第1章 第5話 紫藤英治
放送終了後、会場内のざわめきが静まり、東堂や記者たちは一旦、重くそしてそれ以上に熱い空気の中で立ち尽くしていた。
スクリーンに映し出された「RePurge」のラストクレジットが消え、静寂が舞い降りる。
SNS上の議論はまだ続いている。記者たちは携帯画面を片手に、互いの顔を見合わせながら、これが単なる報道番組ではなく、情報社会への一種の挑戦であったことを感じ取っていた。
記者の中には電話をしながら会場を抜けて行く者も幾人かはいたが、多数はざわめきと共に席を立つことはなかった。
此処が最前線だ、
皆そのことを分かっているのだろう、出て行かざるを得ない記者たちも一様に、悔しそうに会見場を振り返りながら去っていく。
その時、会議室の隅で一人の若手記者が呟いた。
「これ、ヤバいだろ。ここまでやるのか?」
隣にいた中堅の記者も頷きながら言う。
「そうだな。まさに忖度の一切ない報道、そのものだが。しかし、これでは。」
記者たちの視線を浴びる東堂はしかし静かに席につき、なにを思っているのかは伺い知れない。
彼の目は、放送で交わされた強烈な言葉と、会場内に漂う微妙な余韻を捉えていた。
記者たちはまるで、自身がこの放送という一大パフォーマンスの実験台になったかのように感じた。
「我々は、ただ単にニュースを伝えているだけではない」
と、東堂は独り言のように呟いた。
「この放送は、メディアという大きな鏡に我々自身を映し出す試み。視聴者、記者、そして我々経営陣も、そのすべてが物語の登場人物にすぎない。」
その瞬間、室内の空気がさらに重みを増す。参加していた記者たちは、スマホ越しに飛び交う賛否両論のコメントを思い出しながら、それぞれの立場で自問自答しているようだった。
まんまと巻き込まれた、そう感じる。しかし悔しいかなそれが腹立たしくはない。
「これ完全にクーデターだよな?」
一人の記者が、小声ながらも問いかける。
「それ以外の何だってんだよ。」
別の記者が、意見を述べる。
「東堂社長の強気な発言も、あれがなければ生まれなかった。
RePurgeは、そしてInovexは彼の剣だったんだ。
彼は生贄なんかじゃない。
本当に食い破るつもりだぞ。大和テレビ、俺たちも、いやこの国すらも。」
こうした声が飛び交う中、記者会見の空間は、ただの情報交換の場ではなく、メディアそのものの存在意義を問う議論の場へと変貌していった。
先程放送された「RePurge」。それがこれからの大和テレビだけでなく、情報社会全体に波及する一大プロジェクトだと。
その始まりを告げるのだった。
東堂は改めて立ち上がり、静かな声で言った。
「皆様、この放送をどう受け止めるかは、我々一人一人の責任でもあります。
私たちは、変革を恐れず、そしてその影響を真摯に受け止める覚悟を持たなければなりません。
今日、この瞬間から、報道は単なるニュースではなく、私たち全員が創る物語の一部となるのです。」
その言葉に、会場内は一瞬、深い沈黙に包まれ、次の展開への期待と不安が、静かに交錯していった。
一人の記者が静かに手をあげた。
「いいですか?」
「ええ、勿論田中さん。」
それは東堂に改革の実行力はあるのかそれを問うた記者、田中だった。
田中は問う。
それは問いかけというよりは回答を求める学生のように沢木真帆には見えた。
「東堂社長、いや東堂さん。貴方、こんな、こんな事してどこまで考えてる?
これじゃスポンサーも戻らない、あなただって、貴方に付き従う人だって潰される、潰されますよ?どう決着させるんです、これ過激すぎるでしょう。」
田中の問いかけに自然体のまま答える東堂。
「決着?決着ってなんです?これがスタンダードです。終わりなんてありませんよ。」
「それと、」
東堂は続ける。
「スポンサーさんが戻らない。田中さん今そうおっしゃいましたよね。果たしてそうですかね?」
「いや、戻らないでしょう。貴方が仰る「忖度ない報道」それは先程のRePurgeを拝見して確かにそうだと思いましたよ。
あそこまでやるとは正直思わなかった、その点については素直に脱帽です。
しかし貴方の、貴方方のそのスタイルを貫く限りそれは貴方方を支援するスポンサーだとて容赦しない、そういうことでしょう?
