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一人のカフェと一人の贅沢

桜は、数日間引きずっていた違和感を振り払おうと、仕事終わりにそのカフェへと足を向けた。ずっと行きたかった場所。尚樹と一緒に来るつもりだったカフェ。彼が先に友達と行ってしまったことに、胸の奥でチクチクと痛む感情が残っていた。仕事の疲れと、尚樹の言葉が重なり、今日はどうしても自分だけでそのカフェに行きたくなったのだ。


「これくらいのことで…」と自分に言い聞かせながら、街の喧騒を避けるようにしてカフェの扉を開けた。


店内に入ると、確かに評判通りの落ち着いた雰囲気が広がっていた。木のぬくもりが感じられるテーブル、柔らかな照明、そして静かに流れる音楽。カウンターにはおしゃれなドリンクが並び、店員も笑顔で迎えてくれる。お洒落なインテリアと、その温かさが心に響いて、少しだけ疲れが和らいだ気がした。


けれど、それでも完全に気持ちは晴れなかった。尚樹が送ってきたメールが、頭の中を何度も巡る。「友達と行ってきた」「美味しかった」「もう行く必要はないかも」…彼の何気ない一言が、桜にとっては重く、ずしんと響いていた。


「なんで、私が言う前に…」桜は席に座りながら、ため息をつく。これまで尚樹に対して、不満を感じることは少なかった。だけど、この出来事がきっかけで、彼に対して少しずつ蓄積していたモヤモヤが顔を出し始めていた。忙しい仕事に追われる日々、尚樹とのやり取りで感じるささいなズレ。それが、彼の「友達と先に行った」という事実で爆発しそうになっていた。


オーダーしたカフェラテが目の前に運ばれてきた。ふわふわのミルクフォームに、綺麗に描かれたラテアートが目に入る。美しい。見た目に心癒されるはずだったのに、その美しさにさえどこか冷めた気持ちを抱いている自分に気付く。


「一緒に来たかったんだよな、ここに…」


桜は小さくため息をつきながら、カップを手に取って一口飲んだ。ラテは確かに美味しかった。温かさが体に染み込んでいくのがわかる。しかし、それでも心の中の冷たさは消えなかった。


「なんで私はこんなに気にしてるんだろう?」自分自身に問いかけてみる。でも、答えは見つからなかった。ただ、尚樹に対する思いと、自分が置いていかれたような感覚に囚われていた。彼が友達と楽しんだカフェ。自分はその後で一人ここに来ているという事実が、余計に寂しさを感じさせたのかもしれない。


桜はカップを置き、外の風景を眺めた。仕事の疲れも、尚樹へのイライラも一緒に抱え込んで、今はただここに座っている自分がいた。店の静けさが心に少しだけしみ込んで、少しだけ癒されている気もしたけれど、完全に気持ちを晴らすにはまだ時間が必要だった。


「もう少しだけ、ここで休もう」


そう心に決めて、桜はもう一口、カフェラテを口に運んだ。


周囲の笑い声や楽しそうな会話が耳に入るたびに、「尚樹と来ていたら、こんなふうに笑い合えたのかな…」と思う。


そんなことを考えてしまう自分が少し情けなく感じる。それでも、注文したラテアートの可愛さや、ふわっとしたパンケーキの甘さが、少しずつその心の重みを和らげてくれた。何も話さず、ただ自分だけの時間に没頭できるのが、思っていた以上に心地よいと気づいた瞬間があった。


「意外と、悪くないかも…」


ふと、そう思った。最初は尚樹との出来事に傷つき、心の整理をつけるために来たカフェだったが、今は違う。自分だけの空間、自分だけの時間を持てることが、少しだけ特別な感覚を与えてくれていた。


周りを見渡しても、誰も桜のことを気にしている様子はなかった。むしろ、一人で過ごしている人たちも何人かいることに気づく。自分が感じていた孤独感は、自分自身が作り出したものだったのかもしれない。店内の落ち着いた雰囲気に身を委ねるうちに、桜は徐々にその場所に溶け込んでいった。


数週間が経ち、桜はまたあのカフェに一人で足を運んでいた。今回は初めての時よりも少しだけ心が軽い。尚樹のことは気にしない、とまでは言えないが、少しずつ一人でいる時間を楽しめるようになっていた。カフェの窓際の席に座り、周りを見回すと、1人で過ごしている人も意外に多いことに気づく。


「あの人も一人か…」


テーブルでパソコンを広げている人や、本を読みながら静かに過ごしている女性。それぞれが自分の時間を持っていることに、少し安心感を覚える。以前は1人で食事をすることに抵抗があった桜だが、今ではその自由さが逆に魅力的に感じられるようになってきていた。


それから桜は、1人で食事をすることに対する興味がどんどん深まっていった。仕事の合間にふと訪れるカフェや、休日にふらっと立ち寄るレストラン。最初は「仕方なく」だった食事も、今では「自分を楽しませる時間」へと変わっていった。特に疲れた日の仕事帰り、賑やかな家路に向かう人々をよそに、自分だけのペースで食事を楽しむ時間は、心をリセットするための大切なひとときになっていた。


ある日、仕事が終わった桜は、自然と新しく見つけた居酒屋「赤提灯ひとや」に向かっていた。赤い提灯が揺れるその店は、以前から気になっていた場所だが、尚樹と行こうと思っていた場所でもあった。しかし、今では「1人で行ってみよう」と思えるようになっていた。


店の暖簾をくぐり、カウンター席に座る。周りはサラリーマンやカップル、友人同士で賑わっている。最初はその賑わいに飲み込まれるような気がして、少し居心地の悪さを感じたが、料理が運ばれてくると、その気持ちも薄れていった。


「これ、美味しい…」


焼き鳥の香ばしさと、冷えたビールの心地よさが、桜の疲れた心をじんわりと癒していく。他の人の目を気にすることもなく、ただ自分のペースで料理を味わう。周りが賑やかに笑い合っている中、桜は自分だけの静かな時間を楽しんでいた。


「1人で食事って、こんなに楽しいんだ…」


その日、桜は気づいた。誰かと一緒に過ごすことももちろん楽しいが、1人で自由に自分の時間を過ごすことも、同じくらい、いや、もしかしたらそれ以上に特別な時間かもしれないということを。自分のペースで食事をし、飲み、周りの空気を感じる。それが心のリフレッシュにつながることを知った。


桜はそれ以来、様々な場所で1人の時間を楽しむようになった。カフェやレストラン、居酒屋「赤提灯ひとや」だけでなく、映画館や美術館に足を運ぶことも増えた。それまでは「誰かと一緒じゃないと」と感じていた場所も、今では「1人で行ってみたい」と思うようになった。


その変化は、桜にとって大きな進歩だった。1人の時間が増えることで、自分自身と向き合うことができ、周りに左右されずに自分のペースで物事を進める力もついてきた。そして、何よりも、1人で過ごすことに対する不安や孤独感が、少しずつ薄れていった。


「また、1人でどこかに行ってみよう」


桜は次の食事の場所を考えるのが楽しみになっていた。どこに行っても、自分が主役で、自分のために時間を使う。その贅沢さに、すっかり魅了されていた。

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