星降る夜に隣で
夏祭りの賑わいの中、桜は「赤提灯ひとや」のブースで忙しそうに働く蓮を、少し離れたところからじっと見つめていた。色とりどりの提灯が夜空に浮かび上がり、屋台から溢れる人々の笑い声が祭りの空気を包み込んでいた。しかし、桜の胸には暗い澱が沈んでいた。
ふと、視界の端に映ったのは、笑いながら寄り添う深雪とパートナーの隼人の姿。隼人が親しげに深雪と会話し、彼女の肩に軽く手を置いている。二人の仲の良さが眩しく映り、桜は目をそらしたくなるが、なぜか動けなかった。
その時、不意に桜の横顔を捉えた蓮が、ブースの向こうから手を振った。「桜ちゃん、来てくれたんだね!」と、いつものように優しく声をかけてくれる。蓮の笑顔を見ると、桜の心は一瞬ほぐれかけたが、次の瞬間、深雪と隼人が親しげに話す姿が再び目に入り、胸が締めつけられるような痛みが走った。
「蓮くんは、深雪さんと一緒にいると、辛くないの?」桜は心の中で呟いたが、口には出せない。自分も、蓮の隣に立ちたい。でも、深雪が彼の心の中にいることを思うと、その気持ちは苦しく、行き場を失った。
やがて、隼人が蓮に向かって「蓮!今日は楽しもうな!」と声をかけ、蓮も「うん、一緒に楽しもう!」と応える。隼人の無邪気な言葉に、蓮がどこか寂しげに微笑んでいるように見えたのは、桜だけだった。
桜は、思わず自分の胸に手を当てた。「蓮くんは、どうして深雪さんに本当の気持ちを伝えないんだろう…私と同じように…」その疑問を口にしたいのに、声が出ない。自分には蓮の心を動かす力がないと、改めて感じた。
少し経って、桜は深雪のブースに足を運び、「こんにちは」と声をかけた。深雪は明るい笑顔で迎え、「うちの野菜で作った特製かき氷よ。ぜひ食べてみて」と勧めてくる。その笑顔に、桜はふと何も言えなくなった。
「深雪さんって、本当にすごいですね…」と桜が呟くと、深雪は嬉しそうに「ありがとう、私はただ楽しんでるだけよ」と笑顔を返す。その純粋さが眩しく、桜は小さく頷くことしかできなかった。
夜が深まり、蓮がブースで出している「光るお酒」が目に留まった。淡い青白い光を放つカクテルが、夜の闇の中でまるで星のように煌めいている。桜はふらりと近づき、蓮に話しかけた。
「綺麗なお酒だね、まるで星が入ってるみたい…」
蓮は優しく微笑んでグラスを差し出す。「ありがとう、祭りの特別な一杯なんだ。桜ちゃんもよかったらどうぞ。」桜は一口飲み、爽やかな味わいが口いっぱいに広がるのを感じた。この瞬間だけでも、蓮と二人きりでいるような特別な時間が広がっていく。
その時、空高く打ち上げられた花火が夜空を鮮やかに彩った。桜は人混みから少し離れた場所に移動し、一人で花火を見上げた。夜空に広がる大輪の光の花が、胸の中の切なさと重なり、彼女の心を揺さぶる。
すると、背後から近づいてくる足音が聞こえ、振り返ると、蓮が静かに桜の隣に立っていた。驚きと高鳴る鼓動を感じながらも、桜は言葉を失い、二人はしばらく黙ったまま夜空の花火を見つめ続けた。
「綺麗だね…」桜は小さな声で蓮に言った。その声が花火の音にかき消されそうだったが、蓮はそれをしっかりと聞き取り、柔らかい表情で頷いた。
「うん、本当に綺麗だね。」蓮の言葉が静かに響き、二人の間に穏やかで切ない空気が漂った。花火の明かりが消え、夜の静寂が訪れる中で、桜はそっと蓮の横顔を見つめ、彼の心の奥に触れたいという願いが膨らんでいく。
花火の余韻が静かに残る中、桜と蓮は、祭りの後片付けをしながら並んで歩いていた。周囲の静けさが二人の間の緊張感を高める中、桜は心の中に抱えた想いを言葉にしようかと迷っていたが、何も言えずにいた。
ふと、蓮が口を開いた。「桜ちゃん、今夜の花火、すごく綺麗だったね。君と一緒に見られて、本当に良かった。」その言葉に、桜は嬉しさと切なさが交錯した。蓮の笑顔が輝いて見える。しかし、彼の心の中に潜む本当の想いは、どこにあるのだろう。
その瞬間、蓮は意を決したように話し始めた。「桜ちゃん、実は…深雪さんが好きなんだ。」その言葉が出た瞬間、桜の心臓は止まるような感覚に襲われた。驚きとショックで何も言えずに立ち尽くす桜をよそに、蓮は続けた。「彼女は強くて優しい特別な存在なんだ。」
その言葉に、桜は胸の奥に深い痛みを感じた。彼女も蓮に特別な感情を抱いていたからこそ、蓮の想いに触れることで自分の気持ちが痛みに変わるのを感じていた。
「そう…なんだ。」桜は微笑みを浮かべるが、その奥には深い悲しみが隠れていた。彼女の声は震え、まるで自分の心の叫びを抑え込むかのようだった。
桜は蓮の言葉を聞いた後、心に残る痛みを抑え込もうとした。しかし、深雪の名前が口から出た瞬間、心の中に不安と嫉妬が渦巻いた。感情を整理しようと努めたが、思考はまとまらなかった。
