プロローグ 悪妻に転生してた
五年待ったその夜、夫は初めて寝室の扉を開けた。
でも、愛のためではなかった。
「これから君に、ステラ様の隠し子を匿ってもらう」
心が凍ったかのように、しばらく息も瞬きも忘れた。
婚約して二年、結婚して五年。
ようやく触れ合えると期待した直後、彼の口から出たのは他の女性の名前だった。
「君にも“母親の役”くらいはできるだろう」
侮蔑交じりの声に、震える指先をぎゅっと握り締める。
いつか母親になれたらと、ずっと願っていた。
私に触れない彼を信じて、待ち続けて――二十四歳になった。
命じられたのは、母親の役……
「その子は、君の育った孤児院にいる。すぐ引き取りに行け」
「でも、邸から出るなと――」
「今回だけは許可する。いいか、聖女の隠し子を必ず連れ出して隠せ」
「……聖女の、隠し子?」
「っ、余計な詮索はするな!」
怒鳴る夫の髪が揺れた。
その紫髪……かつて私が取り上げた、ステラ様の赤子と同じ色。
思い出した途端、胸の奥に沈んでいた違和感が浮かび上がった。
「ラウルド様、教えてください。聖女の子の父親は……あなたなのですか?」
「黙れ。いいか、俺に必要なのは聖女。醜い悪妻が俺の名誉を汚すな」
乱暴に扉が閉まる。
……夫の心に、私の居場所はない。
そんなこと、七年前から知っていたのに。
気づけば私は、彷徨うように廊下に出ていた。
カツ、カツと靴音が虚ろに響く。
赤髪の女性がこちらへ歩いてくる――その瞬間、何かが弾けた。
「キャアァァッ!!」
額を鏡にぶつけ、床に崩れ落ちる。
心も身体もズキズキ痛み、涙が勝手に溢れる。
それでも、笑ってしまった。
「平気よ……これくらい、コンビニ帰りにトラックにぶつかったのと比べれば……え?」
コンビニ? トラック?
「何それ……っ!?」
知らないはずの人生が奔流のように流れ込んでくる。
それは私がこの世界に生まれる前の記憶。
鏡の中、赤髪の女性の凛とした青い瞳がこちらを見返していた。
その瞳に、もう迷いはない。
前世の記憶が蘇った瞬間。
七年間に及ぶ夫への愛は、音もなく消えたのだから。
◇ ◇ ◇
アルージュ・ロンブル。
ロフェシオン帝国の絶世の美女。
聖騎士の夫に疎まれ、彼の護衛する聖女ステラに嫉妬し自滅するだけの、いわばちょい役。
なに……この知識。
でも、しっかり覚えてる。ウェブ小説で読んだ。
「私、『スミレに誓う禁断の愛』の悪妻アルージュに転生してる……?」
確かヒロイン視点では、アルージュが嫉妬に狂って、聖女の隠し子を誘拐したと書かれていた。
けれど実際は違う。
夫のラウルドに「引き取って隠せ」と命じられていたのだ。
出会ったころのラウルドは、とても優しかったのに。
彼はロンブル侯爵家の次男で、魔術学院では珍しく聖騎士を志していた。
当時のアルージュは、美しい水色の髪を持ち、令息たちの憧れの的だった。
学院の庭で、アルージュが踏み潰された花を植え替えていたとき。
泥だらけの姿を見たラウルドは「君は心も綺麗だな」と微笑み、一緒に手伝ってくれた。
冷たい風の中でも彼の声は温かくて、それが嬉しかった。
ふたりは順調に愛を育み、やがて婚約の話が進んだ。
しかし、アルージュが侯爵家に招かれた日、異変が起こる。
談話室に集まったラウルドの家族が、真っ青な顔で倒れていたのだ。
絶縁していた長男が突然現れ、家族に未知の魔術をかけて去ったという。
魔術学院首席のアルージュですら知らない秘術。
わかるのは、魔術に蝕まれた彼らの命が危ないことだった。
養父のときのように、大切な人を失いたくない。
アルージュは『悪喰術』で、彼らを蝕む魔力を奪い取った。
それは帝国で最も忌み嫌われる魔術。
次に鏡を見たとき、美しい水色の髪は血のような赤に染まっていた。
あっという間に、称賛が嘲笑に変わった。
視線は冷たく噂は残酷だった。
でも、どうでもよかった。
命を救えたのだから。
ロンブル侯爵家の人々は命を救ったアルージュを信頼し、婚約を祝福した。
でも、愛した人だけは……
「挙式? 赤髪の花嫁なんて、誰も見たくないだろう」
「ルシールの結婚式の招待状は欠席で出した」
「その醜い姿で人前に出るな。俺が恥をかく」
赤髪を見るたび、彼は眉をひそめた。
結婚後は外出、手紙、社交も禁止される。
初夜どころか、触れられたことさえなかった。
涙を拭う。
鏡に映るアルージュは微笑んだ。
小説では、彼女は夫を想い続けたまま嫉妬に狂い、悲劇の人生を終える。
でも、もう筋書きどおりにはならない。
ここからは、私がこの物語をもう一度始める。
朝焼けの光を仰ぎ、邸の門を踏み出す。
――さて。
新章の幕開けとして、五年間の精算をしましょうか。




