10 新生活
◇ ◇ ◇
私が公爵夫人となったので、隣国で暮らす話はなくなった。
ルシールも王太子も名残惜しんでいたけれど、笑顔で私の結婚を祝福してくれた。
彼らに見送られ、迎賓城を後にする。
馬車の窓から景色を眺めながら、エトワールと一緒に雲を動物に見立てたり、しりとりをしたり。
そんな穏やかな時間を過ごしているうちに、公爵家の邸へとたどり着いた。
瀟洒な邸のエントランス前には、使用人たちがずらりと整列している。
これほど多くの人に出迎えられるのは初めてで、思わず息をのんでしまった。
エトワールはというと、いつも通りにこにこと笑っている。
「彼女は妻のアルージュ。公爵家の女主人として、邸の差配も俺の許可なく行って構わない」
公爵が淡々と紹介の言葉を述べると、使用人たちの間にざわめきが広がった。
無理もない。
彼らは皆、「悪喰が魂ごと魔力を奪う」という伝承を信じて育ってきたのだ。
「そして息子として迎えるエトワール。俺と並ぶ魔術の異才を持ち、後継者に指名している。もちろん、アルージュの悪喰が危険だという噂は誤解だ。恐れる必要はない」
公爵がはっきりそう言ってくれたものの、使用人たちの表情はまだ硬いままだった。
「アルージュ、心配なことはあるか? 何でも言え。お前の望みなら叶える」
「いいえ。特にありません」
「なにかあれば俺に言え。誰かがお前に無礼を働けば、俺が責任を取る。処分もする」
使用人たちを震え上がらせ、公爵は執務室へと去っていった。
(監視とはいえ、私に気をつかってくれているのはわかるんだけど。魔術師のせいか、方向性が攻撃詠唱なのよね)
しかし、彼の采配で公爵領は豊かに保たれ、帝国の治安も守られている。
冷徹に見えるけど、有能で誠実な人でもあるのだ。
私は深呼吸をして、使用人たちに向き直る。
(怖がられてるけど、会ったときの第一印象は大事よね)
できるだけ柔らかく、にっこりと笑みを浮かべた。
「旦那様からご紹介にあずかりました、アルージュ・ロブロフォンです。どうぞ気兼ねなく声をかけてくださいね」
使用人たちはぎこちなく礼を返す。
中には冷や汗を浮かべる人までいる。
(別に取って食べたりしないのに……あ、そうだった)
「ところで、食べた味を再現できるという料理長はいらっしゃる?」
「ひっ……!」
奥から悲鳴が上がった。
おずおずと現れた料理長は、脂汗をにじませている。
(あらら、白目になりかけてる)
私は気づかないふりをして、手にしていたプラスチックのボトルを差し出した。
「これを使って、料理をお願いしたいのだけど」
「ち、血っ!?」
「神官を呼べ!」
「待って!」
慌てて両手を上げて制止する。
私は悪喰だけど、お祓いされる吸血鬼じゃない。
「これは血ではありません。ケチャップといって、熟したトマトを煮詰めて甘酸っぱく仕上げた調味料なんです」
「け、ケチャップ……?」
「ええ。エトが召喚してくれたの」
説明するより、作って食べてもらった方が早そうだ。
「早速ですが、厨房に案内してもらえますか?」
「こ、公爵夫人が、厨房に……!?」
驚きの声が広がる。
貴族の妻が厨房に立つなんて、普通はありえないことだ。
(そうだとしても、常識より食欲が勝ったのよ!)
私はしゃがんで、エトワールの目線に合わせる。
「エト、ちょっと待っててね。これから美味しいものを作ってくるから」
「とんかちゅ?」
「ふふっ、違うけど……楽しみにしてて」
「あいっ。エトね、わくわくって、おえかきしゅる!」
侍女にエトワールをお願いし、私は料理人たちとともに厨房へと向かった。
◇
調理用の服に着替え、手順を説明しながら実演する。
最初はおびえていた料理人たちも、バターで炒めた玉ねぎの香ばしい匂いが広がるころには、目を輝かせていた。
「できたわ」
「奥様、これは……!?」
「オムライスよ!」
小皿に分けて試食してもらう。
料理人たちは恐る恐る口に運んで……次の瞬間、カッと目を見開いた。
「う、うまっ!」
「卵がふわっふわ!」
「こんな料理、初めてです!」
試食の皿は、あっという間に空になる。
「ただ、ケチャップはこの一本だけなの。再現できるかしら?」
「お任せください!」
(よしよし。プロの腕にかかれば、もっと美味しくなるはず……!)
私はボトルに記された原材料を伝え、料理人たちと意見を交わした。
そのとき、背中に視線を感じて振り返った。
「……旦那様?」
入口には、涼やかな美貌の公爵が立っていた。
長身の彼が佇んでいるだけで、厨房の空気がぴんと張り詰める。
料理人たちは慌てて立ち上がろうとしたが、公爵は「そのままでいい」と低く告げる。
邸の厨房に公爵が直々にやってくるなんて、何かあったのだろうか。
「アルージュ、また何か作ったな?」
……香りに誘われて来たのだろうか。
「俺も食べていいか?」
「ええ、もちろん。あ、でも、もう全部……」
言い終えるより早く、彼は私の手からスプーンを取り、最後のひと口をためらいもなく口に運んだ。
所作は驚くほど優雅だけど、厨房にいた全員が息をのむ。
「……美味いな」
彼が私を見つめて、ふと微笑んだ。
その様子に料理人たちは顔を見合わせ、目を白黒させている。
私は彼が手にしている物に気づき、視線を落とす。




