そのニ
周りを飛び交う声でようやく正気を取り戻した時、周りは薄明るく朝を迎えようとしていた頃だった。
戸の外に半身を出して伸びて寝ていた清次郎を、同じ長屋の住人が心配そうに覗き込んでいるのがうっすらと開けた瞼の向こうに見えた。
これから仕事に行くのだろう、法被姿で髷をきっちりと結った大工の留造が「まかせろ」と清次郎の肩に回す様に腕を差し込んだときになって、漸く清次郎は自分の置かれている状況を飲み込んで飛び起き、ありったけの冷静さを装って
「おはよう」
と言ってのけた。
突然のことに留造が飛び退いてしりもちをつくと、向かいに住む喜市がからからと笑いながらそれを起こしてやった。
「清次郎殿は随分な寝相だねぇ、夢の中はさぞかし大立ち回りされたんであろう。どれ、何人斬った」
からかうように言うと、喜市はまた口の中でかみ殺せぬ笑いを漏らしている。
「なんでえ、夢かい。だらしねえなあお侍様」
留造が尻についた砂を払いながら笑うとすかさず喜市が
「留さんだってかかあの夢見りゃこうなるじゃねえか」
と留造に言葉を刺す。
おかげで恥ずかしさに赤くなる清次郎よりも、むくれる留造へと周りの者の目はむいてくれた。
昨日のことをどう言ったらいいのかわからぬ清次郎にとっては、ありがたいことだった。
説明できぬこともそうであったが、説明できたところで信じてもらえぬかも知れぬ。
長屋の住人たちは留造を散々からかって、ひとしきり笑い転げると、すぐに朝の仕事へと散って行った。
「で、どうしたんでえ」
皆が立ち去るのを待ちかねたように、喜市は腕を組んで、袖に手を突っ込んでしゃがみ込み、まだ呆然としたままの清次郎に話しかけた。
この喜市という男は役者の様な優面の色男で、切れ長の目に柔らかな笑みをたたえ、いつもきれいに整えられた髷はまさしく鯔背だった。
年頃が同じ清次郎に、侍と気負うこと無く気軽に話かけるが、いつもきちんと
「清次郎殿」
と呼ぶ、洒落ていながらも筋の通った男であった。
そんな多少気心の知れた喜市に問われ思わず
「昨日花魁のお化けがうちに来て」
と口走りそうになったが、冷静に考えればやはりばかげた夢に思えて来て
「なんでもない。」
と口をつぐむだけだった。
喜市は小首をかしげると微笑み
「なら良いが、月を見て寝るにはちと寒い季節だからね、気をつけとくんな」
と、よいしょと漏らして膝に手を着き立ち上がると、立ち去った。
目が冴えていくごとに、段々と昨日自分が見たものから真実味が失せていく。
あまりに現ではありえぬことで、きっと悪い夢を見たのだ。
そうでも思わねば合点のいかぬ。
言い聞かせるように清次郎は頭を振ったが、その日はぱっかりと晴れた陽の下にいても、夜中のあの花魁の手の冷たさがありありと思い出されるばかりだった。
そしてその夜、なぜか妙に目がさえ寝付けなかった清次郎は、床に入ると僅かに漂い始める不気味さを誤魔化すように、ただ天井の木目を数えていた。
しかし、そこに行ってはならぬと思えば思うほど、意識は昨日の夜の記憶へと導かれる。
花魁のあの手の感触。
あの声。
すると段々と木目さえもが人の顔の様に見え、途中で数えるのをやめた。
しかしながらそんな自分の肝っ玉の小ささにほとほと呆れる程に、益々目は冴えるばかりだった。
するとふいに、とんとん、とまたも戸を叩く音が響く。
清次郎は全身をびくりと震わせた。
夢ではなかったのだと思うよりも早く、足の先から素早くざわざわと鳥肌がのぼってきた。
それなのに汗をかきながらも目をぐっとつむって、ただひたすらに経を唱えた。
昨日よりもはっきりとした頭が、得体の知れぬ気配をひしひしと感じている。
とんとん、という音は清次郎の経など全くお構いなしのようで、規則正しく戸口から聞こえて来た。