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刃と和の刻

街はクリスマスの雰囲気で賑わい、赤提灯ひとやも華やかな飾り付けで温かい空気に包まれていた。桜は蓮と並んで、楽しげにリースをかけたり、色とりどりのオーナメントをツリーに飾ったりして、店内をクリスマス一色に染めていった。


「本当に、いい感じになってきたね!」と、飾り付けの手を止めて感嘆(かんたん)する桜に、蓮は笑顔で「桜ちゃんが手伝ってくれてるからだよ」と答えた。その言葉に少し照れながらも、桜は「クリスマスって、なんだか特別な感じがするよね」と微笑み返した。


飾りを整えている最中、蓮が桜の肩に手を添えて「これもお願いしていい?」と渡してきたオーナメントに、桜は少しだけドキッとした。彼の指が一瞬自分の指に触れ、その温もりが伝わると、心臓が高鳴るのを感じた。


桜は蓮への想いが、ただの「好き」という感情以上のものになっていると感じ、ふと視線をそらす。蓮もその視線に気づいたのか、少し照れたように「桜ちゃんと一緒に飾り付けができて、楽しいよ」と呟く。その控えめな言葉に、桜の心はじんわりと温かくなっていくのだった。


クリスマスの夜、赤提灯ひとやには温かな光が満ち、店内にはホリデーシーズンを祝うお客さんや従業員たちの笑顔があふれていた。蓮が腕をふるって作った特別メニューに加え、深雪と隼人も自家製の料理を一品ずつ持ち寄り、テーブルの上には色とりどりのごちそうが並べられている。色鮮やかなクリスマスの飾りが華やかに輝く中、みんなの楽しげな笑い声が響いていた。


厨房から蓮がみんなのためにホットチョコレートを数杯用意し、まず桜に手渡して「一息ついて。今日は特別だからね」と微笑むと、桜も心からの笑顔で「ありがとう、蓮くん。すごく美味しい」と答えた。その温かさに包まれながら、桜はふと、尚樹への思いが少しずつ薄れていっているのを感じた。


みんなで「メリークリスマス!」と声を揃えて乾杯し、店内はさらに活気づく。深雪と隼人が仲良く談笑し、常連客も笑顔で周りと会話を楽しんでいる中、桜と蓮は自然に目が合い、二人だけの空間が流れるように感じられた。


パーティーが終わり、蓮が「桜ちゃん、遅いから送るよ」と優しく申し出た。桜は少し迷ったものの、彼の温もりを感じたくて「じゃあ、お願いしようかな」と頷く。二人で並んで歩く夜道は静かで、雪がしんしんと降り積もっていく中、クリスマスの余韻(よいん)が心を包み込んでいた。


桜が立ち止まり、降り注ぐ雪を見上げると、蓮も隣で一緒に空を見つめた。「どうしたの?」と柔らかな声で尋ねる彼に、桜は少し照れながらも「なんでもないよ」と微笑む。その瞬間、彼に寄り添いたいという気持ちが自然と湧き上がり、胸が高鳴る。


次の瞬間、桜が足元の雪でバランスを崩し、ふらっとよろける。とっさに蓮が彼女の腕を掴み、二人は思わず近い距離で見つめ合う形になった。顔が急に近づいたことで、桜は心臓が早鐘(はやがね)を打つように高鳴り、思わず目を閉じる。唇が触れそうな瞬間、蓮ははっと我に返ったかのように顔を逸らし、雪を払う仕草をしながら小さく息を吐いた。


「…ごめん、ちょっと熱くなりすぎたみたいで」と苦笑する蓮の姿に、桜は驚きながらも、彼が感じている熱が自分と同じものだと気づき、少し嬉しさを感じた。


「大丈夫?ちょっとおでこを冷やそうか?」と言いながら、桜が彼の額に手を添えると、蓮はその温もりに耐えきれなくなったかのように両手で顔を覆い「桜ちゃん、僕、もう無理かも」と絞り出すように呟く。


その瞬間、桜の頬は赤くなり、胸が温かさでいっぱいになるのを感じた。この雪の舞う夜、桜は蓮と過ごす時間が自分にとってかけがえのないものだと確信するように思えた。


クリスマスが過ぎ、桜はひとり静かに赤提灯ひとやで杯を傾けていた。優しい灯りに包まれた静かな空間が心地よく、ほっとした表情で蓮と向き合う。そんな桜に、蓮がカウンター越しに話しかけた。


