ビコウ探偵 ~浴槽に沈められた悪意~
世の中には二種類の鼻しか存在しない……ーーすべての香りを嗅ぎわけられる鼻か、そうでない鼻か。
「六分二十秒前の到着……――遅くなりましたっ!」
制服姿の小柄な少女が勢いよく『吉備探偵事務所』と書かれた重い扉を開けながらそう叫ぶ。年相応の顔、右側の一房だけ三つ編みにされた彼女とこのおんぼろアパートはそぐわないが、だれもそれを指摘する人はいない。
「ああ、道祖か。おはよう」
きちんと整頓された部屋の奥から少し低めの女性の声が聞こえてくる。姿は見えないが、どこか間の抜けた声だった。
「遅くなりました!!」
少女、田村 道祖は姿の見えない部屋の主にもう一度謝罪するが、大丈夫だってと返された。
「まだ四時四十分だろ?」
「もう五十五分です」
部屋の主がどこを見ながらしゃべっているのか想像のついた道祖はそちら、壁にかかっている時計を見てこれ、遅れてるじゃないですかと文句を言う。
「もう電池の替えどきか」
チッと言いながら奥からのっそりとあらわれたのは、ボザボサな髪をした二十半ばの女性。
「しっかりしてくださいよ」
その一回り年の離れた少女に叱咤された女性――吉備 宝は口をとがらす。雇い主に代わって道祖は張りきるが、仕事来ないんだから仕方ないだろと宝はソファに再び座りこむ。また実家から洋服が届いたんですねと机の上の荷物をどかしながら吟味する道祖。この建物にそぐわないような服が何着もかかっているが、それらはすべて宝の実家から送られてくるものだった。仕事上、外出する機会が多い彼女にとってそれはありがたい援助だが、支援物資として食べ物や現金をチョイスしない親も確実にズレている。
学生鞄を置き、制服の上からエプロンを付けた道祖は、近くに置いてあったやかんで水を沸騰させている間に茶葉を出して、二人分の茶葉を茶こしに入れる。それをしながらも宝との間では会話は止まらない。
「しっかし、相変わらず時間に厳しいな」
「普通じゃありません?」
「厳しすぎだ」
「宝さんがルーズなだけです」
「……おい」
喋りながら沸かしたお湯をポットの中にいれ、蓋をし、蒸らす道祖。手のひらサイズの砂時計を反転させて、宝の前にティーソーサーとカップを置いていく。
「ま、道祖との契約は平日だと授業終了後一時間後から夜の八時まで、土曜は十一時から夕方五時までだとはいっても、そもそも高校生活が本分だ。今なんて入学最初の中間考査真っ最中だろ? 有給扱いにしておくから気兼ねなく休んでくれて構わないし、遅刻しそうなときだってあまり急ぐな。きちんと三時間分つけておくんだから」
「……だから、ダメですってば」
労基から怒られますよと道祖がぼやく。どちらが雇い主なのかわからない。砂時計の砂が完全に落ちきったのを確認した道祖は丁寧にカップに注ぐ。
うまそうだなと言って宝は鼻栓を取り紅茶を嗅ぐと、お前、安もんを使ったなとボヤく。
「ベルガモットの香りがもう酸化してる。前のフラガンシアはもうないのか」
「仕方ないですよね!? 昨日のお昼に大家さんにここの家賃払っちゃったし、明日には光熱費の引き落としがあるんですよ!? お財布の中がすっからかんで、しばらくはこれで我慢です! が・ま・ん!」
これ以上依頼を断らないでくださいよぉと怒る道祖に宝はなにも言えなかった。しばらく無言で飲んでいると、事務所の扉のノック音が部屋に響く。
「今日の来客予定は?」
静かな宝の声に首を振る道祖。原則事前予約制だが、飛び込みの依頼者かもしれない。こんなときは、未成年に正体不明な人物の応対をさせるわけにはいかないと宝は自ら対応する。
開けると外には無精ひげをはやし、葉巻を咥えている中年っぽい男が立っていた。鼻栓した状態でくぅんと鼻を鳴らした宝は帰れと睨む。
「それを捨てるか、回れ右しろ。つぅか、相変わらず不規則な生活送ってんな」
仕方ないだろと舌打ちした男は、手元の携帯灰皿で葉巻の火を消した。
道祖は見知った客人に紅茶を淹れ、今度は宝の隣に座った。正面に座った男、有間署刑事部捜査一課刑事であり、宝の同級生である大友 泉は無言で数枚の写真と『部外秘』と書かれている書類をテーブルに置く。
それをのぞき込んだ一拍後、宝は隣を見ずに早くトイレに行ってこいと促した。断りもせず道祖は駆け足で事務所の奥へ消え、水の流れる音が聞こえたあとにケロッとした顔の彼女が戻ってきた。
「《道祖神》には刺激が強すぎたようだな」
泉はもう一度、今回は慎重に写真を見ている様子をからかうが、黙殺する道祖。
「二ヶ月前に一件と今月で二件、管内三キロ範囲内で浴室から若い女性の水死体が見つかってる」