そりゃ中には奇特な方もいるでしょうから幾らかは貴方に共鳴するスポンサーだって現れるかもしれない。
今の状況を考えればそれでもマシ、と言えるのかもしれない。でも大多数のスポンサー企業は戻れないでしょう、そのスタイルは危険すぎる。」
「なるほど、田中さんあなたはこの国のスポンサーになるような企業は裏では悪事ばっかり働いてるまともじゃない企業ばっかりだと、そうおっしゃるわけですね。」
東堂が田中に再度問いかける。その質問は東堂のサディスティックな一面が垣間見えるようで一部ファンに高評価されることとなる。
「な、そんなこと私は一言も、」
田中の弁を遮り東堂は続ける。
「私はね田中さん、楽観的なんですよ。
私はこの国の皆さんをそして経営者、企業理念を信じているんですよ。
そしてこの国のビジネスマンの商機をつかむ才覚を私は信じている。」
「どういう意味ですか?」
「わかりませんか?
スポンサー企業にも権威にも、そして視聴者の皆様にすら一切忖度しない。
絶対に嘘をつかない我々に出資する。
それ即ちそのスポンサー企業は一切の疚しいことのない
「顧客にも、世の中にも嘘のない誠実な企業であること」。
の証左になりませんか?
今我々大和テレビにスポンサーとして出資する。
これだけで信頼という最強のブランディングが可能なんですよ?
こんな商機なかなかないですよね?」
そういうと東堂はニヤリと口角を上げる、それはその言葉が額面通りの意味だけではないと言葉にせずとも表されていた。
その後も記者会見は、東堂と記者たちとの熾烈な質疑応答が続く中で、さらに激しさを増していく。
田中をはじめとする記者たちは、スポンサー企業の離反や改革の実行可能性、そして東堂の過激な言動に対する懸念を次々と投げかける。
東堂は冷静さを保ちつつも、時に挑発的な返答を交えながら、自らの「忖度の一切ない報道」への信念や、企業改革の必然性を力強く語る。
その後、別の記者が、改革の具体的なタイムラインや、内部告発者への配慮、さらに外部からの支援体制の強化について詳細な説明を要求する。
東堂は、既存体制との決別とともに、新たに設立されたInovexの役割や、その透明性確保のための取り組みについて、具体的な施策を示しながらも、理想論と現実の狭間の調整が難しいことを素直に吐露する。
会見の合間、SNSではこの会見がリアルタイムで大きな波紋を呼び、賛否両論が飛び交う。
記者たちは東堂の言葉に対して疑念を深める一方で、彼の野心に魅了される者もおり、会場は熱い議論の戦場と化す。
時間が経つに連れ記者会見は討論の場となり司会がネット意見を取り上げたり議論は活性化しエネルギーのぶつかり合いは生配信を通じ様々な層へと波及していく事となる。
東堂は、
「変革は終わりなき闘いであり、我々は常に新たな挑戦を続ける」
と宣言し日の出を迎え東堂の新社長就任記者会見+αは終了、
それは前回の大和テレビ経営陣の退任会見を上回る実に12時間を超える配信だった。
【東堂社長、あの強気な発言に鳥肌が立ったわ。「これがスタンダードです。」って、超覚悟感じる】
【おかしいな前回のだらだら謝罪会見より短く感じたぞ?】
【田中さんの質問が鋭すぎる、堀口のおっさんも良かった記者も優秀だとこうも違うんだな、相変わらずダメなのもいたけど】
【俺ダメ記者リスト作ってみた。ダメ記者共が何処とつながってるかも可視化してみたい。誰か手伝って?】
【RePurge完全に革命起こしてて草】
【さてスポンサー凸るか】
【どもー新社長の東堂でーす。までみた。】
【なんか一理ある気がした俺は情弱?】
【なんかすごい仕事できるやつ混じってね?ダメ記者リスト有意義すぎるだろ】
【改革、改革ってどうせこいつも口だけ。】
【もうやったんだよばーか、結果見せてんだろーが】
【サディスティック東堂かっこいい。フィギュア作ろ。】
「今、何時?」
亮はソファに腰かけモニタを凝視する吉弘に声を掛ける。