「今年もおせちを作るんだ。桜ちゃんは何が好き?」


桜は少し驚いたような表情で蓮を見つめ、「私、おせちって食べたことがなくて…家庭の行事があまりなくてさ」と小さな声で答えた。蓮は一瞬目を丸くしたが、すぐに穏やかに微笑んで「じゃあ、桜ちゃん専用のおせちを作ろうかな」と温かな言葉をかける。その優しさに触れて、桜の心にほのかな温もりが広がった。


「楽しみにしてるね」と冗談ぽく微笑み返すと、蓮も「期待してて」と優しく頷き、二人の間にほのぼのとした空気が流れた。


それから数日後、職場での忙しさがピークを迎えた。年末が迫ると、桜の職場もますます忙しくなり、毎日遅くまで残業が続いていた。ある晩、残業を終えた桜は、自分の大型ノートパソコンを持ってオフィスを出る。パソコンの重さが腕にずっしりと感じられ、仕事が終わった安心感とともに、少し疲れた体に負担を感じていた。


その日も、同じように遅くまで働いていた舞香と、偶然にもオフィスの出口で会う。


「桜、最近どう?何か変わったことはない?」と舞香が聞いてきた。


「大丈夫、何もないよ…ただ、パソコンが重くて」と桜は軽く笑いながら、肩から掛けたノートパソコンがずり落ちそうになり、それを手で支えた。


「本当に重そうだね」と舞香が冗談交じりに言うと、桜は「まあ、ここまで大きいのを選んだ自分が悪いんだけど」と言って、重いパソコンを少し持ち上げて見せた。


二人はしばらく歩きながら、何気ない会話を続けたが、突然、桜は歩みを止めた。


「…ねぇ、舞香。なんだかさっきから誰かに付けられている気がするんだけど…」


舞香も立ち止まり、周囲を見回す。「やっぱり?私もそんな気がしてた。勘違いじゃないみたいね」


二人は顔を見合わせ、次の瞬間、急いで歩き始めた。すると後ろの足音もそれに合わせて加速し、やがて小走りになった。桜と舞香の心臓が一気に跳ね上がる。


「警察に連絡を…」舞香は慌てて携帯を取り出したが、その瞬間、手から滑り落ちてしまった。「あ…!」


舞香の携帯を拾い上げたのは――なんと、尚樹だった。


「…尚樹!?」桜は驚愕(きょうがく)し、冷や汗が背筋を伝った。


「まさか…もう大丈夫だって思っていたのに」


尚樹の顔は薄暗い街灯に照らされ、その笑みが不気味に浮かび上がっていた。桜と舞香は思わず後ずさるが、尚樹はゆっくりと携帯を握りしめたまま二人に近づいてきた。


「こんな夜遅くに、二人で何してるんだ?」尚樹の声はどこか含みを持っていて、桜の胸にじわりと恐怖が広がった。なんだか、今はまるで知らない人のように思えた。


「どうしてここに…?」桜が問いかけると、尚樹は薄く笑みを浮かべ、「あの旅館での話、まだ終わってないだろ?」と言った。その言葉に背筋が凍りついた。


舞香が一歩前に出て、毅然(きぜん)とした表情で尚樹を睨む。「…まだ言ってるの?あなた、いいかげんにしなさいよ」


尚樹は舞香の視線を受けながらも、少しも(ひる)むことなく言った。「なんだよ舞香。また殴られたいのか?」


「…!?」舞香が鋭く睨み返す、尚樹はまるで無反応だった。その視線は再び桜に戻り、じっと見つめてくる。


「桜、俺の気持ちを分かってくれるよな?」その言葉に、桜は一瞬言葉を失った。自分に向けられる尚樹の執着が、重く心にのしかかるようだった。


桜:「…尚樹、お願いだから、もうやめて」と、震える声で訴えた。


尚樹は顔を曇らせ、手に持っていた携帯をぎゅっと握りしめる。「どうして?桜が責任を…千紗と別れることになった責任を取ってくれたら、それでいいんだ」


桜は尚樹に問いかける。「ねぇ…どうして千紗と別れたのが私のせいになるの?」その問いに、尚樹は一瞬言葉に詰まるが、責任を押し付ける姿勢は変えない。