数日後、桜はいつものように「赤提灯ひとや」に足を運んだ。蓮がいることを知りながらも、彼に会うことが少し不安だった。しかし、店に入ると、蓮はカウンターに立ち、常連客と談笑していた。彼の笑顔を見た瞬間、桜の心が温かくなるのを感じたが、それでも心には深雪の存在が影を落としていた。
「桜ちゃん、今日は何を頼む?」蓮が優しい声で尋ねる。桜は微笑んで、いつも通りの返事をした。「いつもの、だし巻き玉子をお願いします。」
その間に、蓮は料理を作りながら、桜に少しずつ話しかけてきた。「最近、深雪さんと一緒に畑をやることが多くてさ。彼女といると、自然と心が安らぐんだ。」蓮が幸せそうに言うから、桜の胸も少し温かくなる思いだった。
心の中で葛藤しながらも、桜は自分の気持ちを隠し続けた。「そうなんだ、深雪さんは優しい人だから、きっと蓮くんを大切に思ってるよね。」そう言った瞬間、自分が何を言っているのか分からなくなったが、今の関係を大切にしようとした。
「うん、彼女といる時間は本当に楽しいよ。」蓮の目には、桜との友情を確認するかのような温かい光が宿っていた。桜はその視線を受け止めることができず、心臓がドキドキしていたが、無理に笑顔を作り、喉が乾いたように感じた。
その日、桜は帰り道に深夜の空を見上げた。星が輝いているのに、心の中はどんよりとした雲が広がっていた。「どうして私には、こんなに苦しい気持ちがあるのだろう。」自問自答しながら、彼女は蓮のことを考え続けた。
その夜、桜は自分の気持ちを整理するために、日記に書き留めることにした。「私は蓮くんが好き。でも、彼は深雪さんを想っている…。私が彼のことを好きでいる限り、深雪さんを応援するしかないのかな…」
桜は日記を閉じ、明日また蓮と会うために心を整えた。彼との関係を壊したくないという思いと、自分の感情を無視したくないという矛盾する気持ちの中で、彼女は新たな決意を抱く。
「蓮くんに、少しでも自分の気持ちを伝えられたら…」そう思ったとき、心の奥に小さな希望が灯った。
次の日、職場で舞香が軽やかに桜のデスクへ近づき、明るい笑顔で小さな袋を差し出してきた。
「桜、これ、夏に彼とハワイ行ったときのお土産!」
桜は思わず内心でため息をついた。「また自慢話か…」と予想していたが、袋を開けてみると中にはハワイの青い海を思わせる透明なガラスの小物が入っていた。波模様が美しく、桜が好きそうなデザインだ。
「…これ、私に?」桜は少し驚きながら舞香を見ると、舞香は少し照れくさそうに頷いた。「うん、桜、こういうの好きかなって思って。」
普段なら何かと自慢を混ぜたりマウントを取る舞香が、今日はただ純粋にお土産を渡してくれただけで、いつもの見栄っ張りな態度がなく、桜の好みを気にして選んだ様子が伺えた。いつもと違う舞香の一面に、桜は戸惑いと同時に心配が湧き上がってきた。
「舞香…ありがとう。でも、なんか今日はいつもと違う感じがするけど、大丈夫?」桜が心配そうに尋ねると、舞香は一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに苦笑いを浮かべた。
「…桜、私のこと、何だと思ってるの?ただの自慢好きだって思ってた?」
桜は少し戸惑いつつも、正直に返した。「いや…いつもはそうかなって。でも今日のお土産は、私のことをちゃんと考えてくれたのが伝わってきて、意外だったっていうか…」
舞香はふっと肩をすくめて、「私だって、たまにはちゃんと考えるのよ。」と、少し照れくさそうに微笑んだ。
その瞬間、桜はいつもと違う舞香の優しさにじんわりと心が温かくなるのを感じた。普段から何かと張り合ってくる舞香だけに、こうして純粋に優しい言葉をかけられるのは意外だった。
「ありがとう、舞香…大切にするね。」そう言って小物をそっとバッグにしまい、桜は心の中で舞香への見方が少しだけ変わるのを感じた。
しばらくの沈黙の後、桜が口を開いた。
「……尚樹と、別れたんだ。」
静かに告げた桜の言葉に、舞香は一瞬目を見開いた。驚きの表情を浮かべながらも、すぐに口元に優しい微笑みを浮かべた。
「そうだったんだ……大丈夫?辛かったよね。」
声のトーンには、友人を気遣うかのような優しさが含まれていた。しかし、その目の奥には薄く光る別の感情が隠れていた。舞香は心の中で密かに満足感を覚えていた。桜の痛みを理解するふりをしながらも、心の奥では尚樹との過去が頭をよぎる。
桜が別れた――彼女の計画は順調に進んでいた。
「何かあったら、いつでも相談してね。無理しないで。」
彼女の声は温かく、親身な響きを持っていたが、内心では桜の知らないところで舞香の計画がひそかに進んでいたことに、彼女自身が優越感を抱いていた。