「お、起きたか5:45」
「え?まだ会見やってんの?」
亮は眠い眼をこすりながらそれでも驚いたように吉弘に尋ねる。
「ああ、マジでやばいわこれ。」
吉弘は興奮した様子で、しかし静かに答える。
「まじかあ、あの会見、予想以上にハードだったな。寝ちゃったよ俺」
「いや、普通寝るよ。この人らと俺が変なだけ。」
吉弘は隣で笑いながらも、疲れた顔で呟いた。
「ああ、でも俺も見たかったなあ、起こしてくれりゃいいのに。」
「後でアップされるだろ、切り抜きも上がるだろうし沸くぞこれ。」
吉弘は亮につれなく返答する。
「もう、だからリアルタイムで見たかったっての沸くのはそりゃそうだよ、吉弘がそんななってんだから。」
吉弘はスマホをスクロールしながら、熱心なSNSの投稿を見る。
「見ろよ、ネットでは賛否両論だけど、俺はあの大胆さに一種の希望も感じる。」
「他がどう反応するのかとなんか面白いよなあ、なんか世の中が動く最中って感じで。
よしゃ、シャワー浴びてくるわ。」
そう冗談めかして言うと亮は自部の太ももをパチンと叩くとシャワールームに向かった。
一人残された吉弘は呟く。
「暫くは静観、でも静観したままなんてできっこない。必ず渦に巻き込まれる。
あがらうか、素直に巻き込まれて加速させるか、か。
世の中が動く最中、正にそうなんだよな、やっぱ亮はすげえな。」
大きな欠伸をした吉弘はそのままソファに沈み込んでいく。
朝日の差し込む大和テレビ本社ビル最上階、そのガラス張りのオフィスの主の椅子に深々と腰掛け東堂は瞼を閉じていた。
明け方まで続いた議論に高ぶった東堂の心も静まり押しかける眠気にあがらえなかったのだろう。
コツコツコツと重厚な木製扉をノックする音が室内に響く。
主の返事のない部屋の扉を恐る恐る開く沢木真帆。
「社長?」
ノックの音では目覚めることのなかった東堂はしかし室内に他者の気配を感じ覚醒する。
「ああ、沢木くんか。」
「すみません、お呼びしてもお返事がなかったもので。」
「いや、こちらこそすまない。君も休んでないんじゃないか?今日はもう、」
「私は少し仮眠取らせてもらいましたし、この状況で休めないですよ。」
「そうか。」
そうつぶやくと東堂は卓上の時計を見やった。11:00無理な体勢で眠ってしまった為か首が痛い。
東堂は首をまわすと沢木に問いかけた。
「どんな感じだ?」
「すごいですよ、世間は概ね好評。身内は茫然自失。悪者は敵意剝き出しですね。」
真帆の言いように目を見開く東堂
「悪者って、、」
「悪者ですよ、社長が仰ったんじゃないですか、我が社の方針に賛同できないのは悪者だからだって。」
「言ったな、確かに。」
言葉は異なるが確かにそういったニュアンスを意図的に振りまいたのは自分だ。
後は世の中にどれだけ良い者がいるかの話である。
東堂は昨日のRePurgeが世間に衝撃をもって受け止められることを意図している。それは概ね功を奏しているかもしれない。
しかし、
「まだ、足りない。それに、そろそろ。」
「どうされました社長、はい、珈琲です。」
真帆の差し出す珈琲を礼を言い受け取ると口をつける。
苦く香ばしい香りが鼻腔を突き抜ける。その余韻を東堂が楽しもうとそうした時。呼び出しのコールが室内に響く。
受話器を取る真帆。
「はい社長室」
と応え、何やら応答する。
受話器を置いた彼女は東堂に視線を送る。
「社長、会長が17:00参内するように、とのことです。」
「皇帝陛下。勝てない戦に駆り出してくれるか。」
気だるげに独り言ちる東堂。
東堂の体調を気遣ってくれたりするような会長ではない。
今すぐの呼び出しでないのは何か他に、昨夜の東堂のやらかしよりも優先すべきことがあるのだろう。
「松岡辺りが泣きついたか?いや、見捨てた犬に構うような男ではないか。」
東堂は着替えとシャワーを浴びてくると真帆に告げると社長室を出た。