尚樹:「だって、桜が俺に別れを切り出したから、どうしていいか分からなくて…千紗に話したんだ。だけど、それを知った千紗が怒ってさ、結局こうなっちゃったんだ」


桜はその言葉に唖然(あぜん)とし、彼が未だに自分に依存し、自分の行動が原因で他人を巻き込んでいることに気付いた。尚樹は、桜への未練と千紗への依存という矛盾した感情を整理しきれず、どちらの女性にもすがろうとしていた。


千紗もまた、尚樹が桜に未練を抱えていることを感じ、彼が桜の話題を持ち出すこと自体に嫉妬を抱き、冷たく接するようになっていった。尚樹は桜との別れを千紗に相談したことで、千紗に「まだ桜を忘れられていない」と思われ、裏切られたと感じさせてしまったのだ。


尚樹の行動は、自分の劣等感や心の依存がもたらした結果であり、桜を手放すことで自身が無力で、彼女にふさわしくない存在だと感じることを恐れていた。そのため彼は、執着から抜け出せず、桜と千紗の両方に依存するという矛盾に陥っているように見えた。


結局、千紗は尚樹が自分に相談したことに「桜への未練」を見てしまい、怒りを募らせたが、尚樹はそれを「桜のせい」として(とら)えていた。


桜は尚樹の答えにしばらく言葉が出なかった。彼が自分に責任を押しつけている姿に、呆れと怒りが混じると同時に、どこかで哀れみを感じる自分がいることに気づく。尚樹が彼女に向けていたのは、本当の愛情ではなく、執着や依存に過ぎなかったと実感したのだ。


桜:「尚樹、あなたが本当に求めているのは、私じゃないんじゃない?もし私への気持ちがあるなら、もっと誠実に向き合っていたんじゃない?でも、今のあなたはただ誰かにすがって、空いた心を埋めたいだけにしか見えない。人を愛するって、自分の弱さや寂しさをぶつけることじゃなくて、相手を大事にすること、相手の幸せを考えることだよ。私にはもう、あなたがただの依存で私に向かっているようにしか感じられない…」


桜の静かな問いかけには、尚樹に対する哀れみと決意が宿っていた。


尚樹はその言葉に動揺し、苦しげに目を伏せ「そんなこと言わないでくれよ…桜がいなくなったら、俺はどうしたらいいんだ?今さら『ただの依存だ』なんて、そんな冷たい言い方されても…お前には俺がどれだけ…どれだけ寂しかったか、わかるか?千紗にだって本気になれなかったのは、俺がずっと桜のことを忘れられなかったからだ。桜が俺を見捨てるなんて、そんなのひどいよ…俺はただ、誰かがそばにいてくれないと…俺は…」


桜は必死に目をそらそうとしたが、尚樹の視線があまりに強烈で、心が締め付けられるようだった。そのとき、ふいに後ろから聞き慣れた声が響いた。


「桜ちゃん、舞香さん、大丈夫?」


その声に二人が振り返ると、そこには蓮が立っていた。静かだが鋭い眼差しで尚樹を見つめている。


「蓮くん…」桜は思わず蓮に向かって駆け寄り、舞香もほっとした表情を浮かべた。尚樹は蓮を睨むように視線を逸らさない。


「…邪魔しないでくれるか?」尚樹が低い声で蓮に言い放つ。


「僕は桜ちゃんを守りに来ただけだ。もうやめてくれ」


蓮は淡々と答え、その場の緊張がさらに増していくのが分かった。尚樹の瞳が揺らぎ、怒りが滲む。


「…守る?俺が桜を守ってたんだ!」


尚樹の声が震えたが、蓮は一歩も引かずに桜の前に立ちはだかった。「もう十分だ。桜ちゃんは君のことを必要としていない」


蓮が静かに桜の肩に手を置いた。その冷静な視線が尚樹を見据え、冷静だが決然とした口調で言った。「尚樹さん、ここはもうお帰りください。あなたの混乱はあなた自身で解決するべきです。桜ちゃんを巻き込んで、責任を押し付けるのは違うでしょう」


