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その一

夜中、戸を叩く音が静まり返った路地に響く。

しかし長屋の木戸はとうに閉まっているし、月の頃合から見て丑の刻であるから、このような時間に訪ねて来る人のいるはずもない。


神田の棟割長屋に住む浪人の清次郎は不審に思いながら布団の上で半身を起こして、腰高障子をしげしげと眺めた。

すると、煌々と照る月明かりのおかげでぼんやりと明るく浮かび上がる障子に、うっすらとにじむような影が揺らめき、それが段々と近づいているからなのか、人の形を成して濃くなっていく。


影絵遊びのようなその様を清次郎は、寝ぼけ眼をやっとのことで凝らしながらみていた。

淡く、濃くを繰り返して浮かび上がる影は、段々と眠りから頭が冴えていくにつれ不気味なものに見え始める。


ちらりと目の端にかけてあった刀が目に入った時、再び、とんとん、と戸が叩かれた。

清次郎は一瞬びくりと体を跳ねさせた後、できるだけ低く、凄みをもった声で

「誰だ」

と問い掛けた。

「このような夜中に、何用か」

声を出して応答を待ってみれば、妙なこわばりから開放されたように心臓が早まるのが感じて取れ、内腑に冷や水が走るような妙な胸騒ぎが駆けていく。


「開けておくんなんし」

戸の向こうから聞こえてきたのは、妙にか細い声だった。

いよいよ不気味である。

こんな夜分に女が一人で歩くはずもなく、もしあるとするならばよほどの事情だ。

もとより夜に歩くなど危険ではあるが、世の中はこの所ずいぶんと荒れていて、この江戸も例外ではない。

夜中に切り合いがおき、朝には路地に指やら耳やらが落ちていることもあったし、こんな時世に便乗して辻斬りや強盗をはたらく者も少なくなかった。


そんな中を、果たして女が一人で歩くのだろうか。


「開けておくれなんし」

またも聞こえてきたこの口調に、清次郎ははっとした。

もしやこのくせのある喋り口調は、恐らく廓の女郎であるまいかと感じたのだ。

しかし女郎だったとして、もしそれが足抜けをして依る所を頼っているなら、やっかいなことである。

夜中に女郎がうろつくとは、多分にそういうこともありうるのだ。


ここで清次郎が戸を開け、廓に突き出せば、女郎はおそらくひどい折檻を受けるだろう。

だからと言って助ければ、自分自身ただでは済むまい。

清次郎が眉間にしわを寄せ考えこんでいると

「開けておくれなんし」

と再び声がした。


回らぬ頭で精一杯考えたが、もう年の瀬も近付いている寒々とした夜中に、女を放って置くのも可哀相な気がした。

もし相手が足抜けの女郎としても、きちんと事情を聞かぬうちは何用も対処が取れぬ。

しかも、暗いうちに遠くまで逃げるわけでもなく、わざわざこんな長屋を選んで尋ねてくるくらいだ。

人違いをしてたずねてきているのかも知れぬとも思えた清次郎は

「待っていなさい」

と告げると、床を出て戸に手を掛け引いた。


凍った地面を跳ね返る月明かりのまぶしさに、目を瞬かせながら見ると、そこにはうつむき両の手をだらりと垂らした女が立っていた。


髪を横兵庫に結い、そこに挿された櫛は月の灯りにぺかぺかと光っている。

死に物狂いに逃げたせいで乱れたのであろう着物は金糸や銀糸が入り乱れ、まるで玉虫のように鮮やかな色をしていて、女がただの端女郎ではないことが一目で伺えた。


「一体こんな夜更けにどうなされた」

聞いたところで女はうなだれたまま何も答えない。ただ冷たい空気が土間に入り込むばかりである。

「足抜けでもしたのか?」

再び問うと、女はぼそぼそと何かをつぶやいていたが、霞のようなその声は清次郎には聞き取れなかった。

しかしよくよく見るほどにやはり奇妙である。


こんなに上等そうな花魁ならば、見世だって気づくに決まっている。

しかもこの様に何の変装もしていなければ、大門の見張りがすぐさま気付くであろうし、何よりこの格好では走って逃げられもしまい。


そう考えつつ、清次郎はその見事な装いの遊女を、ぐるりとその頭の先から爪先までみた。

正しく言うならば、見たはずであった。

なぜなら遊女の脛から爪先にかけてはうっすらと透けていて、向こうの地べたがすっかり見えていたし、遊女の立つそこには煌煌と光る月明りを遮る筈の影すらなかったのだ。


ぐるりと見ていた目が、そのままぐるぐると回り続けるような感覚が清次郎を襲う。

血の引く音がしたようだった。

正気を失いかけて呆然としていると、何か冷たいものがしっとりと頬を包む。

はっと顔を起こすと、それは到底人の体の温かさとは思えぬ、氷のような遊女の手であったが。

清次郎は飲み込むようにした声にならぬ悲鳴を引きつらせてへたり込んだ。

幽霊など信じてはいなかったが、この時ばかりは頭の中で経を必死に唱えていた。

しかしそんなものはものともせず、遊女は清次郎にすがりつくように寄り添い

「主が恨めしい」

と耳元で呟いた。


恐ろしく響く、じっとりと重い声に生気を吸い取られでもしたかのように、清次郎はそのまま白目を剥いて気を失い、倒れこんでしまった。

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