行方 (羅生門より)
私がこの羅生門で生きていくようになって、どのくらいの月日が経ったのだろうか。もうここに来る前のことも、なぜここで生きているのかも、そもそもなぜ私が生きているのかも忘れてしまった。今の私に分かるのは、生きていかなければならないという本能があること、そしてそのために仕方なくする事があるということだけだ。だから、私はいつものように死体を漁る。
しばらくして、一人の女の死体を見つけた。なぜかその女に見覚えのあるような気がして、その顔を覗き込んだ。しばらく覗いてから、その女が自分の知っている人間であったとして、そんなことは生きていくためには関係のないことであると気がついた。そして私は、その美しい髪を使って鬘を作ることにした。
しばらく無心で髪を抜いていると、どこからか足音が聞こえて来た。その足音の主は、大きな面皰のある若い男であった。彼の眼は憎悪に満ちており、その敵意は私に向いているようだった。私にはそのような悪意を向けられる謂れはないはずで、にも関わらず、彼の憎悪に満ちた眼を、私は確かに知っていた。そう、私は知っていたのだ。その見当違いの憎悪も、その憎悪が生み出す勇気も、そして、それとは反対の方向にある勇気のことも私は知っていた。だからきっと、この美しい髪の女のことも、私は知っていたはずであったのだ。
その時の私は、とにかく腹が減っていた。当時の京都は地震や辻風、火事に飢饉といった災いが続き、洛内はすっかり寂れてしまった。そんな立て続けに起こった災いの煽りを受け、私を雇っていた主人も首が回らなくなっていた。歳を重ね他の下人のお荷物になり始めていた私が解雇されたのは至極当然の話で、世話になった礼を伝えて主人のもとを去ってからもう四日も経っていた。その間何も口にしていなかった私は、このままでは飢え死にしてしまうだろうとどこか他人ごとのように考えていた。もう手段を選んでいる暇などないことは分かっているが、では選ばないとすれば、と考えてその先に来るべき「盗人になるより他に仕方がない」ということを肯定するだけの勇気は出ずにいた。「すれば」はいつまで経っても「すれば」のままであり、行動を伴わない漠然とした焦燥だけを抱えたまま宛もなく歩いていた私は、どこからか漂う匂いにつられ、やがてこの羅生門の下にたどり着いた。そこにいたのは干魚を売る若い女だった。その女の佇まいにはどこか品があり、この京都にあってはかえって気味が悪いほどに美しい髪をなびかせていた。女の売る干魚は不思議な匂いがして、空腹のせいかその匂いのせいか、はたまたその女が持つ趣のせいなのか、そのときの私にはひどく魅力的に見えた。
「すみません。もうしばらく何も口にしていなくて、なにか食べ物をお恵みいただけないでしょうか?」
だから、その言葉はほとんど無意識のうちに出たものだったように思う。
「もちろんよろしいですわよ。干魚一切れ十銭でございますわ、おばあ様」
女の声は、その風貌に違わず美しいものであった。私はすがるような気持ちで言葉を続けた。
「あいにく今お金の持ち合わせが無いのです。切れ端などを少しだけで構いませんので、お恵みいただけませんか?」
女はその言葉を聞くと、明らかに落胆した表情を浮かべ態度を変えた。
「文無しの相手をしている暇はありませんの。邪魔ですからさっさとどこかへ行ってくださいまし」
「そこを何とか、お願いいたします。このとおりでございます」
「土下座なんかされてもお渡しできるものなんてございませんわよ。こちらにも貴方様のような薄汚いババアに恵んでやれるほどの余裕はないんですの。邪魔ですからさっさとどいてくださいます?」
そう言うと女は、ためらいもなく私の横腹を蹴飛ばした。誤解のないように言っておくと私は往来で土下座をするという行為に抵抗がなかったわけではないし、ましてや普段からやすやすとこのような行いをしていたわけでは断じてない。ただ、このまま何も口にしなければ私は明日にでも死んでしまうだろうという確信が私にこのような屈辱的な行いをさせただけであった。何が言いたいかといえばいくら年寄りとはいえこの私の土下座に価値がないということはないはずだということだが、しかしそんなことはこの女には関係のない話で、商いの邪魔をする私を蹴飛ばして店の前からどけたその行いを責めることはできないだろう。その程度のことは朦朧とした頭でも理解出来た。理解は出来たが、ではその通りの行動が出来るかと言われればそれはまた別の話であり、胸の裡にふつふつと湧き上がるこの感情を止めることがその時の私にはできなかった。私はその激情に身を任せ、体を起こし、拳を振りかぶってその女を打った。正確には、打とうとした。四日間歩き続けた私の足は当然のように言うことを聞かず、立ち上がることさえできないままその体は女の背後に積まれていた荷物へと激突した。
