秘密
「じゃあ~ん! DVD借りてきました!」
陽気なテンションで姉さんは事前にレンタルショップから借りてきたであろうDVDを取り出す。
「へぇー、どんな映画?」
「邦画の恋愛モノだよ。詳細は見てからのお楽しみで」
そう言って姉さんは手馴れた手つきでDVDプレイヤーにディスクをセットし、4Kテレビの電源をつける。
「雰囲気作り」と言って姉さんは部屋の電気をリモコンで消し、室内はテレビの明かりが唯一の光源として輝いていた。
映画かぁ。半年くらい前に浩二と一緒に見に行ったホラー映画以来かな。子供の頃はアニメ映画とかなら沢山見たけど、恋愛映画を見るのは初めてかもしれない。
そんなことを思いながら僕はソファに腰かけていると、
「よいしょ」
準備を終えた姉さんが、2人用のソファであるにもかかわらず、僕の足を背もたれにして、地面に座る。
「何故そこに座るんだい。姉さんや」
「貴方の足を愛でるためですよ。漣くんや」
僕の膝に顎を乗せながら、姉さんはそう答える。
またしても訳の分からぬ返答が返ってきた。
「そっすか」
真に受けて指摘するのも面倒なので、テキトーに頷いておく。またいつものじゃれつきモードだ。気にしたら負けである。
僕は極自然の事のように姉さんが足元で座ることを受け入れ、テレビ画面に視線を移す。
……程なくして、画面に作品のタイトルが映し出される。
『姉と弟の禁断の愛』
タイトルセンスから滲み出るB級映画感。
この映画を作った人がどうしてこんなにもチープなタイトルを付けたのか気になる。
だが僕はそれよりも姉さんがどうしてこのような作品をチョイスして、ましてや僕と見ようとしたのかが、気になるところだ。
……まあ、それはいいとして。これはなかなかに駄作臭がする映画だな。
今までこれほどにタイトルだけで内容を予想しやすい作品があっただろうか。
見るまでもなく駄作だろう。偏見からそう決めつけていた。
——だが、始まってみると僕のその期待は良い意味で裏切られた。
姉弟間の恋愛というありふれたテーマではあるが、内容自体はしっかり作りこまれているし、役者の演技も上手なもので感情移入しやすい。大がかりなセットが存在しないためきっと低予算で作られた映画なのだろうけど、それでもカメラアングルだったりシーンのカットだったりと細かなところでチープさを感じさせない工夫が施されていた。
侮っていた。B級映画と思いきや、これは立派なA級映画だった。
まだ三十分ほどしかこの映画を見ていないが、そう感じさせてくれるほどにこの作品は作りこまれていた。
……それほど多くの映画作品に触れてきたわけでもない僕だ。見る目など養われているはずもなく、こうして予想が外れるのはおかしなことでもないはずだ。
僕は改めて映画に集中する。
——物語は中盤。主役二人の姉と弟は互いが互いを愛し合っていることに気が付き、距離が縮まっていく。そうしてお互いの感情が高まった二人は、家にいる親にバレないよう弟の部屋で熱いキスを交わす。
「……」
「……」
それを無言で見つめる僕と姉さん。
はっきり言って気まずい。
恋愛映画となればキスシーンがあるのは自然なのだが、それを誰かと一緒に見るとなると不自然な気持ちになる。
できることなら十秒送りボタンを連打したいところだが、姉さんは映画鑑賞に熱中しているかもしれないため、そのような無粋なことはできない。
今は黙って気まずい雰囲気を耐えるしかない。
白熱するキスシーンと静寂に包まれた一室。
そのフィクションと現実のギャップを感じながら、僕は時が過ぎ去るのを待つ。
すると、
「……ねぇ」