尚樹は一瞬蓮の言葉に反論しようとしたが、蓮の静かな威圧感に気圧され、言葉を飲み込む。


「俺は…ただ、桜に側にいて欲しかっただけだぁぁっ!!」


尚樹の叫びが辺りに響き渡り、その声に舞香が険しい表情で声を張り上げる。


舞香:「これ以上、桜を傷付けないで!」


怒りを込めた視線を尚樹に向ける舞香。桜の妄想の中では、舞香が魔道士として尚樹に向かって魔法を(はな)とうとしている。その姿が、桜には鮮明に見えていた。


尚樹:「うるさい!黙ってろ!俺を追い詰めるな!」


尚樹が怒りを(あら)わに叫ぶと、桜の妄想の中では彼の背後に巨大な影が現れ、漆黒のオーラが立ち込め始めた。その手には黒い(くさり)が絡みつき、今にも桜たちに向けて振り下ろそうとしているように見える。


すると、蓮が一歩前に進み、尚樹の視線を真っ直ぐに受け止めた。


蓮:「そろそろ、本気でけじめをつける時だ」


蓮が冷静に語りかけるが、桜の妄想の中では、彼が剣士の姿となり、銀の剣が尚樹の黒いオーラに向かって眩い光を放っている。尚樹が叫ぶと、桜の心の中に反撃の炎が燃え上がった。


尚樹:「…桜、君が俺を拒絶しなければ、こんなことには…!」


桜の妄想内では、尚樹が攻撃の構えを取り、巨大な黒いエネルギー球が形成されていく。桜は心の中で叫んだ。


桜:「やれるもんなら、やってみなさい!」


現実の桜は、冷静に尚樹を見据えていた。


桜:「最初に拒絶したのはあなたでしょ。プレゼントを渡しても、いらないって言って…バレンタインのチョコも、捨てたくせに…」


尚樹が苛立ちを隠せずに声を荒げる。「俺が用意したプレゼントよりも良いものを贈ろうとするからだ!ただ見せしめに…!」


その瞬間、桜の妄想では、舞香が魔道士の姿で再び現れ、尚樹に向かって力強く魔法を放とうとしていた。


舞香:「桜、私たちの力を合わせるわよ!」


桜の召喚獣アリフアクロが、尚樹の黒いエネルギーに冷たい凍気を放ち、舞香の魔法がそれに加勢する。しかし、現実では舞香が冷ややかに微笑んで尚樹を見つめているだけだ。


桜:「千紗には何でもして、どうして私には何もしないの?私を馬鹿にしてるのは尚樹の方よ!それだけじゃない、あなたの言葉は嘘ばっかりだった!」


尚樹は不敵に笑いながら言う。「それは…おまえより俺の方が上だって思い知らせたかったからだ!仕方がないだろ!」


蓮:「もうやめましょう。桜ちゃんも僕も、あなたのためにこれ以上傷つくのは終わりにしたい」


桜はその言葉に心が少しずつ現実に引き戻されていくのを感じ、決意を固めた。


桜:「尚樹、私たちの関係はもう終わり。あなたの弱さや依存を私に押し付けるのはやめて!」


その瞬間、桜の妄想の中で最強の召喚獣「アルヴァドリガ」が現れる。黒い鱗と金色の光を(まと)い、圧倒的な存在感で尚樹の黒いエネルギーを粉砕(ふんさい)していく。


尚樹:「な、何だ、これは…!」


桜が冷徹(れいてつ)に言い放つ。「アルヴァドリガ…これで、終わりよ。」


「星界の咆哮!」


アルヴァドリガはその巨大な口を開け、まるで天を引き裂くかのような咆哮を放った。その威力を全て放つと、尚樹の黒い力が引き裂かれ、空気が切り裂かれる音が響き、跡形もなく消え去っていった。空間は完全に崩壊し、音も光も失われるような感覚が広がった。


尚樹はしばらくその場に立ち尽くしていたが、桜と蓮、舞香の強い視線に圧倒され、無言できびすを返した。桜の怒りに満ちた眼差し、舞香の冷ややかな嘲笑ちょうしょう、そして蓮の無言の威圧感が尚樹に重くのしかかる。