その拍子に、その荷物から何かが飛び出した。その何かからは例の不思議な匂いが漂っている。どうやら女はこの荷物に売り物を詰めていたようであった。そのうちの1つを手に取ると、まるで人の食べ物であるかのような顔をして現れたその細長い肉片は、よく見てみれば干魚などではなく、干からびた蛇であった。
「ちょっと!何をしてるんですの!あなたにだって今の京都で人に食べ物を恵めるような人間がいないことくらいわかっているでしょう?もういい加減にしてくださいまし」
干魚ではなかったとしてもそれが食べ物であることには変わりがない訳で、私にはそこでその肉を食べてしまうことだって出来たはずだ。しかしこの期に及んで私にはそれをする覚悟が、つまりは「すれば」の先を肯定する勇気がでないままであり、代わりに胸の裡に芽生えたのは人を騙して金を稼いでいるこの女への見当違いの怒りであった。喚き散らす女の言葉には耳を貸さず、私は尋ねた。
「この蛇はなんですか?あなた干魚を売っているとおっしゃっていましたよね。客を騙して商いをしていたのですか?」
「さあ、知りませんわ。何処かから入り込んだのではなくて?もういい加減に消えてくださいまし!」
そう言うと女は、再び私を蹴飛ばした。その力は先ほどの比ではなく、明確な殺意を感じるものであった。抵抗できないまま何度も力を振るわれ、それに怒りを感じる間もなく私の意識は遠のいていった。
どのくらいの時間が経ったのか、私はあの女の声で目を覚ました。どうやら客と話しているようで、恥ずかしげもなく人に媚びるような上ずった声は私の神経を逆なでした。
「うむ、やはりお前のところの干魚は特別味がいい。うちの女房のつくる干魚とはまるで別の食べ物のようだ。なにか秘密でもあるのか?」
「ありがとうございます、太刀帯様。美味しさの秘密は、ふふふ、私の愛情でございますわ」
「はは、どおりで女房には作れないわけだ」
「あら、そんなこと言ってると奥様に怒られますわよ」
「おっと危ない。それじゃそろそろ帰るとするかな」
「いつもありがとうございます。きっとまた来てくださいまし」
朦朧とした意識の中、少しずつ記憶が蘇っていく。ズキズキと痛む体が意識を覚醒させてゆく。先ほど受けたあの仕打ちを思い出してきた。激しい憎悪が少しずつ動いていく。いや、そうではない。私はあの気味の悪い蛇のことを思い出したのだ。この憎悪は個人的な痛みに由来するものではない。あの女の悪行に対する、もっと言えばこの世に蔓延るすべての悪に対する怒りだ。人を騙すような人間は屑だ。あの女を許してはならぬ。そうだ、あの女は正義のもとに糺されるべき悪なのだ!私は無意識のうちでこの怒りに「正義」という免罪符をつけ、そのことに無自覚なまま出せる限りの声を絞り出した。
「太刀帯様、この女に騙されてはいけません!この女が売っているのは干魚などではありません!およそ人の口にするべきではない、干からびた蛇なぞを売っているのでございます!」
果たしてその声は太刀帯には届かなかった。弱りきった今の私には、このような往来で人に届くような声を出すことなぞ出来るはずもなかったのだ。そして都合の悪いことに、代わりにあの女だけは耳ざとくその声を聞きつけていた。私を見つめるその目はひどく冷たく、先程まで私を動かしていた怒りは一瞬にして恐怖に塗りつぶされてしまった。私は再び訪れるであろうあの痛みに備え、目をつむり、腹に力を入れて体を小さく丸めた。しかし、私の恐れたその痛みが訪れることはついになかった。きっと、あの女は私が痛めつけるまでもないほどに弱っていることが分かっていたのだろう。だから私を更に痛めつけることにもはや意味などなく、そして女はその代わりにそれよりも余程意味のある行為に着手した。
抵抗も出来ないまま着物を剥ぎ取られた私は、この段になってようやく、「すれば」の先を肯定する勇気を出すことが出来た。その日に食べた干魚は、特別味が良かった。
「おのれ、どこへ行く」
そう言うと、面皰の男は私の方へと迫ってくる。その男の眼が、私にかつての記憶を思い出させていた。その声から伝わる悪に対する反感も、やはり私は知っているのだ。ああ、やはり。これからどうなるのかも、私は知っている。知っていて、それでも恐怖という本能には抗えずに私は逃げ出した。一つだけ、あの女の美しい髪をその場に残してきてしまったことだけが心残りであった。
着物を剥ぎ取られた後、男の気配がなくなったのを確認して私は体を起こした。そして、梯子の口まで這って行った。そうして、そこから、短い白髪を倒にして、門の下を覗き込んだ。外には、ただ黒洞々たる夜があるばかりである。
そこに下人の姿はない。けれど、私はきっと、彼の行方を知っている。