沈黙に耐えかねたのかどうなのか、理由は定かではないが姉さんが口を開いた。
僕はその呼応に反応し、視線を足元にいる姉さんに降ろす。
そこにはテレビ画面を見つめる姉さんではなく、首だけを動かし一段上にいる僕を見上げている姉さんの瞳があった。
「どうしたの、姉さん」
「言わないとわからない?」
「……」
姉さんは僕のYシャツを掴み、僕が前のめりになるように僕の上半身を手繰り寄せる。
そうなれば当然、僕と姉さんの距離は近づく。
体、というと範囲が広すぎるな。範囲を絞り説明すると、顔が近づくのだ。
——ほのかに甘い香水の香りが鼻孔を突く。
テレビの光に照らされた姉さんは何処か色っぽい。
期待と興奮の入り混じった瞳が僕を見つめる。
「漣くん……」
見下ろす僕の顔に、姉さんの手が触れる。
姉さんが吐息を漏らすと、それが顔に当たりそうなほどだった。
薄暗いながらも姉さんの頬が赤らんでいるのが見える。
吐息は熱を孕んでおり、指先は熱を帯びている。
この熱は、この熱さは、何度も体感した熱さだ。
沈黙の中声を掛けられた時点から、いや、この部屋に訪れた時点から、何を求められているかわかっていたのだ。
「私ね、漣くんのことが好き」
まるで何かに憑りつかれたようなうっとりした表情で僕にそう囁く。
「……僕も好きだよ。姉さん」
僕は至って冷静にそう返した。
こう言うべきだと判断して言ったのだ。
ここでこう返すのが、姉さんにとって理想の僕だから。
それが役目であり、責務である。
いや、ちょっと格好をつけすぎた。
役目だの責務だの、僕が担っているのはそんな仰々しい物じゃない。
もっとマイルドに、そして正確に言えば。
そうすることが、僕の仕事、——アルバイトだ。
「ピピピピピピ!」
唇が触れそうになった、その刹那だった。
雰囲気をぶち壊すように、僕のスマホのアラームが激しく鳴る。
どのタイミングでも気づけるように、予め音を大きくしていたのだ。
そのアラーム音によって、何処か夢見心地でいた姉さんが現実に引き戻され、ハッとした表情になる。
そして、その音に対する拒否反応なのか、僕から距離を置いて怯えた様子で耳を塞ぐ。
僕は彼女の異常な様子を意に介さず、手慣れた手つきでアラーム音を止める。
「……嗚呼、時間切れか」
僕の独り言に対し、ビクッ、と彼女の体は反応する。
一応あと片付けくらいはしておこうと、部屋の明かりをつけ、テレビの電源を切る。
明かりに照らされ、静まり返った部屋。
「あっ、……、ま、待って——」
そこではか細い彼女の声もよく聞こえる。
寂し気で、辛そうで、今にも泣きだしそうな声で、僕に手を伸ばした。
けど、僕はもう手を伸ばして届く位置にはいない。
縋るような思いで手を伸ばす彼女。
そんな憐れな彼女に、僕は一言、こう告げた。
「それじゃあね、〝花さん〟」
「っ!?」
踵を返す。
アルバイトの時間は終わった。だから家に帰る。ただそれだけだ。
だって、ここは僕の家じゃない。ただのアルバイト先だ。
だから、帰るのは当然。
僕は花さんに別れを告げて、彼女に背を向ける。
部屋の隅に置いた学校指定鞄を肩にかけ、玄関へと向かう。
すると——、
ギュッ、と後ろからブレザーの裾を強く掴まれる。
引き留めるように、皴が付きそうなほど強く握りしめる。
誰が掴んでいるかなど、振り返らずともわかる。
「…………ないで」
「……」
「……行かないで」
「……」
縋るような声で僕に懇願する。
「花さん。それは契約違反だよ」
「で、でも!——」
「でも?」
「ッ!?」
首を横にひねり、未だに膝をついて僕のブレザーの裾を掴む彼女を見る。
「契約は約束。約束は守らなきゃいけない。子供だって知っていることだ」
