ステージフォーからの恋
三階にある個室の診察室は一階の戦場みたいな雰囲気とちがって、あまり物が置いてなかった。
会社がいけいけという人間ドックに重い腰を上げて行ったのが運の尽き。数値が悪いからすぐ精密検査してください、なんて産業医から怖い顔をされて紹介状を持たされて。
結果を聞きに病院に行ったらすぐにあまり患者さん達がいないフロアに通されて今にいたる。
告げるだけのお部屋はシンプルだ、と妙に冷静になっている自分がいて、でも告げられた言葉は思いの外どっしりと胸に届いた。
「ステージフォー、膵臓がんです。生存率は約8パーセント。余命は半年から一年の場合もありますし、五年生存した方もいます」
しっかりはっきりとこちらの目をみて言うお医者さんは、銀縁の眼鏡の奥から私を見守っていた。
私はへらりと笑った。
ああ、お任せしてもいいかも、となんとなく思えた。この真面目そうなお医者さんなら最後まで私をきっちり見てくれそう。
最近微熱が続いてた。
顔色悪くなってきたな、とは思っていたけれど。
私の中にいるのは風邪菌ではなかった。
「上条さんの身体を悪さしている主な原因は膵臓がんなのですが、既にリンパへの転移が見られます」
主治医の保坂先生はあらかじめパソコンの画面に出していた私のカルテを操作すると、骨と薄っすらと身体の線が写っている白黒の写真を見せてくれた。
ここが、一番悪さをしているところ、ここから血液を通ってリンパへの転移が見られること。丁寧にゆっくりと説明してくれる。
あまりに柔らかな声音に思わず言葉ではなく音として聞き取ってしまって、途中の説明がふっと飛んでしまった。
目がうつろになったのに気付いたのだろう。保坂先生はいったん言葉を切って、こちらをもう一度見た。
「大事なことなのでもう一度いいますね? 今後の治療方針なのですが、患部を切除し、予後をみながら抗がん剤での治療へ移っていきます。入院をするためにご家族の同意が必要なのですが」
「あ、家族はもういないので……どうしたらいいですか?」
「ええっと、それではご親戚の方は」
「海外に一人いますが書類のやりとりですとすぐにとはいかない、かな」
ではなるべく急いでお願いします書類が届き次第日程を組んでいきますので、と先生は後ろに控えていた看護師さんに指示を出してこちらに向き直った。
「書類が近日中に届くとして、だいたいどれぐらいには入院できそうですか?」
「そうですね、入院となると会社とか、相談しなくちゃいけないし」
「ええ」
「……上司と相談してまた返答させて頂いてもいいですか?」
「わかりました、次回の診察日には決めておいてくださいね。なるべく早めの方が良いので」
優しく励ますようにあいづちを打ってくれる先生は、お医者さんというよりも中学の保健の先生みたいだった。
病院を出て市内へ戻るバス停のベンチに座る。今日は水曜日、検査入院だったので週明けから会社を二日も休んでしまった。
仕事、たまっているかな。
うつろに自分の机のプラスチックケースを想ってみるのだが、うまく考えがまとまらない。ああ、でも部長に電話しなきゃ。
まだバスが来るまでに時間があったのでひとまず会社に電話をした。ツーコールで出た同僚に、部長を呼び出してもらう。
「上条です、お疲れさまです」
「ああ、お疲れさま。どう? 体調は」
「ありがとうございます。おかげさまで気持ち悪さは治りました。でも別の問題が出てしまってですね」
「なんだ、悪い病気でも見つかったか?」
「そんな所です」
変わりない部長の冷静な声に、自分のわさわさした気持ちが落ち着いていく。
今の現状を伝えようと思ったけれど、電話で言うことでもないな、と思い直した。
「部長、その件でお伝えしたくて。今日、明日でお時間頂けますでしょうか」
「……わかった。外の方がいいか? いまどこにいる?」
「あ、病院から出た所です」
「よし、駅まで行けるか? 早めのランチにしよう」
「了解しました。南口の方にいます」
「分かった。座って待ってろよ」
「はい」
いつもは仕事に関しての話しかしない部長が、私の身体を気遣う言葉がくすぐったかった。
電話を切ってしばらくロータリーを眺めていると、アリが道を歩いていくのが見える。アスファルトの揺らぎの中で暑さをものともせずに。
迷うようなアリもいれば道を知っているようなアリもいて、そっとその様子を見ていると大きな影と共に目の前にバスが止まった。
ICカードをタップしてバスから降りると、まだ夏のなごりの熱気が空気の圧となって私を取りまいた。
息苦しさをおぼえてたたらを踏むと、がしっと腕をつかまれた。部長だ。
