その三
しかし、しばらくすると戸を叩く音が止んだ。
清次郎はふーっと息を吐き、既に玉の様に浮かび上がっていた額の汗を拭った。
そうして落ち着いた心持ちで瞼を持ち上げると、布団の横であの花魁が座って自分を覗きこんでいた。
脇に張り出した鬢からはらりと落ちた髪の束が、瞼の直ぐ上で揺れる。
「主様、何故入れてくれぬ。お恨み申しますぞ」
と花魁が言うが早いか、清次郎は床を飛び跳ねる様に抜けだし、足をもつれさせ命からがら戸口へ向かい、そのまま戸を蹴破って外へと出た。
あまりの音に、一つ屋根の下の長屋の住人も夜中と言えど目を覚まし外に出てきた。
何事かと音のするほうを見てみれば、そこには寝間着のままの清次郎が、倒れた戸の上に四つん這いで放心している。
顔面を半紙のように蒼白にし、寒空の下だと言うのにだらだらと冷や汗をかくさまは異様で、皆が口々に
「大丈夫かお侍様」
と声をかけた。
しかし動悸のせいで口の聞けぬ清次郎は、やっとのことでうなづくと何度か呼吸を繰り返して漸く
「寝ぼけてしまった、申し訳ない」
とおぼつかない声で謝り倒した。
長屋の者はみな呆れ返った顔で「心配させやがって」「驚かせるな」等と文句を口にしながらぞろぞろと戻って行った。
呼吸が落ち着いたところで、動悸はいまだに激しく胸に響いて、手足にもさっぱり力が入らない。
っそれでもおそるおそる部屋を振り返り見やると、そこにはもう何もおらず、がらんとした部屋の中に、ただ月光が差し込んでいるだけだった。
ほうっと息を吐き、肩を落とすやいなや、がらりと向かいの長屋の戸が開く。
清次郎が引き付けを起こしたような声を上げ、驚いて肩をすくめると、喜市は一瞬呆気にとられ、戸板の上に乗ったままの清次郎を見て、すぐにげらげらと笑い声を上げた。
「清次郎殿、柔術の練習であれば戸板相手に一人でせずともお相手いたすぞ」
茶化すようなその物言いに、思わず清次郎は声を荒げる。
今さっきの出来事に出くわせば、誰だって尋常ではなくなるはずだ。
「笑い事ではござらん」
毛羽立った清次郎の声にも、喜市はお構いなしのようにけらけらと笑うと、清次郎の前にしゃがみこんで、掻い巻きについた泥を掃ってやった。
「で、朝といい今といい、どうしちまったんだい」
清次郎は一瞬口ごもったが、とうとう藁にも縋る思いで打ち明けた。
茶化すこの男が信じるかどうかよりも吐き出すことで安心をしたかったのだ。
「化け物が来るのだ。俺を恨んでいるらしいが心当たりが無いのだよ」
話があまりに突拍子も無いので、からかわれているのかと喜一は首をひねったが、もう口に出すことすら恐ろしいという様子で神妙に話す清次郎を見て、確かに尋常でないと感じた。
何より、からかわれても、からかうことができぬほどの真面目な男である。
「昨日も来た、今日も来た。きっと明日も来る。」
「へえ、どんな化け物だい」
今度は口の端を上げることすらせずに、じっと問いかける喜市に、漸く清次郎の鼓動も落ち着きを取り戻し始めた。
「花魁の幽霊だ」