尚樹が立ち去り際、桜にぼそりと「なんだよ…付き合ってるときは、黙って去って許してくれてたのに」とつぶやいた。桜はその言葉に驚き、「え?」と思わず声を漏らす。


尚樹が去ると、桜はふっと肩の力を抜き、蓮と舞香に微笑みかけた。しかし、尚樹の言葉が桜の胸に響き、彼女は気づく。付き合っていた頃、妄想の中で召喚獣を使って尚樹に怒りをぶつけることしかできず、現実では本音を伝えず、向き合おうとしなかった自分に。


桜は深く息を吐き、少し考えた後、静かに言った。


桜:「なんだか、すっきりした」


舞香は肩をすくめて言った。「まぁ、あんな奴、さっさと忘れなさいよ」


蓮も静かに微笑みを浮かべ、穏やかに頷いた。「これで本当に終わりだね」


しかしその瞬間、尚樹は再び踵を返し、狂気の表情で桜に向かって凶器を振り上げて襲いかかってきた。咄嗟(とっさ)に蓮が桜の前に立ち、彼女を庇うように身を投げ出す。鋭い刃先(はさき)が蓮の手に食い込み、彼の顔が苦痛で歪むも、桜を守ろうとする意志が彼の瞳に宿っていた。


「蓮くん!」桜の声が震えた。


蓮の痛みに耐える姿を見て、桜の中で何かが切れた。怒りが彼女の心を支配し、召喚獣タイジオレムの力が無意識に引き出される。その瞬間、桜の体からかすかな重々しいオーラが立ち上り、周囲の空気が一変した。大切な人を守るために、心の中で何かが弾けた瞬間だった。


桜は無意識のうちに持っていたノートパソコンを両手でしっかりと握りしめ、尚樹に向かって一撃で叩きつけた。尚樹は衝撃に耐えきれず、道路に倒れ込み、恐怖に怯えた目で桜を見上げる。


「黙って去ろうが、ちゃんとぶつかっても、あなたは何も変わらない。今、それがよくわかった」


桜は震えながらも尚樹を冷たく見据え、静かに言った。彼女の表情には、今まで見せたことのない怒りが浮かんでおり、その圧倒的な迫力に尚樹は恐れを感じ、フラフラと立ち上がると、逃げるようにその場を去っていった。


桜はすぐに蓮の方へ駆け寄った。「蓮くん…ごめん、本当にごめんなさい…私のせいで…」


蓮は弱々しく微笑んで、「大丈夫だよ、桜ちゃん。これぐらい、なんてことないさ」と励ました。


だが、彼の手から流れる血に気づいた桜の胸は引き裂かれるようだった。「でも、手が…」


桜はバッグからハンカチを取り出し、彼の手にそっと巻きつけながら、申し訳なさで胸が締め付けられるようだった。「こんなふうにしか守れなくて…本当にごめんね…」


心の中で悔しさが膨らみ、「リフネリアティさえ召喚できたら…!」と、回復の召喚獣リフネリアティの姿が浮かんだが、現実にはそれが叶わない無力さが残った。


蓮は優しく桜の手を取って、「本当に大丈夫だって。君が無事でいてくれて、それだけで嬉しいよ」と穏やかに微笑んだ。その表情からは、どんな痛みにも耐えられるという強い意志が感じられた。


「私…蓮くんの大事な手を、守りたかったんだ…」桜は小さく囁き、涙が目の端に滲む。


蓮はふっと優しい目で彼女を見つめると、静かに桜の肩を抱き寄せ、「僕には桜ちゃんの気持ちが一番の薬だよ」と少し照れたように微笑んだ。その言葉の温かさが心に染みわたり、桜の胸がいっぱいになった。蓮の優しさが、かけがえのないものだと改めて実感した瞬間だった。


その時、舞香が静かに口を開いた。「私、もうこれ以上は許せない。こんなことが二度と起こらないように、然るべき手続きをしましょう。」彼女の声には確固たる決意が感じられた。