社内の空気は昨日までと違う、そう感じるのは自らが昨日までと違うからかそれとも皆の不安と使命感がこのビルに充満しているからなのか。
東堂はそんなことを考えながら帰宅を急ぐ。
たぶん眠いからだろうな。
そんな身も蓋もない結論に納得しながら。
料亭「花月楼」の軒先は、細やかな格子窓越と漆塗りの扉が時の重みを感じさせる。
庭先の枯山水が静かに流れるように広がり、落ち着いた和の空気が辺り一面を包んでいた。
「ベタですね。」
真帆の感想にふっと微笑む東堂、じっと睨むとすみませんと謝る真帆。
内部に足を踏み入れると、畳敷きの広間には、繊細な掛け軸や生け花が飾られ、格調高い雰囲気を醸し出している。
奥の個室に設けられた囲炉裏の前には、四方を取り囲む低い座卓があり、木の温もりと静寂が心を落ち着かせる。
その個室に、すでに紫藤会長が鎮座していた。
威厳を感じさせるシルクの着物に身を包んだ紫藤は襖を開け、入ってくる東堂を手招きする。
「ようやった、ようやったのう、のう東堂。」
年季の入った顔を皺くちゃにしながら紫藤が東堂の腕を手繰り寄せる。
「大したもんじゃ、大したもんじゃ。今の大和テレビを立て直すにゃあ、あれしかないもんのお。
松岡もあれようやったけどな、まあ所詮器っちゅうこっちゃなあ。」
紫藤が引き寄せた東堂の手をさすりながら言う。
その親密な様子に面食らう真帆。
紫藤はニコニコ笑いながら東堂のネクタイを掴むと老齢とは思えぬ膂力でグイと東堂を引き寄せその耳元に囁く。
「けどなあ、わりゃやりすぎとんと違うかあ?
わしあそこまでは聞いとらんかったでえ?申し開いてみるか?あ?」
東堂は、静かに頷きながらも内心、紫藤の重い視線に緊張を覚える。
秘書が助け舟を出す。
「御前、お茶も冷めてしまいますので、先ずはそちらのご婦人のご紹介などもお受けになられては。」
「お前、黙ってえ。
しっとるわいな沢木の真帆ちゃんやろがいな。
広報におるときから知っとるでえ。まさか東堂のタレやったとはしらんかったけどなあ」
「たれ?」
「御前お戯れを、私は沢木の能力と人格を買ってInovexの室長に押したのです。一切の邪念など。」
東堂は、紫藤の言葉に静かにしかし毅然と応える。
「ああ、そりゃそうやろ、おまえはそうゆうやっちゃな。信用しとるで、しょうもない。
ほんでもな女っちゅうのはなお前みたいにそうゆうんは無理なんや。
強い雄が近くにおったらなあかんのや。まあわしら雄もえらいべっぴんさっがおったっらそないなるんやけどな。
たまにお前みたいなしょうもないのが出てくんのは男やな。
せやろ真帆ちゃんあんた東堂のもんになりたいやろが」
「え?あ、え?」
しどろもどろになる真帆。
「御前、いい加減に、」
「ほんならはよ本題入らんかい」
ピシャリと言い放つ紫藤、そこには先程までの東堂と真帆をからかいながら値踏みする、いやらしい狒々爺の姿はなく、感情の抜け落ちた面のような怪物がいた。
「わしはどないするんやと、聞いたんや。
お前どこまで見据えとるんや?」
東堂の額に汗がにじむ、整えられていた前髪もばらけネクタイも曲がっている。
それでも、東堂は居住まいを正し紫藤に正対する。
「御前、我々大和テレビに籍を置くものは全て御前の世界に於いてのみ住まうことを、息をすることを許されたものにございます。
それは裏を返せば御前さえご健勝でいらっしゃれば大和テレビ、そして八紘メディアホールディングスは盤石なのでございます。
旧役員に全ての責を押し付け消えてもらう、これは御前もご承知のことのはず。
御前のお怒りは屑のようなスポンサー共の苦情や陳情が御前の手を煩わせてしまったこと、そのことだと思います、
このことは私の不手際に違いありません、ありませんが今日御前の手をお借りできたことで奴らも安心できるのです。
それは私では私の様な小物ではその安心感、到底与えられるものではないのです。
申しわけ御座いません。」
畳に両手をつき土下座の姿勢で紫藤に詫びる東堂。
