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その十

「何で濃紫があんたを旦那ではないと気づかなかったか分かったよ」

何を今更、という感じで清次郎は首をかしげていたが、喜市には、あの時引っかかっていた不思議な感覚のわけが分かっていた。

微笑んで花魁を見送る清次郎の目に、そのきっかけがあったのだ。

「濃紫は恨みと、ほんの少しの曖昧な記憶しか持っていないようだが、あんたは若旦那にちくと似てやがんだな。」

益々不思議そうな顔をした中に少しの赤みを浮かべながらも清次郎は「そうかな」と頬をさすっている。

喜市はそれを僅かに苦々しく笑ってみせると、蝋梅の入った猪口をひょいと持ち上げた。

「俺はあんたが同じような顔して子供らと遊んでんのを見たよ。隣の吉婆の愚痴をにこにこ聞いてるのもあんたくらいだし、どん詰まりに生えた椿に添え木したのもあんただろ。

まあ、面相の作りの良し悪しは別としてな。

つまりは濃紫がどんな若旦那をみてたかってことだな。」


隙間からひゅうと吹き込む冷たい風が、蝋梅の香りを喜市の鼻先へと舞い上げる。

「清次郎殿、どうだろう。いっそご本人に会ってみては。」

くん、と鼻をひくつかせながら喜市は微笑んだ。


翌日の昼、二人は両国の近くの茶屋で向き合っていた。

清次郎はいつもと変わらぬ様子であるが、喜市の方は風体が違っている。

座した脇に置いた大きな木箱とのぼりを背負えば、すっかり行商の体であった。

心配そうに眉を下げ

「バレやしないかね。」

と気弱に清次郎が呟くと喜市は笑いながら

「なに、ここに来るまで、あんたより商売の数はこなしてらあ。

化粧水((けわいみず))なんざ売った事は無いが、伺うにはこれが一番いいだろうよ。

それより清次郎殿は坊主のところに行って読経をやめてもらってくれ」

というと加えていた煙管を煙草盆にこんと打ち付けて灰を落とした。

そうして、よいしょと木箱を背負うと

「また夜に、長屋で」

と、件の材木問屋へと出かけていった。


残された清次郎は、ため息を一つつくと、茶をすすった。

一体何故喜市は「もう読経は必要ないかも知れない」といったのだろう。

考えてみてもわからずに、ただ夜が待ち遠しくなるばかりで、どうしようもない焦りをぶつけるように残った茶を一気に飲み干すと、茶屋を後にし足早に本所へと向かった。


一方材木問屋の前で、喜市は木箱をしょいなおす。

「ごめんくださいまし。ご主人はいらっしゃいましょうか。」

暖簾をちらりと上げて顔を覗かせれば、中にいた四十半ばだろうか、年季の入った番頭の顔が見える。

目が合ってふと笑えば、訝しげな顔で返す番頭に暗黙のうちに追い返そうとされているのが知れた。

「何ぞ御用でしょうか」

と、直ぐ後ろから例の若旦那が顔を出した。

梅幸茶の着物をしなやかに身にまとい、近くで見ると益々凛々しくも優しげな、良い男であった。

番頭のしかめっ面を横に置くと、一層その穏やかさが引き立つ。


いきなり現れた張本人に一瞬息を飲んだが、喜市はにこりと笑うと被りの手ぬぐいを取り言った。

「こちらに綺麗な奥方がいらっしゃると聞きましてね。椿の朝露を集めた化粧水((けわいみず))にございますが、いかがでしょう。

ご婦人方には大変評判が良いものにございます。一つ、奥方にいかがと。」


番頭は、はっとした顔を見せ、若旦那を振り返った。

受け止めるようにうなずいた若旦那は、悲しそうに顔を緩めて笑い

「そうですね、一つ頂きましょうか。」

と、番頭の横に腰を下ろした。


番頭に顎先で招かれるままに奥に入ると喜市も木箱を下ろしてしゃがみ、いよいよの言葉を息を一つ飲み込んでから言った。

「奥方は今いらっしゃいますか。実際に見ていただいては」

心のうちに緊張を走らせながら返答を待てば、若旦那はためらう様子一つ見せずに言葉を紡ぎだす。

「そうできたら、いいんですがねえ」

そう言った後の若旦那は先ほどよりも輪をかけて寂しそうで、痛々しそうに見つめる番頭の顔からも、ここの奥方が如何に大事にされていたかという空気がひしひしと感じて取れた。

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