夢を追うキミと、キミを追う私
――もうそろそろ、潮時なんじゃないかしら?
長年続けてきたバイオリンを、両親や周囲の人からのそんな言葉によって諦めた私――三崎蓮華。毎夜悪夢に苛まれるほどの後悔の中、それでも最愛の人との日々を重ねるごとに、少しずつその悪夢から抜け出そうとしていた。
……しかし、悪夢は現実にまで浸食し、私の前に現れる。
最愛の人もまた、過去の私と同じバイオリンに夢を抱いていたのだった。無邪気に、そして一心不乱に夢を追う姿に、忘れようとしていた後悔を思い出す。……果たして、あの選択は正しかったのだろうか、と。
夢を追う彼女と、彼女を追う私。……私は、彼女の背に何を見出すのだろう。
――もうそろそろ、潮時なんじゃないかしら?
あの日言われた無慈悲な宣告を、今日もまた夢に見ている。
もう、終わった話なのに。もう、私にはなんの関係もない話なのに。……それでもまた、今日もこうして夢の中で反芻している。
……ああ、いつになったら、私は夢を諦められるのだろうか――
*
「おーい? 蓮華さーん? そろそろつきますよー」
「……うぅ。み、美夢……?」
可愛らしい声と、肩に伝わる優しい衝撃で眠りから覚める。……どうやら、バスの中でうっかり寝てしまっていたようだ。
「あ、やっと起きた。おはようございます、蓮華さん。そろそろ着きますよ、引っ越し先」
「おはよう、美夢。……どれくらい寝てたのかしら、私」
美夢の肩にもたれかかってしまっていたことに気付き、恐る恐る尋ねる。
「せいぜい十分くらいですよ。――それより、なんかうなされてたような気がしたんですけど、大丈夫です?」
その問いかけで、先程の夢をまた思い出す。……あの日以来、何度となく見た夢。忘れよう、切り替えようと何度思っても、また夜になれば同じ夢に苛まれる。そんな、まるで呪いのような夢。
「……ええ、大丈夫よ。ちょっと、昔の嫌なことを思い出しちゃっただけだから」
美夢に嘘を吐くのも気が引けて、半分は本当のことを話して誤魔化した。
「もう。……蓮華さんったら、無理しないでくださいよ。うなされるくらいなら、相談して欲しいです」
混じり気なしの、純粋で純真な善意。……だからこそ、美夢に告げる訳にはいかない。きっと、私の求めている答えを言ってはくれないだろうから。
「ふふっ、大丈夫よ。――もう、ずっとずっと昔の話だから」
だから結局、こんな嘘を吐く。……本当は、まだ一年と経っていないというのに。
*
私――三崎蓮華と彼女――朝倉美夢は、同じ会社に勤める先輩後輩の関係だ。といっても、それは表の関係。そう、ただの先輩後輩というだけではない。……もっとも、それを公言することはきっとないだろうけど。
「ふぅ、ようやく片付きましたね、蓮華さん」
「ええ。足りないものはあとで買いに行きましょうか。……とりあえず、お昼でも食べる?」
「はいっ。なにか出前でも取りましょうよ。まだ食料なんにもないですし」
一人で住むには広すぎる、しかし二人で住むには少し狭い、そんな広さのアパート。今日からは、ここが私たちの暮らす場所だ。“いつか、二人で同じ部屋に住んでみたい“、そんな私たちの願いが、ようやく今日叶ったのだ。
「二人で住んでること、会社の皆になんて説明します?」
「そもそも話す気ないわよ。下手なこと言えないもの」
「まあ、本当のこと言う訳にはいかないですもんね。“恋人同士で同棲始めましたー”、なーんて言ったら皆になんて言われるか」
「下手したら退職ものよ。うちの会社の人、その辺の考え方古いもの」
そう、私たちはただの会社の先輩後輩というだけではなく、恋人同士なのだ。……いまどき同性同士での恋愛なんて割とありふれた光景だけど、まだまだ世間の目は厳しい。
「いつか、堂々と恋人宣言できる日が来るんですかねー?」
「さあね。……ま、私は今のままでも十分幸せだし、別にどっちでもいいわ」