桜は驚きながらも舞香の言葉に頷いた。「うん…私、もうこれ以上、誰かが傷つくのは嫌だ。」


桜は蓮の手をそっと握りしめた。これからの展開に不安を感じつつも、舞香の言葉に背中を押されたような気持ちになり、心に強い決意が芽生えてきた。



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蓮が桜を庇って手を負傷してしまった出来事のあと、桜は「赤提灯ひとや」に足を向けづらくなっていた。尚樹が桜に危害を加えようとした瞬間、蓮が咄嗟に立ちはだかり、彼女を守ってくれたのだ。負傷したのが蓮の利き手だと知り、桜の胸には深い罪悪感がわだかまっていた。


「もし私が蓮くんを巻き込んでいなければ…」と何度も考えてしまう。蓮に会いたい気持ちはあるものの、その傷を目の当たりにするのがつらく、居酒屋の暖かな明かりが遠く感じられるようになってしまった。


それでも心のどこかでは、蓮が元気でいるのか、怪我は良くなっているのか気になって仕方がない。だけど、傷つけてしまった彼の前に、どうしても堂々と顔を出せる自信が持てない桜は、つい「赤提灯ひとや」の扉の前で立ち止まるばかりだった。



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年末年始休暇が明けた桜の職場は、いつもの忙しさを取り戻していた。昼食時、彼女は食堂で一人、温かいご飯を待ちながら、正月に蓮に会えなかった寂しさをほんの少しだけ心に残していた。そんな時、舞香が不意に近寄ってきた。


「桜!ロビーに蓮くんが来てるわよ。」


桜は驚き、心臓が高鳴った。どうして蓮がここに?予想外の再会に嬉しさと緊張が入り混じる。彼女は舞香に促され、思わず立ち上がって食堂を後にした。


エレベーターを降りると、そこに蓮が立っていた。手には少しだけ大きめのお弁当箱を抱え、少し照れたように微笑んでいる。蓮の姿に言葉が出ない桜へ、蓮が少し寂しそうに微笑みながら口を開いた。


「どうして食べに来てくれなかったの?」そう言って、蓮はお弁当を持ち上げた。中に詰められた料理が、どうやら桜のために作ったおせちだと気づき、桜は思わず目を見開き、息をのんだ。蓮が自分のためにここまでしてくれたことに胸がいっぱいになる。


「おせち…?」桜が驚くと、蓮は照れくさそうに頷いた。


「うん。作るって約束したから。だから、桜ちゃんに食べてもらいたくて…」


蓮が自分のためにここに来てくれた、その優しさに、桜の心はふんわりと温かく包まれていく。彼が自分のことを思ってくれていたというその想いが、彼女の胸に響いた。


「私…行けなくてごめんね……合わせる顔がなくって…」申し訳なさそうに言うと、蓮は優しく首を振り、目を細めて笑った。


「気にしなくていいよ。でも、僕にとって桜ちゃんは大事な人だから…会えなかったのはやっぱり寂しかった」


蓮の言葉に、桜の胸がドキリとする。自分でも気づかないうちに感じていた不安が少し和らいでいくのがわかった。蓮が変わらずそばにいてくれると感じられたからだ。


「今日は一緒に食べよう」と、蓮が微笑んで誘ってくれる。桜は思わず頷き、蓮を会社の屋上のテラスへと案内した。冷たい冬の空気が身にしみたが、二人はサンテラスの席に座った。蓮が蓋を開けると、色鮮やかに詰められた料理が目に飛び込んでくる。すべてハート型に飾られた細やかな細工に、桜は驚いた。


「え…蓮くん…これ…」


蓮は少し照れた様子で微笑んだ。「伝えたくてさ。桜ちゃんへの気持ち。桜ちゃんのことを考えながら作っていたら、自然と全部ハートになっちゃった。」


桜は少し顔を手で仰ぎながら、「なんか、今日は暑いね」と呟いた。


蓮は驚いたように「そう?」と不思議そうに答えた。


桜は蓮の顔を見つめ、その言葉が心にじんわりと染み渡るのを感じた。蓮もまた、桜の気持ちを受け止めるように彼女を見つめ返している。やがて蓮がほんの少し手を伸ばし、そっと桜の手に触れた。


