その四
喜市は一瞬驚いた様な顔をして
「そりゃいいや。初回、裏って済んだら次は床入りだな。幽霊の花魁なんぞ、吉原でいくら積んでもお相手頂けないぞ」
と、さっきまでの難しい顔を途端に崩して、清次郎の肩を叩きけらけらと笑い飛ばした。
「わらいごとじゃない」
またも声を荒げる清次郎に、どこかの家から「うるせえ」と野次が飛ぶ。
むうと口をへの字に曲げる清次郎の顔を困ったように眺めると、喜市は呆れたようにため息を吐いた。
「笑わなきゃ怖いままだろ。なあに、ちゃんと心当たりがねえ、人違いだって話してお引き取り願うしかねえや。幽霊だって別人うらみ殺して地獄に行くんじゃ、悔やみきれんだろうよ」
「話す。幽霊とか」
「おうよ」
大胆な提案に呆気にとられ、清次郎は目を丸くした。
話してわかるような幽霊の勘違いならば、二度も間違えて自分のところに化けて出るわけもあるまい。
しかし、善は急げとばかりにその日再び日が暮れると、喜市は清次郎がいくら懇願しても
「起きているから呼びにきたらいい」
と言って、一緒に花魁を待ってはくれなかった。
さては楽しんでやがると思うと、悔しくて、それでもやはり幽霊はおっかなくて、結局は喜市から気休めにともらったお守りと、酒で清めた刀をかたわらに置き、怯えきった心を塗り槍に飲み込むと、どっしりと坐してその時を待っていた。
夜はすっかり更け、あまりの静けさに大通りで誰かの歩く足音さえ聞こえる。
路地を抜ける風の音が思い出したように届き、月の明かりの差し込む音がしんしんと聞こえそうな中、微かな風に戸が揺れた。
がたりと鳴る戸の、音の合間から、微かに何かが戸板にぶつかる規則正しい音がする。
「やっときたか」
清次郎はいよいよお守りをぐっと握り締め、ごくりと息を飲み込むと。
「今参る」
と、出来るだけ低く唸らせた声で、震える足を戸口へと踏み出した。心の臓が口から出てきそうであった。いや心の臓どころか、内腑がすべてひっくり返ってはみ出てきそうである。
清次郎はそれらを納めるように息を呑み、覚悟を決め思い切りよく戸を開け放った。