第65話「二人出逢えた運命(前)」
その後の日々はとても平凡なものだった。学校を卒業し、仕事をして、当たり前のように平和な日常を惰性で過ごす。
それは毎日毎日同じことの繰り返し。どこまでも続く退屈な連鎖。それでも彼には不安や不満はなかった。そして時の流れと共に歳を重ねていった。少女の残した最後の言葉を胸に刻んで。
それから長い、あまりにも永い時が過ぎた。あの戦いから91年後、あの日の少年、江古田 蓮は齢108を迎えた老人となっていた。
ある1人の天才科学者の誕生、世界中で勃発した戦争、荒廃する文明、未来の人類に訪れたのは混乱と混沌。そんな激動の時代を生き抜いた蓮は、とある小さな深い森の中にいた。
「・・・」
静かな風に靡く木々の間からは眩い光が差し込む。この場所を少し離れれば、そこはもう戦火の中。そう遠くないうちに、この森も燃えて失われるだろうと、老人は独りで悲観しながら、森の中心にある古い大木にもたれかかる。
もはや老いすらも乗り越えて、その命の終わりが近いことを悟る老人。もう彼の身体はあの頃のように、自由に動くことはできない。
「・・・」
あの日の少年がそれほど老齢になるまで時間は経過したが、しかし彼はその人生で少女に会うことは叶わなかった。ただ彼女の最後の言葉を信じて長い時を待ち続けたが、結局は再開を果たせなかったのである。
少年は江古田蓮としての人生を歩み、片時も少女のことは忘れなかったが、もう彼は立派に年老いた、ただの長生きの老人だ。
その記憶が朧げに薄れてゆくほどの膨大な年月。それは共に過ごした濃密な記憶が色褪せるほど。その温もりを忘れてしまうほど。
「・・・っ。」
それでも老人は少女の笑顔だけは忘れていなかった。どれほど多くの記憶たちが忘却の彼方に消え、その全てを思い出せなくとも、彼女の何よりも眩しい笑みだけは、決して失うことはなかった。
「・・・・・・?」
そして老人が静かな森で独り、既に古びた銀の月のペンダントを霞む視界で眺めていると、周囲の木々が騒めくのを感じた。その場所に何かが近づいて来ているのだ。
「───っ!?」
しかし老人は警戒もせずに、ただ古い大木にもたれながら、迫り来る謎の存在を待ち侘びていると、木々の奥からは1人の子どもが飛び出して、彼の目の前を無我夢中に走り、そこで盛大に転ぶのだった。
唐突に出現した子どもに驚く老人を無視して、その小さな子どもは大声で泣き始めた。それは相当に幼い少女の泣き声だった。
「───大丈夫かい?」
目を細める老人は杖をつきながら、その重い身体を起こして、転倒した少女にゆっくりと近づいて声をかける。
「・・・っ。」
しかし少女は泣き叫び続ける。それは静寂の森の中に余すことなく響き渡るように。心配する老人の言葉をかき消すように。その場に力なく座り込んで泣き続けた。
「───!?」
「───おっと。」
その様子を不憫に思った老人は、泣き叫ぶ少女に手を伸ばして、その体を優しく立ち上がらせた。
「・・・」
「・・・」
「・・・ぅう。」
「───あ。」
老人の手によって起き上がった少女は、一瞬だけ目を丸くして静止したが、それでも再び大声で泣き始める。
「・・・困ったな。」
少女の頭の中は痛みと恐怖で溢れている。そこに老人の小さくて弱い声は届かない。ただ少女は己の感情のままに泣くだけ。その子ども特有の純粋な単純さに老人は困り果ててしまった。
「むむむ。」
あの手この手で老人は少女の気を紛らわせようとするが、その存在は一向に泣き止まない。そして頭を悩ませ、少々疲れを感じた老人は、とりあえず少女を古い大木に座らせることにした。そして彼もその木にもたれかかって少女の隣に座る。
「ほら、安心しなさい。ここなら大丈夫。」
「───うぅ、───うぅ。」
それから数分の時が経ち、段々と少女の大きな泣き声は収まったが、それでも未だに呼吸を乱して涙ぐんでいた。
「君は、どこから来たんだい?」
「───うぅ、わかん、ない。───うぅ!」
「あーそうかそうか。」
やはり少女は迷子なのだろうか。元いた場所を尋ねてみると、またしても泣き始めてしまった。これ以上は流石に骨が折れると考え、老人は慌てて少女を泣き止ませようと努力した。
「───ほら、もう泣き止んでおくれよ、何でもあげるから。」