「ほお、つまりお前、わしを利用したんやな?」
「私の不出来な脳髄では他に何も妙案が浮かばず。」
「なんでや、なんで根回しせなんだ?わしに相談する機会はあったやろが。」
「御前が私のような小物の手に乗ってくださるとは思えず。
また私の能力の限界を自ら御前に晒すような真似、到底できませんでした。」
喜色満面、かっかっと笑う紫藤。
この程度か、紫藤は東堂の底を知ったと悟る。
幾許かの芝居は見える、見えるがそれはそれでよい、ここに至って東堂は紫藤の慈悲にすがる。
その手しか打てぬ状況に追いやられている。
此処が東堂の底なのだ。
見えぬのは怖い、どんなに浅く見えようとも底の見えぬ沼は怖い。
しかし如何に深い沼とても底が分かれば恐るに足らぬ、如何様にでも手は打てる。
紫藤は東堂を自らの世界に取り込んだ、そう確信する。
「ほおか、ほおかわしは怖いか。
しかしな東堂わしはお前を買うておる。お前がわしの世界で泳ぐ限りわしの世界はお前のもんや。
どや、わしが死んだらその世界くれたろか。」
戯れに紫藤らしからぬ軽口が口をつく。
「御冗談を、私にそんな器は御座いません。
精々が所御前のお庭で砂遊びをさせて頂く幼子です。
それに御前には後継者様の一成様もいらっしゃるではありませんか。ご戯れも程々に、でないと私のような小物は惑ってしまいます。」
東堂は自分の体が出来るだけ小さくなるように縮こまって見せる。
「わかった、わかった、お前はええ男やけどつまらんのお。
まあこれからもあんまり跳ね過ぎて池からはみ出さんようにせんとな、池の外は鷺も鷹も、
鯉狙とんで?。」
そう言うと紫藤はもう興味はないとばかりに手の平を縦に振る。
「真帆ちゃん、今度は一人で遊びに来てもええでえ。」
「あ、ありがとうございます、次回も東堂社長のお供になると思いますがよろしくお願いします。
本日はありがとうございました。」
びくびくしながら紫藤に挨拶する真帆。
「御前、この度は誠に申し訳ありませんでした。今後ともご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします。」
深々と頭を下げる東堂。
「しらん、はよういねちゅうに。」
紫藤はそういうと奥の間に引っ込んでいく。
ホストの消えた座敷には東堂と真帆、そして紫藤の秘書が残される。
「どうなさいますか?お食事の用意はできておりますが。」
まったく表情の動かぬ秘書に辞去の意を告げると二人は料亭「花月楼」を後にするのだった。
湯船に体を沈める。
シャワーで済ませようとも思ったのだが、気づけばバスタブに湯を張っていた。
流石にさっさと眠りたいとも思ったのでどうしたものかと少し考えてはみたが、所謂振りである。
入るつもりが無いなら湯船に湯は張らぬ、
そんなこと当たり前なのに誰も何も言わぬのにそれでも誰かに言い訳をしてしまう、それが沢木真帆という女なのだ。
「めんどくさ。」
風呂の支度がなのか、自分の性格なのか、それとも今日会った妖怪みたいな爺さんの事か、その何れもなのか。
自分でもその対象が定まらぬのになんだか今は其の台詞がぴったりだと思ったから真帆はそう呟いた。
呟いてみたら、やっぱりぴったりだと思ったからなんだか面白くなって真帆は笑う。
「くっくっくっ」
と、
なんだか魔王みたいだなと、そう思った真帆はそれもおかしくなってまた笑う。
Inovex室長、自分の肩書だ。
でも今はただの沢木真帆だ。服も着ずに纏える権威などない、少なくとも自分にはない。
今日、いや昨日からの自分の、会社の、そして社会の変わりようは目まぐるしい。
天変地異なら致し方ない、世界の流れなら抗えない、けれどもこの流れはたった一人が生み出したうねりなのだ。
ゾッとする。それを生み出した東堂勝吾に、
そしてその彼をして「勝てない」と言わしめた「皇帝」紫藤英治に。
「卵焼き焼いて寝よ。」
風呂上がりにパジャマで卵を焼く沢木真帆。これが彼女の日常である。