんなに匂うの!?)
そうではないと信じたい。
けれど今は、そこを確認をしている場合じゃない。
「もう隠さないで。苦しいときは言ってください。私は魔力を吸えますから」
そう告げると、金の瞳が一瞬だけ揺れた。
「……俺が、怖くないのか?」
「はい」
それどころかもふもふしてるし、抱き枕にしたら最高だと思う。
「だが……これは、かつて帝国を襲った凶獣の姿だ」
(え、そんな危険枠なの? どう見ても癒し系なんだけど)
それに、目の前の犬……じゃなくて公爵からは、帝国を襲う気配なんて感じない。
「私、旦那様は怖くありません。あなたは苦しかった子ども時代の食事を、今は子どもたちの幸せな食事に変えようとしている。とても優しい方ですから」
そっと撫でると、彼は怯むように表情を揺らし、視線をそらす。
床についた尻尾がブン、と小さく揺れた。
(……照れてる?)
犬の姿になったせいか、感情が仕草に出てしまっている。
それで気持ちを知られるのは不便だろうし、犬の姿はずっと隠してきたのだろう。
「大丈夫です。人に知られるのが心配なら、この姿は私たちの秘密にしましょう」
――かちゃり。
ドアノブが回る音がして、驚いて振り向く。
「どこ、おかぁしゃま……?」
扉の向こうから、エトワールが目をこすりながら、こちらを見つめていた。




