2アトムの芳香
周りを飛交う蚊は一向に気にはならずデモクリトスはひたすら周囲を気にしていた。
もはや視力を失い盲目になった我が身において、意識すればするほど周囲が気になりどうしようもなかった。目の見える頃に行き着いた考え、それはあらゆるものは目には見えない原子からなるとする原子論。
それ以上分割できない原子は空虚の中にあり運動している。
物質は原子のその動きによって変化する。
意識も原子の配列によるものであり、意識と同意の魂の安寧をもとめるなら原子が安定しなくてはいけないという科学から倫理まで包括する考えなのである。
そんなことをひたすら追求しているうちに視力は必要なくなったのであろうか、デモクリトスの脳内には地上の景色はもはやなく、漆黒の空間が広がっていた。
その漆黒は意識が渦巻く原子サイズの世界。
言いかえるなら宇宙空間とも言える。
そんな見えるはずのないサイズもいともたやすく見ることができる。
核を中心にその周辺を飛び回る電子。
さらにその電子を構成している紐のように運動する素粒子。
機能しない眼球の膜なのか、瞼の裏側のスクリーンなのか、
見ようとする行為でいろいろなものがそこに展開する。
さて、生命の終焉に近づいたことを悟り自らを絶とうとしたその時、
新たな物体がそれを阻んだ。
芳しいパンの焼ける香りだった。
人間には視覚の他には聴覚もあり嗅覚もある。
その嗅覚を呼び覚ますかのように原子が結び付き合い、
香りの分子となりデモクリトスの鼻を襲った。
芳香に後ろ髪を引かれることになった。
やがて聴覚を祭り囃子が刺激してくる。
そう、まさにその日は祭りの真っ最中。
そんなときに死なれては困ると妹がパンを焼いたのである。
パンの原子が意識の原子を制したわけである。