「たしかニュースでやってたな。有間病院看護師の翠野 鶯、有間大学理工学部四年生の佐々木 優華、そして近くのカフェの新米店員、甲斐田 美嘉だっけ」
「ああ。それぞれの被害者に繋がりはなく、それぞれの事件で被疑者と目された奴らはすべてアリバイがある。だから“他殺としての”決定的な証拠なしということで自殺と判断されかけてる」
「が、そうではないと。ここにその証拠を持ち込んだということは、他殺であるというのが香りによって証明できるのではないかとお前さんは睨んでるのか」
「話が早いな。その通り。現場以外の部屋には大量のちぎられた花びらが散乱していて、どう見ても自殺とは考えにくい状態。さらに被害者たちは一切香水も縁がなかったのにもかかわらず、匂いが充満していた――“香害”といえるくらいにな。第一事件の第一発見者曰く趣味の悪い店レベルだそうで、大量の空き瓶が転がってた。それぞれのガイシャにつき有名無名問わず八社以上はあったな」
流石にドルチェ&ガッパーナやシャネルの五番はなかったがなと言って紅茶をすする泉。
「お前さんたちに頼みたいことは、他殺であるという証拠と香水瓶と花びらが散乱していた理由、この二つを調べてほしい。もちろん必要なものは持ってくる」
彼の拝む姿にしゃあねぇなと宝は苦笑いした。
根掘り葉掘り泉から事件について説明してもらったあと、帰り支度をした彼を呼びとめる。
「今回こそ報酬期待してるぞ」
「お前な……――ワカリマシタ。じゃあまた、土曜日に。そうだ《道祖神》、今日の紅茶、いつもよりもおいしかったぞ」
一度は不服そうに文句を言うが、宝のひと睨みに泉は前言を撤回して、そそくさと出ていった。
泉に出した紅茶カップを片付けた後、道祖は彼が来たときから気になっていた質問を宝にぶつけた。
「さっきなにも喋っていないにもかかわらず『不規則な生活送ってんな』って言ってましたけど、なんでそんなことがわかったんですか?」
「ああ……アイツの体から少しかび臭いというか、添加物を置く含んだものを食べてるときに出てくる匂いが出てたんだ」
「なるほど。忙しい泉さんですからしょうがないですねぇ」
今度来たとき特製ハーブティーでも飲ませましょうかとちょっとした復讐心とともに考えだした道祖に、アイツに飲ませる茶はないと宝は斬り捨てる。
その次の土曜日、道祖とともに現場検証を行った宝は帰り際、あるものを泉に要求した。報酬とはべつに要求されたソレらをきっちり揃えた彼は翌日、それらを事務所に持っていく。
「持ってきたぞ」
「どうも」
「で、これからなにをするんだ?」
無造作に置いた紙袋の中から泉は小瓶をとり出して机の上に並べていく。
手前に十一本、奥に八本――合計十九本。
綺麗に並べられた小瓶を真横から眺めつつニヤリと笑う宝。
「ちょっとした謎解きだ。とりあえず他殺の証拠だけはすんなりと出てきた。道祖、準備はできたか?」
「もちろんですっ!」
奥から道祖がいそいそと出てくる。卓上コンロを抱えていて、これから季節外れの鍋パーティーでもするのかと錯覚してしまいそうな光景だった。
「現場となった浴室にあった桶からは三件とも同じ香りがした」
「もしかして俺が買ってきた――」
「ああ。この十一本のラベンダーの精油のどれかだ。同じ精油っていっても、産地や採取場所、採取時間によって含まれてる成分はわずかに違ってくる。まずはそれを今から嗅ぎわけてやんよ。それに……第一の被害者、翠野鶯のリビングには香水にも負けないくらいきっつい匂いが残ってた」
「それは、こっちの八本……?」
「その通り。詳細はあとで話すが、おそらく道祖の実験にもかかわるだろうな」
そう話しながら一本一本丁寧に香りを嗅いでいく宝の鼻は犬の嗅覚と同じくらい、それ以上の鋭さを持つ。
どこぞの妹みたいな人間ガスクロマトグラフィーではない。ただの人間ガス検知器だ。本人はそう自虐するが、それでもわずかな香り――すなわち微香を専門とする探偵である。
一方の道祖は高校一年生ながら化学分析の専門家。ひょんなことで宝に拾われてからは宝の依頼解決の手伝いをしている。
すべての精油を嗅ぎ終わった宝はにやりと笑いながら、二つの精油の小瓶を弾く。
「コイツらだ。ブレンド精油は第一犠牲者の居間に落っこちてた。まあありきたりなモンで鉱物オイルと柑橘系精油が混じってるが、精油のほうは酸化が激しい。使われてからかなり時間が経ってるーーしかし、問題はこっちだな。全部の浴室に付着していたラベンダー精油。こんな高いもんを余裕のない被害者たちが買うわけない。これは犯人によって持ちこまれたもん……――紛れもなく遺留品だ」