No.19「盲目的な精神(2)」
セイコが目を覚ますと、そこは薄暗いサーカスのテントの中、そのバックヤード部分にあたる場所であった。
「・・・ちっ。」
彼女は無言でありながらも、冷静に現在の状況を確認して、その表情を歪ませながら舌打ちをした。
なぜなら彼女は冷たい檻の中だったのだ。その手足を縛られて、どこにも逃げ出せぬように。彼女は気絶している間に拘束されていた。それは顔も知らない何者かの手によって。
「───ふっ。」
しかし彼女は自身の失態を悔やみながらも、ただ自虐気味に失笑した。だって犯人は1人だけなのだから。その閉ざされていく意識の中で、最後に視界に映っていた、あの男だけなのだから。
「あれ、もう起きたの? 相変わらず早いね〜。」
「・・・」
セイコは沈黙とポーカーフェイスを保ちながらも、薄暗いテントの奥から入ってきた、その不敵な笑みを浮かべるピエロを溢れるほどの殺意を込めて睨みつけた。
「おー怖い怖い。」
「あなた、何者?」
「何って、さっきのピエロだよ。うーん、記憶まで飛ばしたかな?」
「だから誰って聞いてるの。私、印象の薄い人間は覚えられないから。」
「ったく、本当につまんねーな。なら思い出させてやるよ、セイコ!」
「?」
ピエロは手品のように一瞬で化粧を落とした。そしてゆっくり焦らしながら顔を上げた。その素顔と本性を曝け出すように、じっくりと見せつけるように。
「───ちっ。」
「はは、どうだ、感想を聞かせてくれよ。」
「最悪。」
「こっわ。久々の再会だろ、マイハニー。」
「死ね。」
セイコは恨みと怒りを込めた言葉を吐き続ける。そのピエロに扮していた目の前の男、それは彼女がこの世で最も嫌いな顔だったから。
「まぁ落ち着けよ。どうせお前には何もできねぇ。あの時と同じでな。」
「・・・」
「専門業者が来るまであと1時間ってとこか、それまで懐かしの檻の中を楽しむんだな。あ、なんなら俺が隣にいようか?」
「消えろ。」
「はいはい、まったく怖い女め。」
そしてピエロの男は不気味な声で笑いながら去っていく。その背中をセイコは静かに見つめ続けた。
「・・・はぁ。」
そしてマジシャンは冷たい鉄の床の上で、独り静かに目を泳がせながら、ゆっくりとため息を吐き、久しく忘れていた忌まわしき過去を、そのピエロの男のことを思い出していた。
それはセイコが国境なき奇術団に入る前、マジックバー「Night Wanderer」に辿り着くよりも前のこと。
まだ今ほど腐った性格ではなく、普通に友人がいて、仲間がいて、恋人がいて、心を許せる存在が多かった、彼女が普通のマジシャンであった時代。
セイコは幼い頃から憧れていた奇術師の道を本格的に目指すため、親と決別して片田舎の実家を離れ、ロンドンのとある奇術団に所属して単身修行に勤しんでいた。
その頃は彼女も年若くて大した経験もなく、慣れない土地、環境に翻弄されながら慌しい日々を過ごしていた。しかし彼女が生活に困るようなことはなかった。なぜならば、それらの全てを凌駕するほどの、卓越したマジックの腕があったのだ。それは彼女の直向きな努力の賜物でもあるが、凡人ならば到達できずに決して手に入らない才能、その在り方が生まれつき持っていた先天性のセンス。
セイコはどんな初見のマジックでも、一目見ただけで自分の技術に昇華させる。それほど彼女の観察眼は凄まじく、それは他者の些細な動きや僅かな反応から心理を読み取り、ごく自然に誘導できるほどまでに特質していた。
その力はやがて奇術団の中でも群を抜いて磨かれていく。そしていつしか彼女の周囲の人間はその高度な技術しか見えなくなり、奇術師としてのセイコ・ムラマツという存在を認識する人間はいなくなってしまった。
それは彼女にとっては何よりも耐え難いほど辛く苦しい重荷になる程に。彼女の中の他者との距離感の乖離、不安、疑心は加速し続けた。
ゆえに彼女はとある存在に救済を求める。ただ一方的に、ただ陶酔的に。それは彼女にとっては何よりも大切であった存在であり、信頼できる仲間であり、全てを許せるはずであった恋人だったから。
その男はいつも不気味に笑っていた。そしてある時、彼を信頼し切った彼女の盲目的な様子を見て、それを頃合いだと思った男は言った。
「俺に任せて、大丈夫。」
それは彼女に優しく触れながら、ただ無条件に安心させ、何も疑わせずに惑わすように。
そしてセイコは何も迷わずに彼を信じた。ただ純粋に他人を信頼していた。しかしその時、彼女に返ってきたのは、最悪で最低な裏切りだった。
その男は呆気ないほど簡単に彼女のことを謀り、その身を他者に売り飛ばしたのだ。それはただ己の金のために、物好きな富豪の好事家に。
その事実を檻の中で知った彼女は絶望して腐っていった。何も考えずに他者に寄り添った自分と、その男の優しかった笑みを恨みながら。
それから薄暗い鉄格子の中で時間が過ぎ、セイコはそのまま自分の人生が終わりを迎えると思っていた。
しかしその未来は最も容易く破壊される。
通りすがりの2人のマジシャンによって。
それは星と月が夜空に輝いていた夜、彼らはその場に唐突に現れ、ただ何事もないように人身売買の組織を壊滅させた。
「───あ、警察が来た!」
「なっ、ここで見つかるとまずいな、帰るぞ!」
「ちょっと、置いていくな!」
セイコの檻からは若い少年と少女の焦る声しか聞こえなかったが、それでも彼女には何となくの状況が理解できていた。それから2人の奇術師が去り際に大きな爆発を起こし、その余波で偶然にもセイコの捉えられていた檻も壊されて、自由の身となった彼女が見たのは、夜の空を彩る鮮やかな魔法。
「・・・綺麗。」
そして奇術師は眼鏡を外し、目の前に広がった美しい世界を、その瞳に深く焼き付けるのだった。
それからセイコは母国の地を離れ、全ての未練を捨て去って、独り静かに旅を始めた。それはマジックの腕をさらに磨き、人として、マジシャンとして新しい成長を得るために。そしてあの夜に名も告げずに自分を解放してくれた彼らの形跡を追うように、その魔法を追い求めて、彼女は独り世界を放浪し、そしてその場所に辿り着いた。
そこはフランス、パリにある、マジックバー「Night Wanderer」。そこは世界中の奇術師たちが腕を競い、自然と集う場所。その店には年若いが、魔法のような奇術を魅せるマジシャンがいるという。そんな風の噂など、今の彼女にとっては半信半疑ではあったが、それでもセイコは最後にそれを信じて、店の扉を開けるのだった。
それは客と奇術師で賑わってはいるが、静かなジャズが流れる、落ち着いた店内であった。そして多種多様の酒の並び、間接照明に照らされる木のカウンター。
「いらっしゃいませ!」
「いらっしゃい。」
そこには元気よく声を張り上げる茶髪で童顔の少女と、灰髪で澄ました顔の少年がいた。
「・・・っ。」
そこでようやくセイコは2人の若きマジシャンを見つけ、たった独りの放浪の旅を終えるのだった。