「───っ!」
「───?」
その瞬間だった。何となくその言葉を老人が発した時、幼き少女は泣き叫ぶのをピタリと止めた。その不自然なくらいの緩急に老人は強い疑問を感じる。
そして泣き止んだ少女は静かに小さな口を開いた。老人の胸元のある一点をじっと見つめながら。
「わたし、それが欲しい。」
少女が無垢な顔で指差したのは、老人が首からかけていた銀の月のペンダントだった。
「・・・これは。」
老人はペンダントを手に取って言葉を詰まらせた。それは大昔に仲間から譲り受けた、彼にとっては何よりも大切なモノだったから。偶然にも通りがかった見ず知らずの子どもに渡せるようなモノではなかったから。
「───うぅ。」
「───あ。」
しばらく老人が思い詰めた顔で固まっていると、その様子から願いが叶わないことを察したのか、小さな少女は涙ぐみ始めた。その涙腺は既に決壊しそうだった。
「───やれやれ、仕方がない。」
苦笑する老人は小さくため息を吐きながらも、そのペンダントを少女に手渡した。どうせすぐに燃え尽きる命なのだから。ならばその前に誰でもいいから渡してしまおう。その時の彼はその行動と選択には特に何も思っていなかった。
「───?」
しかしそれは少女がペンダントを受け取った時だった。その少女が無邪気に喜ぶ様子を見て、ふと老人は気がついてしまった。まさに今この瞬間、定められた運命が始まったことに。
それは彼の大切な存在であった少女から、いつの日か聞いた話だった。それは幼い頃の彼女が出逢ったという記憶だった。
老人の萎れ衰えた細い手は震えた。彼は自分の心臓の鼓動が弾ける音が聞こえた。そして彼は霞む目を見開いて、ようやく少女の姿を視界にとらえた。
「・・・・・あ、あぁ。」
それは美しい金髪に透き通った白い肌。幼くも凛々しい顔立ちに、宝石のように輝く青い瞳。
「き、君、な、名前は?」
老人は体を小刻みに震わせながら少女に聞いた。その名前を、恐る恐る、怖々と。
そして首を傾げる少女は目を丸くしながらも真っ直ぐ老人の目を見て答えた。
「カナン!」
「──────!!!!」
そこで彼は言葉を失った。もう瞬きも呼吸すら忘れていた。それは儚い夢のような現実、彼が生涯待ち望んでいた眩い景色。幾度の困難を乗り越えて、混ざり合った因果律の果てに、ようやく死の間際にて、もう一度出逢えた奇跡的であり必然的な運命。
全てを理解した老人は嬉しそうに、ただ懐かしそうに微笑んで、今度は彼が涙を流した。
「どうして泣いているの?」
幼き日のカナンが不思議そうに尋ねると、老人は静かに笑って答えた。
「嬉しいから、泣くんだよ。」
「?」
「いつか君にも、わかる日がくるさ。それまでは、そのペンダントを、大切にね。」
「? うん!」
まだ幼い少女には老人の言葉を何一つ理解できなかったが、それでも彼女は強く頷いた。彼の感情を直感的に受け取ったカナンには伝わっていたのだ。その言葉に込められた全ての想いが。
だからこそカナンは老人を不思議に思い、面白がり、何か親近感を覚えて、ただ無邪気に彼に話しかけ続けた。
その少女の怒涛で純粋な好奇心を前に、老人は心の底から楽しそうに応じる。まるでかつての淡い思い出を一つずつ丁寧になぞるように。
「───ねぇねぇ、お爺さんはどこから来たの?」
「私は───」
そして蓮は服の中から色褪せた写真を取り出し、静かに微笑んで答えた。
「───遠い遠い過去からやって来たのさ。」
その言葉には彼の歩んできた人生が詰まっていた。それをまだ知らない少女は首を傾げるが、すぐに忘れて楽しそうに声をかけ続ける。たとえ老人が返事をしなくとも、もう微塵も動かなくとも。
「───っ。」
興奮した少女が嬉しそうに話しかけてくる隣で、力なく微笑む蓮は薄れゆく意識の中で眺め続けた。いつかの夜、同盟を組んだ4人で鍋を囲って、屋敷の前で撮った写真を。そして満足そうに眺め終えて、その瞳を静かに閉じる。
それは木々の生い茂る森の中心。ただそこに響くのは、老人に話しかける少女の声と、風に揺らされる草木が奏でる静かな音だけ。
そして瞳を閉じて微笑む蓮は、古い大木にその身を預け、何も知らぬカナンの隣に寄り添って、その永い旅路を終えるのだった。




