その十一
坊主に引き止められ、話の相手をした清次郎が帰ったのは、小紫の訪れる約束の半刻ほど前であった。
ぴゅうぴゅうと長屋の間を吹きぬける中、喜市の家からはもう朧に暖かそうな明かりが漏れていて、清次郎は戸の前で声をかけようと立ち止まったが、どうやら来客中らしく中から幾人かの話し声が聞こえたので、珍しいものだなあと気にはかかったがとり合えずとそのまま自分の家へと戻った。
坊主から貰った土産の袋を狭く底冷えのする土間にどさりと置くと、畳に腰を下ろして行燈に火を入れた。
猪口の蝋梅は、淡い行灯の明かりにぼうっと柔らかく浮かび上がり、どこからか入る隙間風に灯りがゆらぐ度にまるで今咲き出でたような凛とした美しさを持っていた。
思わず見とれた。ふと、濃紫の姿が浮かんだことが何だかこそばゆくて、思わず頭((かぶり))を振って打ち消す。
「よう戻りなんした」
ふいに背後から掛けられた声は、今さっき自分の中から追い出したその女のものだった。
振り向けば、なんだやはりそうだ、と思うほどに美しく淡い光の中に浮かび上がる姿は、蝋梅に引けをとらぬものである。
「予定より早いお出ましだな。」
知れるはずがないとわかっていても、自分が至った考えがむずがゆく心を乱すので、清次郎は短くそういうと視線をすぐさま蝋梅へと逃がしてしまった。
「心がどうにも騒いで待ちきれず、ついつい出てしてしまいんした」
知ってかしらずか、濃紫は少し進み出ると清次郎が視線を向ける蝋梅の直ぐ横にゆったりと腰を下ろした。
盗み見るように蝋梅から濃紫に視線を流せば、その顔には今までにないはにかむ様な笑みが浮かんでいた。
まるで、春を待ちわびるような、季節を慈しむようなその深い目の穏やかさに、清次郎は恨みの情をついぞ見つけることはできなかった。
「万事は喜市殿が承知しているはずだ。今しばらくここで待たれよ。心配ならいらない。」
濃紫は弱くうなずくと、先ほどまで清次郎がしていたのと同じように、傍らの蝋梅を見つめた。
しばらく、話すこともない二人の間を吹き込む隙間風ばかりが音を立てる。
流れる雲が月をかすめるたびに薄暗くなる部屋に、濃紫は消え入りそうに儚げだった。
「清次郎殿。」
空気をくもの糸で縫うように静かにつむがれた言葉が漏れる。
「わっちは、確かに、主人を恨んではありんすが、わっちは主人を愛しておりんした。
それなのに、何故清次郎殿と間違えたのかずっと考えておりんした」
そう言うと小紫は蝋梅の花を眺め微笑んだ。
「最初は、ようく笑うところが、似ているのだと。でも、そうではありんせん。わっちは知りんせん。」
清次郎は、そう話す濃紫の目が悲しくも温かく緩むのを見て、ほのかに寂しさを感じる自分に気づいていた。
「何をだ。」
「こんなに恨んでいる人なのに、わっちはあの人の怒った顔も、冷たい顔も覚えておりんせん。
わっちはあの人が、暖かい笑顔と優しい目をしていたことしか覚えておりんせん。」
そう言って、ふと目を瞑った濃紫は記憶の手綱を引き寄せているのだろう。
口の端を微かに上げると、その双眸からはまっすぐと涙が伝い落ちた。
火鉢を置いてもなお部屋を凍て付かせる冬の空気に変わりは無かったが、濃紫の柔らかな笑顔は、まるで雪解けの陽のようであった。
「政之助殿は、濃紫殿の前ではいつもそのような穏やかな顔しか、しなかったのだな。」
誰に言うでもなく呟いた言葉に、濃紫は小さく頷いて蝋のような指で自らのなみだを拭った。
「だからもう、良い。愛した男が、いつも優しい眼差しを注いでくれる事の、何と尊いことか。わっちは十二分に、暖かいものをもらいんした。それだけはまことのことじゃ。
それで、よい。だから、あの方にはどうぞ幸せになっておくれなんしと、伝えて欲しいのじゃ。」
濃紫はそういうと「しかし、成仏というのはどうするものかなあ」とおどけて笑った。
その時、突然戸口から声がした。
「もし、清次郎殿、失礼するぞ」
喜市の声だった。
お付き合いいただきました方がいらっしゃいましたら、誠にありがとうございます。
次話、最終話になります。