へっぽこ探偵東堂ツナグの複雑快奇な物語
東堂ツナグは探偵だ。
探偵の仕事はさまざまで、素行調査や浮気調査のようなスパイじみた活動だけではない。
今の彼のように春先の昼間に汗水垂らして迷子犬を追いかけるのも、探偵の立派な仕事だ。
「待って、待ってシロ! お願いだから話を聞いてくれないか!」
こなれたジャケットを着こなした二十五歳ポニーテール男性は必死に犬を説得しようとする。
それに反して白い毛並みの犬は道行く人の隙間を縫うように駆けていく。
運動不足の人間と育ち盛りの犬の勝負は、どちらが勝つかほぼ明白だった。
それでもなおシロは手を緩めない。
ツナグを嘲笑うかのように急な進路変更。
左の路地へと抜けていく。
それを追いかけようとして──
「っとと」
「よーしよし、いい子だねぇ」
──曲がった先でしゃがんでいる少女に気がつき足を止めた。
健康そうな小麦色の肌と脇に置いたエナメルバック、身に纏ったジャージから地元高校の生徒であることが伺える。
少女は真っ白い毛並みを堪能するかのようにわしゃわしゃと撫で回していた。
肝心の迷子犬は先ほどまで元気に走り回ってた威勢はどこへやら。
その手に甘えるように仰向けになっている。
追いかけっこの終わりを悟ったツナグは息をついた。
「あ、ありがとうございます、その子を止めてくれて」
「いえ! 昔から動物には好かれる家系なんです!」
活発そうに笑う少女。
汗だくのまま口の端を引き攣らせているツナグとは対照的だ。
「お兄さんの犬なんですか?」
「いえ、迷子犬です。依頼で」
「依頼……ってことはもしかして探偵の方だったりしますか!?」
「よくご存知で」
「ドラマで見ました!」
探偵というものが普段日常で会うことのない存在だからか、少女はキラキラと目を輝かせる。
大抵の人間はアニメや漫画の影響でこういった地味な活動をしていると驚かれるのだが、彼女はそういったタイプでもないようだった。
「すみません、ちょっと深呼吸を。息が続かなくて」
「どうぞ!」
このままだと会話すらままならないと判断したツナグは呼吸を鎮めようとする。
吸って、吐いて──
「あ、東堂ツナグさんって人を知ってますか? 依頼したいことがあるんです!」
「ごほっ、ごほっ」
告げられた名前のせいで、まだツナグの息は収まりそうになかった。
迷子犬を依頼主の下へ返した後、ツナグは少女と行きつけの喫茶店までやってきていた。
マスター以外誰もいない店内はBGMだけが静かに響いている。
ツナグがコーヒーを、榎本シオリと名乗ったその少女がりんごジュースを飲みながら話を再開した。
「はぁ……助かりました。あなたがなければ夜までかかっていましたよ。あーしんどい」
「だ、大丈夫ですか?」
「えぇ、すみません。最近運動不足なものでして」
ふぅと大きく椅子に背中を預けるツナグ。
上を向いたせいで後ろで結んだ髪がひょろりと揺れる。
次に顔を戻した時には、疲れで澱んでいた目に光が宿っていた。
「それで僕に何か? 用があったようにお見受けしましたが」
「あ、はい! えっとですね、お姉ちゃんの彼氏を調査してほしいんです!」
「ほう」
その言葉にツナグは驚きで目を見開いた。
「僕でいいんですか? 自分で言うのもなんですが、探偵業なら探偵に頼んだ方がいいと思いますよ」
「えっと、あなたも探偵さんですよね?」
「そうですよ。もしよければツテで腕のいい方を紹介しましょうか?」
「……本当に探偵さんなんですよね?」
「はははっ、疑い深い人だなぁ。さっき名刺も渡したじゃないですか」
好青年っぽい、ともすれば胡散臭さすら感じる笑みを浮かべるツナグ。
だが、すぐにその表情が引き締まる。
「それにですね、僕のやり方は少々特殊だ。僕だけならともかく依頼人である貴方にも被害が及ぶ場合があります。あなたは何も知らないで僕のところに来たようですし、なおさら他を当たった方がいいですよ」
「カイイ? を相手にしてるのはツナグさんを紹介してもらった時に聞きました!」
「それだけじゃないんですけどねぇ……」
先ほど道中でいくらか話を聞いたが、このシオリはツナグの関わる世界と無関係だ。
あまり深く話を聞く前に普通の探偵事務所へ行ってもらおう。
そんな考えとは裏腹に、シオリは決心したような瞳で語り出してしまった。
「お姉ちゃんの彼氏、透明人間なんです」
「……」
「一ヶ月後に結婚するって言ってるんですけど、お父さんとお母さんがもう反対しているんです。何ならおかしくなったって強制入院させようともしてるみたいで……」
一瞬、シオリの顔に影が落ちる。
「でも、私はお姉ちゃんはおかしくなってないと思うんです。だってお姉ちゃん、何も変わってないから。優しいお姉ちゃんのままだから」
だが、次に顔を上げたときには強い決意がみなぎっていた。
「だから私はお姉ちゃんの味方になってあげたいんです。そのために彼氏さんが本当にいるのか、どんな人なのかを知りたいんです。東堂さん、お願いします」
「いやはや、これは困った……」
あぁ、困った。とても困った。
それを聞いてしまったらツナグは引けないのに。
快異は人とともに歩めるはずだっていう夢はもう捨てたのに。
どうやらそれを知って仕向けた人がいるようだとツナグは察した。
「一つ質問を。僕の名前をどこで知りましたか」
「これを渡せって言われてたんでした」
「──その絵葉書をどちらで?」
すぅっと眼鏡の奥でツナグの目が細まる。
彼女が差し出したのは、広い牧場が写された一枚の絵ハガキだった。
彼の問いかけに少女は首を捻る。
「これは……あれ? 誰だっけ。えっと、えっと……」
「あぁ、無理に思い出そうとしなくて大丈夫ですよ。絵ハガキが届いたということが大事ですから」
「そうですか? ごめんなさい」
ぺこりと頭を下げる少女に笑って手を振る。
元より、ツナグには絵ハガキの差出人が予想できていた。
送り主である彼女との因縁は長い方だ。何度もこの手のハガキは送られてきている。
少し期待しただけだ。
他人の記憶に残れないあの【快盗】が、自分以外の人間に覚えられていないだろうかと。
「ちょっと拝借しますね」
丸っこい手書き文字で書かれていたのは、楽しそうな近況報告だった。
どうやら今回はそっち方面に旅行していたらしい。
そして、最後には目の前の少女の頼みを聞いてあげてほしいということも綴られている。
「ふぅ……いいでしょう。依頼を受けます」
「やったぁ!」
両手を上げて喜ぶシオリ。
「彼女のワガママを聞いてしまうのは、僕の悪い癖ですね」
そんな少女を見ながら、ツナグは苦笑いで自責をこぼした。