「桜ちゃん、僕にとって本当に大切な人だから。これからも、もしよければ僕のそばにいてほしい。」


その言葉が、冬の静寂にそっと溶けていく。桜は瞳を潤ませながらも、深く頷いた。


「私も、蓮くんと一緒にいたい…」桜のその言葉が、蓮の表情をほっとしたような柔らかいものに変える。


ふたりはそのまま静かにおせちを食べ、心から満たされるような時間を過ごしていた。蓮がふとお箸を置き、桜を見つめながら口を開いた。


「桜ちゃん…俺さ、君のこと、好きだ」


その一言に、桜の心臓が大きく跳ねた。普段は「僕」と呼ぶ蓮が、いきなり「俺」と言ったことに驚きとときめきを感じ、思わず彼の顔をじっと見つめてしまう。


「…え?今、蓮くん…『俺』って…?」桜の声は、少し震えていた。


蓮は恥ずかしそうに微笑みながら、頭を掻いて答えた。「ごめん、仕事のときは『僕』って決めてるんだけど、桜ちゃんとこうやって二人でいると、『俺』が出ちゃうな…」


桜は、鼓動が早まるのを隠せず、小さな声で言った。「…蓮くんの『俺』、なんか…特別だね」


「そうかな」と、蓮が優しく微笑む。その瞳には、少し照れながらも、まっすぐな気持ちが込められていた。


「こんな姿、君にだけは見せたいんだよ…桜ちゃん」


その一言が、桜の胸にじんわりと響いた。蓮が自分の素を見せてくれている。その事実が、どうしようもないほど愛おしくて、二人の距離がぐっと近づいたように感じた。


桜はふと、蓮に目を向けた。「…私、こんな時間がいつまでも続けばいいのに、って思っちゃう」


蓮は少し照れたように微笑み、桜の言葉を受け止めてくれた。その穏やかな表情に、桜の胸がまたドキリと跳ねる。


「俺も、同じ気持ちだよ。君がそばにいると、居酒屋も、この時間も、全部が大事に思えるんだ」


桜が蓮を見つめながら、心が温かく満たされていくのを感じた。言葉では言い表せないほどの幸福感が溢れてきて、彼の優しさに包まれるような気がした。


「蓮くん…ありがとう、私も…」


その言葉が口から出る瞬間、蓮の目が深く桜を捉えた。ふたりの距離がますます近づくのを感じて、桜の心臓が激しく鼓動を打つ。


蓮の手がそっと桜の頬に触れ、その手の温もりが桜の心を震わせる。蓮の顔がゆっくりと近づき、桜は思わず息を呑んだ。鼓動が耳に響き、周りのすべてが静止したように感じた。


そして、蓮の唇が桜の唇に優しく重なる。その温かさと甘さに、桜の胸がじんわりと熱を帯びていく。二人の想いがゆっくりと一つに溶け合うようで、時間が止まったかのようだった。


「桜ちゃん…」蓮が唇を離し、かすかに震えた声で桜の名前を囁いた。その声には、抑えきれない想いがにじんでいて、彼の気持ちが胸に響いてくる。


桜も胸がいっぱいで言葉にならない。ただ静かに、蓮にそっと寄り添い、心の中で幸せをかみしめていた。



---


エピローグ


桜はまた「赤提灯ひとや」に通い続け、蓮も居酒屋の主人としての日々を楽しんでいる。けれども、二人の見つめる未来には、確かな絆が根付いていた。


こうして、二人の物語は幕を閉じ、新たな一歩を共に歩み始めるのだった。

尚樹のその後について、少し触れさせていただきます。彼は事件の後、警察に連行され、取り調べを受けました。結果として、暴行や脅迫の罪で処罰を受けることとなり、社会的にも大きな代償を払うことになりました。その間、彼は自分の過ちと向き合う機会を得て、自らの行いがどれほど多くの人々を傷つけ、そして自分をも傷つけていたのかを知りました。


拘留中、尚樹は再び同じ過ちを繰り返さないため、専門のカウンセラーによるカウンセリングを受けることになりました。彼はカウンセリングの中で、自己中心的な考えがどのように他人を巻き込み、結果的に自分をも苦しめてきたのかを学びます。反省し、少しずつではありますが、再び新しい一歩を踏み出す決意を固めたようです。


彼が完全に更生するには、まだ長い時間がかかるかもしれません。しかし、彼が少しずつでも変わろうと努力を続ける限り、彼にもまた、いつか再出発のチャンスが訪れることでしょう。

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