1 良い商談
◇
コンビニで買った20%増量のスイーツを食べ損ねたまま転生した――ありふれたアラサー喪女だった前世を思い出してから三日後。
私は馬車に揺られていた。
車体には、帝国で最も勢いのある新興商会の紋章。乗り心地も申し分ない。
「マルゴー様、突然の申し出にすぐに応じてくださって、ありがとうございます」
「お礼を言うのは私の方よ。とても良い商談だったわ」
隣に座る女性が上品に微笑む。
彼女はマルゴー商会の会頭で、父の学院時代の友人だという。
「でも驚いたわ。クレマンに娘がいたなんて」
「養女なんです。父は聖騎士を辞めたあと、孤児だった私を引き取ってくれました」
「そうだったの……でも、やっぱり似ているわね。可憐なお嬢様かと思ったら、お供もつけずに商会に現れて、不動産や宝飾の売却査定をずらりと依頼する大胆さなんて、そっくり。でも、本当に全部手放すの?」
「ええ。あれは父が残してくれた遺産を、夫が勝手に購入したものですから」
「……酷い話ね」
思わず苦笑する。
この『スミレに誓う禁断の愛』の展開も酷いものだった。
そもそも、タイトルからして地雷臭しかしない。
『純粋な田舎娘ステラが聖女となり、イケメンの魔術師と崩れる大聖堂から逃げて結ばれる』
一見、ありがちなラブストーリー。
だけど、ヒロインの行動には違和感しかなかった。
聖女ステラは教会の規律を破って街に出て恋に溺れ、逢瀬を重ねた。
大聖女の啓示で不貞の罪が露見しかけると、罰を恐れて脱走。
(……ツッコミどころ満載なんですけど)
それにステラの護衛である聖騎士、ラウルド。
彼は地位を失うのを恐れ、ステラの逢瀬を手助けしていた。
結果、ステラは身ごもる。
ラウルドは自分の不正を隠すために極秘出産まで計画し、妻に手伝わせた。
ステラが死んだらお前のせいだ――そう脅すように命じられ、何も知らないアルージュは必死だった。
その後、子の存在が教会に露見しかけると、ラウルドは「ステラの隠し子を匿え」とアルージュに命じた。
すべては彼自身の保身のため。
(ほんと、良いのは見た目だけで、中身がイマイチなやつだ。ま、あんな男は半額シールが貼ってあってもお断りだけど)
おや? 庶民の倹約根性まで蘇ってきた。
堅実な養父が遺してくれた財産を取り戻せば、当面は十分やっていけるだろう。
「邸を売ったあと、アルージュはどうするの?」
「ちょうど友人から連絡があったので、お世話になる予定です」
「良かった。あなたを思ってくれる人なのね。でも、私にも遠慮せず頼っていいのよ?」
「では、夫の購入した品に不審な点があったら――容赦なく調べてください」
マルゴー様は声を上げて笑った。
「あなたって、本当に面白いわね。でも……『悪喰』って本当なの? 隣にいても何も感じないわ」
私はつばの広い帽子を被り、赤髪を隠していた。
学院時代に学んだ通り、そうする方が都合がいい。
でも、彼女は恐れる素ぶりもない。
「悪喰が『人の魂ごと魔力を奪う』というのは誤解です。魔力を減らすことはできますけどね、こんな風に」
マルゴー様の肩に指先で触れる。淀んだ魔力をわずかに吸うと、彼女は目を瞬かせた。
「えっ……」
「肩こり、楽になりましたか?」
「……アルージュ、あなたすごいわ! なにをしても治らなかったのに、この一瞬で良くなったわ!」
「よかったです。それに、普段は悪喰を抑える訓練をしています」
「それを肝心の夫が理解せず、人前に出るなと邸に閉じ込めるなんて……どうしようもないわね」
私は静かに笑みを浮かべ、窓の外に目をやった。
こうして邸も、宝飾も、報われない愛も――私は夫に搾取されていたもの、すべてを手放した。
◇
三日後。
売却した以前の自邸の窓から見下ろすと、荷馬車が次々と出ていく。
帰らぬ夫を待ち続けた場所から家財が運び出されるたび、胸が軽くなるようだった。
ほぼ空になった寝室の外――廊下から騒々しい足音が近づいてくる。