それを社会人の花さんがわからないわけない。
部下を持つほど出世している彼女が契約の重要性を知らないはずなんてないのだ。
「そ、……そうだけど」
しかし、彼女は引かない。
ちょっと厄介だなぁ。
「ねぇ、花さん」
掴む彼女の手を離させ、振り返って両膝をつく彼女を見下ろす。
それに対し、彼女は僕を見上げる。
これから捨てられる犬のような表情だ。
「別に今日が最後ってわけでもないよね」
強く突っぱねるより、優しく諭すべきだと判断し、そう接する。
僕の言う通り、今日が最後というわけじゃない。
明日だって明後日だって、花さんが言えば僕はまたこの部屋に訪れる。
だって、そういうバイトだ。
「だから——」
今は帰して。
そう続けるつもりだった。
しかし——。
「嫌ッ!!」
悲鳴ともとれる大声が、部屋中に響き渡る。
それを発した彼女は、振りほどかれた手で再度僕の制服を掴む。
ブレザーが折れ曲がりそうなほど、Yシャツに皴が付きそうなほど、決して逃がさぬようにと力強く掴む。
もう簡単には振りほどけない。
力の強さ的な問題もあるが、それ以上に振りほどけない問題がある。
「嫌なの! お願い! まだここにいてッ!」
一回りも歳が下の子供に、彼女は縋りつく。
「今日ずっと漣くんと会うの楽しみにしてたのよ! ずっと! 朝ごはん食べてる時も、出勤してる時も、仕事してる時も、同僚と話してる時も、家で漣くん待ってる時も、ずっとずっと楽しみにしてたのよ! なのに、こんなにあっさり終わっちゃうなんて嫌ッ! だ、だってまだ、映画だって見終わってないんだよ? キスだってしてないんだよ? それなのにもう終わりなの!? 嫌よ! 私、まだ漣くんと一緒に居たい!」
子供のような駄々を彼女は続ける。
「私何でもするから! まだ一緒に居たいの! ——いつもの倍、ううん三倍払うから! だから私と一緒に居て! 私の事「姉さん」って呼んで! お願いだから!」
必死に懇願する彼女。
そこにはプライドも自尊心もない。
「……ねぇ、お願い……。——ここにいて……。まだ、……まだ私、寂しいままなの。……もっと、漣くんと一緒に居なきゃダメなの……」
「……」
哀愁さえ漂う彼女の姿を僕は変わらず見下ろす。
——果てしなき依存、終わりなき依存、飢えすぎた依存。
それを満たせるのは、僕しかいない。
だからこそ、簡単には彼女の手を振りほどけない。
振りほどいてしまったら、壊れてしまうかもしれないから。
支えである僕に拒絶されてしまったら、彼女は二度と立ち上がれないかもしれない。
……花さんをこうしてしまったのは僕だ。
僕と出会わなければ彼女がこうなることはなかったかもしれない。いやなかった。そう断言できる。僕という依存先さえなければこうなることがなかったなど明白なことだ。
僕が花さんと会わなければ、彼女は普通の生活をして、普通に恋人ができて、普通の家庭を持つことができただろう。
それができないように——、そんな人生ではなくしてしまったのは僕である。
狂わせた。という仰々しい言い方をしていいのかはわからない。
でも少なくとも、僕との出会いは花さんの人生に変革を与えてしまったのは事実だ。
悪い方向で。
——なら、責任を取るしかないか。
「……しょうがないな。〝姉さん〟は」
僕は微笑んで彼女をそう呼ぶ。
「……!」
僕の返答で、姉さんの表情に明るさが戻る。
そして、嬉しさを噛み締めるように花さんは強く僕の腰に抱きつく。
腹部に顔をうずめながら、姉さんは言葉を発する。
満ち足りた様子で、心酔した様子で、言葉を発する。
「大好きだよ……。漣くん」
「……ああ、僕もだよ」