「おっと、へろへろだな。病院は栄養食を出してくれるんじゃないのか?」
「ありがとうございます、部長。美味しかったですよ、病院が快適だったので世間の風が暑く感じただけです」
「一日二日でそんな儚くなってもらっても困るな。あまり時間がないんだ、近くの喫茶店でいいか?」
「はい、すみません」
駅近くの道を慣れたように奥に入った部長は、小さな一軒家風の喫茶店に連れていってくれた。
木目が綺麗なドアを開けて、マスター、奥使わせて、と入っていく部長の後ろについていく。はいはい、とにっこり笑った初老のマスターに会釈して暖簾をくぐって個室に入った。
「すごいですね、部長。こんな静かな所があるなんて」
「たまに商談で使うんだ。あまり知られていない店だから話しやすくてね。何食べる?」
水もこないうちに部長はメニューを広げる。
私は正直食欲はなかった。小さくて食べ切れそうなものを探す。
「ミックスサンドにします」
「ひよってるなぁ。あ、マスター俺はカツカレー、こっちにはサンドウィッチね。飲み物は?」
「紅茶にします」
マスターにアイスかホットかと聞かれて温かい方にした。部長はアイスコーヒー。カレー食べた後は冷たいもの欲しいですよね。
すぐに二つとも出てきて、いただきます、と二人で手を合わせてると部長はがつがつと食べ始めた。
あっという間に半分を平らげていく。その生命力がまぶしくて、私はしばらくサンドウィッチを両手に持ったまま見惚れてしまった。
「見てないで食えよ? それともこっちが食べたくなった? あーんするか?」
「部長、私が新人だったらセクハラって言いますよ」
「こんなのもセクハラか。世知辛いねぇ」
ふん、と鼻をならして食べ続ける部長がなんだか可愛らしく思えてしまう。
あちぃ、とネクタイを緩めながははふはふと食べる姿はとても四十代とは思えない。
「で? 医者からなに言われた? 近々入院でもするのか?」
ぺろりと食べた部長はお冷をいっぺんに飲み切ると、気持ちよくグラスを置いて聞いてきた。
私は手に持った食べかけのハムサンドを皿に置くと、少しだけ居ずまいを正した。
「そうですね、ちょっと長くかかりそうです。仕事を辞めなくてはいけなくなってしまって」
「どういうことだ? 入院だけなら療養休暇でいいだろう」
「ええと早ければ余命が半年なのです。ご迷惑をかけてしまうので辞めることにしました」
ぽかんと口を開けた部長を初めてみた。
申し訳なさがこみ上げてくる。中途半端な時期に採用募集をかけてもすぐに変わりの人なんてきやしない。なるべく迷惑をかけないように辞めたいとは思うけれど。
「上条。今日はエイプリルフールじゃないよな」
「残念ながら九月に入ってますね」
「……本当に?」
「申し訳ありません」
私はへらりと笑うと、深々と頭を下げた。
あ、いや、とりあえず頭は上げて、といった部長は絶妙なタイミングで届けられたアイスコーヒーを手に掴むとまたストロー度外視でまた一気に飲んだ。
「部長、お腹こわしますよ」
「飲まずにやってられるか、上条こそやけに冷静だな」
「そうですね、まだ現実味がなくて」
昨日と今日で変わりない自分。尊敬する部長と二人きりでご飯を食べれてラッキーだなぁと思ってしまうどうしようもない脳みそ。
私こそ、信じられない。
もしからしたら半年で死んでしまうなんて。
部長とこんな風に会うのも、これが最後かも。
「えっと、ひとまず辞表を書きますね。募集をかけても引き継ぎは間に合わないかもしれないので、明日から三浦さんに補佐に入ってもらってもいいですか? 彼女は私と同じ仕事を前にしていたと思います。できれば一ヶ月をめどにして辞めたいと思うのですが、大丈夫でしょうか」
「あ、ああ。皆には、言うか?」
「んー……ご迷惑をかけるので、一身上の都合で」
「いいのか、それで」
「治るみこみがかなり低いそうなので」
「がんか」
「ええ」
会社に戻ってこられそうだったらもちろん現状を言うけれど、部長でさえ動揺させてしまう案件だ。会社の皆さんにはつつがなく日常を送ってもらいたい。
「後で俺が非難されるとしてもか?」
「そこは可愛い部下の頼みと思って甘んじて受けてもらえませんか?」
「その上目使いは逆セクハラだと思うぞ」
「世知辛いですね」
「まったくだ。頭出せ」
「?」
いいから、頭をこちらにだせ、と言われて私は少し机から乗り出して頭を部長に差し出す。
わしゃわしゃと音がなりそうなぐらい頭を撫でられた。
「部長。これは本当にセクハラです」
私は撫でられたおかげで眼鏡がずれてしまったのをかけ直しながら身をよじって逃げると、部長は甘んじて受けるよ、口元は笑いながら深い眼差しでこちらをじっと見ていた。