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その五

その瞬間目の前に現れたのは、目をまん丸に見開いた喜市であった。

余りに勢い欲開いた戸に驚いた顔のまま、清次郎の妙に睨みの聞いた顔と見合うと、喜市はげらげらと吹き出した。


退かぬ笑いに喜市は申し訳なさそうに眉を下げながらも、喜市は手にした徳利と猪口をひょいと持ち上げて見せた。

「いやあね、酒でも飲んだらちょいと肝も座るかと思ってね。飲み過ぎて寝ちまうといけないからこれだけだがな」


まだ強張りのおさまらぬ清次郎にそう告げると、押し付けるように清次郎に渡し、「何かあったら呼んでくれ」と念押しした後、僅かに肩を震わせながらもすぐに踵を返し


「その時は、戸を優しく開けてくれよ」

と、後ろ手を振って付け加えた。


さすがにそれには清次郎も笑いを漏らしてしまって、喜市はそれに気づかずに部屋へと戻ってしまったが、一笑いしたせいか、戸を閉めて部屋が暗くなっても心持ちが随分と軽くなっていた。

「小意地は悪いが、良い奴だ」


欠けた猪口に笑みを落とし、部屋に上がろうと振り返ったその時、暗い部屋の中だけれど、確かに部屋の中で誰かと目が合った。


瞬きをした一瞬に浮かびだした鮮やかすぎる着物は、暗闇の中でなお目を惹いた。

さながら宵闇に浮かぶ牡丹のようで、透ける白さのその腕は白鷺のように見える。


間違いなく、あの花魁だった。


知らぬ間にその場にへたり込んでしまった清次郎を目掛け、花魁はゆっくりと音も無く、滑るように足元へと近付いて来る。

先ほどまでの心持はすっかりとどこかに去ってしまい、叫んで逃げ出したい気持ちではあったが、自分の後ろにある戸の向こうには喜市がいてくれると思うと、昨日よりはよっぽど心強かった。


清次郎は目に入った銚子の酒をそのままぐっと飲み干し、お守りを握り締め立ち上がった。

「花魁、待たれよ。私はお主のことなど存ぜぬ。恨まれる筋合いなど到底ござらん。人違いではあるまいか。」

と上ずりはするものの、腹のそこから力を込めて言い放った。

手や足はそれでも小刻みに震えていたが、頭の中は自分でも感心するくらいに至って冷静であった。


途端にぴたりと歩みを止めた花魁の、彼岸花の花弁のような、紅を引いた薄い唇が僅かに動く。

不思議と、恐ろしいと言うより先に、美しいと思えるほどのはかなさであった。

「嘘を申しんすな。わっちだけだと申して水揚げしたのは、どこのどいつじゃ。

わっちがありながら、どこぞの者とも分からぬ女を連れ込んだのはどいつじゃ」

静かだが、何より大きく深く響くような、悲しく恐ろしい声なのに、薄い壁を隔てた隣の家からはごうごうと下駄売りの佐助のいびきが変わりなく聞こえてくる。


空気がきしんでいるようで、あちこちで何かのはじける大きな音もしたが、それでも清次郎以外の誰かがこの音に気づいている様子はなかった。

目を一層吊り上げた花魁はまたもするすると近付いて来る。


「待て、よくよく見てくれ、こんなボロの長屋住まいの俺に、どうしてお主のような花魁を揚げる甲斐性があろう。」

恐ろしくてしょうがなかったが、搾り出すように声をあげながらも傍らにあった米櫃を傾けて中を見せた。


「見てみろ、明日食う米がたったの八粒だ。」

自分で口にしていながら、情けなくてしょうがなかったが、とにかく花魁を追い返すことで精一杯であった。


すると漸くその足はぴたりと止まり、今度はぐるりと部屋を見渡し始めた。

月明りで僅かに明るい部屋の中、清次郎は手をぎゅっと握り締め、緊張と恐怖を耐えていた。

花魁はぺたぺたと部屋にある物をひとしきり触りながら歩き、しばらく考え込む様子を見せた後、再び花弁のような口を開いた。

「お主は誰でありんすか」


先ほどとは打って変わって、花魁は困ったような不安であるような顔をしている。

ほんのりと生気を帯びたようにさえ見えた。

とたんに張り詰めた空気が緩むのがわかると、緊張と恐ろしさで上がりきった肩が、一気にすとんと落ちた。


「私はは狩野清次郎と申す。訳あってこのような長屋に住んでいるが、白河藩の出の御家人でござる、問うが、お主は一体誰をそんなに恨んでいるのだ。」

恐ろしくないと言えばうそになるが、白い手で胸元をぎゅっと握り締める花魁を見ると、それよりも心配の方が勝ってしまった。


「宇部征之助と申す男じゃ。商家の若旦那でありんす。」

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