火種(2日目)
翌朝、霧が村を包んでいた。
炭焼きの煙すら輪郭を失い、白の中で消えていく。
レオ・グレイは、斧を手に裏山へ薪拾いに出る――という名目で、村の外れに足を運んでいた。
本当の目的は、昨日見た地図に記された場所。
“火”とだけ書かれた、あの一点だ。
森の入り口は、子どものころから「気味が悪い」と避けられていた。
道も踏みならされておらず、獣道のように草が覆い、地面はぬかるんでいた。
でも、レオは知っていた。
昔、一度だけ父に連れられて入ったことがある。
どこへ行ったのかは覚えていない。
ただ、霧の中で見た“石の柱”の印象だけが、心の奥に残っていた。
そして、今――
その風景が現実に繋がっていく。
森の奥。
湿った空気と、静寂。
木々が高く、空を見えなくしていた。
その中に、ぽつんと、石段が現れた。
苔に覆われた石柱。
剥がれ落ちた紋様。
崩れかけた階段の奥に、それはあった。
祠。
石造りの台座。その中心に、古い木箱が据えられていた。
鍵はなく、蓋は半ば開いていた。
レオは、ゆっくりと近づいた。
心臓の音が、自分の鼓膜を叩く。
そして、箱の中をのぞいた。
一冊の本。
煤けた皮表紙。炭のようにざらついた質感。
文字はない。ただ、灰の匂いだけが濃く残っていた。
手を伸ばすと、風が吹いた。
どこからともなく、灰が舞い上がった。
森に風はなかった。
でも、その本のまわりだけに、風が生まれていた。
ページを開いた瞬間――
赤黒い文字が、焦げ跡のように浮かび上がった。
読めない。けれど、“何か”が伝わってくる。
熱でも音でもない。
ただ、意志のようなものが、胸の奥に押し寄せてくる。
そのとき、木の枝に一羽のカラスがとまった。
片目のない黒い鳥。
昨日、村で見たあの鳥だ。
「……お前、やっぱり……」
レオがそう呟いたとたん、ページの文字がゆらめき、
周囲の灰が、ふわりと舞い始めた。
それは風に流れるのではなく――
レオの方へ向かってくる。
灰の粒が、指に、腕に、頬に触れ、すう……と吸い込まれていく。
それは冷たくも熱くもなく、
まるで水のようで、でも重さを持たない。
ただ、“入ってくる”感覚だけがあった。
レオは、体の奥にざらざらとした感触が広がっていくのを感じた。
心臓がもう一つ生まれたような、
何かが、自分の中で動き出したような――
「……これは……」
言葉にならなかった。
けれど、確かにわかっていた。
これは、魔法じゃない。
魔法とはまるで違う。
もっと“むきだしのもの”――
これは、“灰”だ。
ページの中心が、赤く脈打った。
そして、それに呼応するように、レオの指先に火花にも似た何かが走った。
誰にも教えられていない。
名前も使い方も知らない。
それでも、確かに“目覚めた”。
そのときカラスが、一度だけ鳴いた。
低く、乾いた声。
その音に、森全体が一瞬だけ震えたように思えた。
レオはそっと本を閉じ、懐にしまった。
背中にはまだ灰がまとわりついていたが、風とともに静かに散っていった。
その日、少年は“祠”を越えた。
そして、“魔法の外側”にある力に、初めて触れた。