消えゆく約束
桜はカフェでひとり静かに食事を楽しんでいた。最近、尚樹との関係に疲れを感じていたが、ひとりの時間を過ごすことで少しずつ自分自身を取り戻しつつあった。美味しいコーヒーの香りやカフェの落ち着いた雰囲気に包まれながら、彼女は自分の心の内を振り返っていた。
「尚樹とデートらしいデートをしたのって…初めて会った夜景だけだったかも?」と、ふと気づいた。彼との時間が少なかったことには気づいていたが、こんなにも一緒に出かけていなかったとは思いもしなかった。尚樹との関係はいつも桜が引っ張られているようで、自分の時間や感情を見失っていたことを、改めて思い知らされた。
それに、あれ以来、尚樹は私に対してそういうことをしなくなった。初めて彼が私を抱こうとしたあの夜、痛がってしまい、彼は以来、私を抱くことを避けるようになった。何かがその瞬間に変わり、尚樹との距離が次第に広がっていった。
桜は思い出す。あの日、尚樹の手が自分の肩に触れた瞬間、彼女は心の中で「これが愛されることなのか」と期待した。しかし、その先に待っていたのは、痛みだった。尚樹は彼女の様子を見て、驚き、そして冷たく背を向けた。「そんなに痛がるなら、もういいよ。」その一言は、桜の心に深い傷を残した。
「もうすぐ私たちの誕生日だし、もしかしたら特別な時間が持てるかもしれない…」
桜は心の中で自問した。「私、どうしてまだ期待しているんだろう…?」
数週間後、誕生日が近づくにつれ、彼女は心のどこかで尚樹との関係が元に戻ることを夢見ていた。胸が高鳴った。しかし、誕生日当日、彼女の期待は淡い光に包まれ、どこか冷たいものに感じられた。
「ねえ、尚樹。私たち、同じ誕生日だなんて、運命感じるよね。お互いの誕生日を一緒にお祝いできるなんて、最高じゃない?」
桜はテーブルに並んだケーキとプレゼントを眺めながら、心を躍らせて尚樹に話しかけた。しかし、尚樹の表情は一瞬、考え込むようなものに変わった。彼の瞳に一瞬の迷いが見えたが、すぐに笑顔に戻った。
その瞬間、桜の心に小さな不安が広がった。彼女の心は重くなり、笑顔を保つのが難しくなった。目の前のケーキが甘いはずなのに、口の中には苦い味が広がるような気がした。
尚樹は彼女の微笑みに目を細めていたが、桜はその笑顔の裏に何か見えない壁があるように感じた。心の中で感じる不安と葛藤が渦巻く中、桜は誕生日を祝うという楽しみが、いつの間にか重荷に変わっていくのを実感していた。
彼女の心に響く不安の声が大きくなり、誕生日を祝うための笑顔が次第に薄れていく。ケーキのろうそくの火が、彼女の心の中の優しさや期待を少しずつ溶かしていくように感じた。
「もしかしたら、これが最後の誕生日かもしれない…」
その瞬間、心の奥で何かが崩れ落ちる感覚がした。
「おめでとう、尚樹。これ、プレゼントだよ。」
桜は笑顔で手渡したが、尚樹はそれを見下ろし、少し困ったように言った。
「んー…いらないや。気を使わなくていいよ。俺、あんまりこういうの得意じゃないし。」
「えっ?」桜は驚き、目を見開いた。彼女の心は一瞬で冷え込み、祝う気持ちが消えていくのを感じた。尚樹のその言葉は、彼女が思い描いていた誕生日の喜びを打ち砕くものだった。
「どういうこと…?私、頑張って選んだのに…」桜の声には少し震えが混じっていた。
尚樹は軽く肩をすくめながら、言葉を続けた。「いや、そんなに気にしなくていいって。俺、誕生日とか特別に思ったことなくてさ…」
その言葉は桜の胸に突き刺さり、彼女の心の奥底にある不安が再び顔を出した。尚樹の言葉に込められた冷たい感情が、彼女の中で不安定な揺れを生み出している。
「そう…なの?」桜は小さな声で呟いた。笑顔を保とうとするも、心の中は嵐のように荒れ狂っていた。
尚樹は視線を外し、携帯電話をいじり始める。その様子を見て、桜は自分が一方通行の感情を抱えていることを実感した。彼が自分を気にかけていないのではないかと、心の中にある疑念が強まっていく。
「誕生日を祝うことが大事だと思うんだけど…」桜は勇気を出して言った。「私たちの特別な日なんだから、ちょっとは楽しもうよ。」
しかし、尚樹は無言のまま、携帯を触り続けていた。桜は次第に心の中で何かが弾けるのを感じ、彼との関係がもはや自分の思い描いていたものではないと悟る。
「もういい。私、帰るね。」そう告げると、桜は立ち上がり、背を向けた。彼女の中で何かが決まった瞬間だった。尚樹に対する期待が消え、心のどこかで自分を解放する決意を固めていた。
部屋を出て外の冷たい空気を吸い込むと、桜は尚樹との日々を思い出していた。彼らの誕生日が同じと知ったのは、ふとした瞬間のことだった。
「そういえば、尚樹さんの誕生日っていつ?」桜は軽い気持ちで尋ねた。
「俺の誕生日?5月30日だよ。桜ちゃんは?」尚樹が微笑んで答える。
「えっ、私も5月30日!」桜は驚きとともに、嬉しさが込み上げてきた。
「まじか!これはすごい偶然だな、まるで運命みたいだな!」尚樹が冗談めかして笑う。
「一緒にお祝いしようよ!同じ誕生日なんだし、特別な日になるね!」桜は少し照れながらも、期待に胸を膨らませて提案した。
「それいいな!じゃあ、今年は一緒にお祝いしよう!」尚樹も明るく返し、その瞬間、桜の胸には喜びが満ち溢れていた。
――それが今となっては、嘘だった。
「尚樹の嘘つき…」
桜はそう呟き、胸の奥に冷たいものが広がるのを感じた。誕生日を一緒に祝おうと言っていたはずなのに、あの冷たい言葉で全てを否定された。「プレゼントなんていらない」と言った瞬間、彼女の中で何かが壊れた。
「どうして…」
小さな囁きが漏れた瞬間、空から冷たい雨がぽつりと落ちてきた。まるで彼女の涙が空にまで伝わり、世界がその悲しみを共有しているかのようだった。
重たい雲が広がる中、冷たい雨が静かに降り続ける。桜はその一滴一滴が、まるで心に突き刺さるように感じた。
「全部嘘だったんだね…」
桜のつぶやきは、雨音にかき消されていった。まるで世界から切り離されたかのような孤独感が、彼女の胸を支配していた。
その後、尚樹との関係は冷え切り、桜は次第に彼への期待を手放していった。彼のことを思い出す瞬間も少なくなったが、ふとした時に彼の言葉が胸を刺し続けていた。