孤独な静かな温もり
居酒屋の暖かい灯りが、いつもと変わらず桜を迎え入れた。しかし今日は、その優しさが痛いほど身にしみた。カウンターの奥から顔を出した蓮は、すぐに桜の異変に気づいた。彼女の顔色や視線の強さに、いつもとは違う違和感を覚え、心配そうに問いかける。
「いらっしゃい、桜さん。」蓮は軽い口調で声をかけたが、その目には柔らかな優しさが漂っていた。
桜は無言で頷き、いつもの席に座る。だし巻き玉子を注文したものの、その声は震えていた。
蓮はしばらく無言で、桜の様子を見守っていた。沈黙が流れる中、彼は静かに口を開く。
「元気がないみたいですね。何かあったんですか？」
その問いかけが、桜の心に鋭く突き刺さった。いつもなら、笑ってごまかせるはずだったが、今日はどうにも耐えられなかった。尚樹との関係が、実際には幸せな瞬間などなかったことを思い出し、ただ「幸せだ」と思い込みたかっただけだった。その裏に隠された孤独と無力感が、胸の中で絡まり、言葉にすることさえできなかった。
「私…」桜は声を詰まらせた。
蓮は彼女の震える手をじっと見つめながら、柔らかい声で続けた。
「…一人で食事をする理由があるんじゃないですか？」
その言葉に、桜の中で何かが崩れ落ちた。溜め込んでいた感情が一気に溢れ出し、涙となってこぼれた。蓮の前で泣くなんて、思ってもみなかった。しかし、もう止められなかった。
「どうして、こんなに苦しいの…？」桜は嗚咽を漏らしながら、泣き崩れた。
蓮は何も言わず、静かに桜の頭をそっと撫でた。その優しい手の温もりが、少しだけ桜の心をほぐしてくれた。
「何があったかは言わなくていい。でも、無理しなくていいですよ。」彼の声は穏やかで、桜の心に優しく響いた。
桜は涙を拭きながら、なんとか言葉を紡ぎ出した。
「私…誰にも頼れなくて…信じてた人に裏切られて…」その言葉を口にするたびに、再び涙がこぼれる。
「ここでは、何も気にしなくていいんです。桜さんが来てくれるだけで、僕は嬉しいんですよ。」
その言葉に、桜は少しだけ心が軽くなった気がした。蓮は、深雪が好きなままでありながらも、桜には親近感を持っていることがわかる。彼の優しさに、少しずつ心がほぐれていくのを感じた。
桜は、これまでの尚樹とのことをぽつりぽつりと話し始めた。いつもなら、こんなことを誰かに話すなんて考えられなかったが、蓮の前では自然に言葉がこぼれてしまう。
「最初は、デートらしいデートは１回だけだった。それが最初で最後だったかもしれない…」桜は小さく笑いながらも、その声は震えていた。
蓮は静かに頷きながら、だし巻き玉子を作り続けた。その手元は止まることなく、桜が話しやすいようにリズムを保っていた。
「その後、彼の家ばかりで…なんか、それだけで満足しなきゃって思い込んでたんだと思う。でも…」
桜は言葉を探しながら、少し間を置いた。蓮はただ静かに彼女を見つめ、促すように微笑んだ。
「家に行っても、彼がいないことが多くて…ずっと待たされるばかり。それでも、彼を信じようと…」
桜の声が弱くなり、また涙がこぼれた。
「でも、千紗っていう女の存在を知ってしまった。私には見せたことのない優しさを彼女に向けていて、プレゼントまで渡していた…。私には、そんなこと一度もしてくれなかったのに。」
その言葉を口にした瞬間、桜の胸にまた痛みが走った。溜め込んでいた悔しさと悲しみが、再び溢れ出す。
「私、ただの代わりだったのかな…。彼にとって、私は特別じゃなかったんだね…」桜の声はかすれ、涙で目が滲んだ。
蓮はしばらく沈黙していたが、静かに言葉を紡いだ。
「それは辛いな…。桜さんは一生懸命だったのに。無理しなくていいんじゃないかな。我慢する必要なんてないですよ。」
その優しい言葉に、桜は少しずつ心がほぐれていくのを感じた。
「どうして桜さんが一人で食事をするか、少しわかった気がします」蓮はぽつりと呟いた。
桜は驚いて蓮を見つめ、言葉を待っていた。
「もしかして、尚樹さんとのことが辛くて、その帰りにここで食事をして、自分を取り戻そうとしていたんじゃないですか？」
桜は静かに頷いた。「そう…かもしれない。ここに来ると、少しだけ自分を取り戻せる気がしてたの。誰にも頼れないから…」
蓮は優しく微笑み、「桜さんがここに来てくれるのは、僕にとっても嬉しいんです。無理しなくていいし、ただ美味しいものを食べに来てくれるだけで、僕は十分ですよ。」
その言葉に、桜は少しずつ心が軽くなるのを感じた。彼はずっと桜を見守ってくれていた。彼女がここに来る理由を察して、何も聞かず、ただそばにいてくれたことに気づいた。
「ありがとう…蓮さん」と、桜は小さく礼を言った。
蓮は、だし巻き玉子をそっとカウンターに置いた。彼はこれからも桜を見守っていくことを決めた。