だって、こうしてとりとめのない話を美夢としている間は、あの毎夜夢に見るあの光景を思い出さなくて済むのだから。
*
……そして、また今日も夜がやってくる。
気づけば、私は今日もまた夢の中。ステージに上がる為の紺色のドレスを身に纏い、ステージの上に立っていた。手に持つのは、これもまた毎夜夢の中で見慣れたバイオリン。実際のこのバイオリンは、もうとっくに私の手を離れているというのに。
『はぁ。歴が長いからどんな逸材かと思ってましたけど、そうでもなかったですね』
『ああいうのを、“下手の横好き”って言うんだろうさ。ともかく、あれはもうだめだろうな』
ステージ裏から聞こえてくるやり取り。……あの日以来、一日たりとも思い出さなかったこののない言葉。
彼らの言葉が真実であることも、私は分かっている。子供の頃からずっと続けてきたけれど、その経歴に似合う実力を持っていないということくらい、私は十分分かっている。
「……それでも」
それでも、諦めたくはなかった。届かないとしても、時間の無駄でしかないとしても、諦めることだけはしたくなかった……、はずなのに。
『もうそろそろ、潮時なんじゃないかしら?』
『これ以上はもう、俺たちも面倒見切れないよ』
本来この場にはいないはずの人たちの声が脳裏に響く。……両親の声だ。一番の理解者だと信じて疑わなかった人たちからの、無慈悲で無神経な宣告。……私がこれまでどれだけやってきたか、一番知ってるはずなのに。私にとってこれがどれだけ大事なものなのか、一番分かってくれているはずなのに。
……なんで。なんで私から夢を奪うのよ。
その一言は、夢の中ですら声にすることはできず。今日もまた、私の手からバイオリンは消えていってしまった。
*
「……あれ、蓮華さんってば夜更かしですか? あしたから普通に会社ですし、寝た方がいいんじゃないです?」
「それは美夢もでしょ、ふふっ。大丈夫よ、すぐにまた寝るから」
夢から覚め、飛び起きた私。もう何時間も経ったかのように思っていたけど、実際には床についてからたった一時間程度しか経過していなかった。
「……ひょっとして、またうなされたんですか?」
「はぁ。するどいわね、美夢」
言い訳するのも滑稽に思えたので、素直に認める。
「もう、蓮華さんったら。なにがあったのか教えてくださいよ。うなされるくらい悩んでるんですよね?」
そう言いながら心配そうに私の顔を覗き込む美夢。……一瞬、全てを話して楽になってしまおうかという気持ちになるけれど、やはりそういう訳にはいかない。
「大丈夫よ。大した話じゃないから。……それに、美夢の顔を見たらだいぶ落ち着いたわ。ふふっ、同棲して正解だったわ」
「……なら、いいですけど。無理はしないでくださいね、本当。――じゃ、今度は一緒に寝ましょうか。それなら嫌な夢も見ないで済むんじゃないですか?」
「あら、ひょっとして誘われてるのかしら?」
「あはは、そのつもりはなかったですよ? まあ、蓮華さん次第ですけどね」
沈んだ気持ちを消し去るために、わざと軽い調子で話す。そんな私の思惑に気付いてかどうかは分からないけれど、美夢もそれに合わせて軽い調子で返してくれる。……本当に、私にはもったいないくらいの良い子だ。
「蓮華さん。……私、いつでも助けますからね」
「……ありがと。でも、もう十分助けられてるわよ」
破れた夢に苛まれ続けて、もう一年近くが経つ。それでもまだ、あの悪夢から抜け出せる気はしない。
……でも、今の私の隣には美夢がいる。私のことを理解してくれる、愛してくれる最愛の女性が、私の隣で屈託のない笑みを浮かべている。だから、あの悪夢なんてもう恐れるに値しない。あんなものに、もう私は苦しまない。
――そのはず、だったのに。
*
「じゃ、行ってくるわ。あんまり遅くならないつもりだけど、会社でたらまた連絡するわね」
「はーいっ。行ってらっしゃい、蓮華さん!」
同棲を始めてから約二週間経ったある日。この日の美夢は有給休暇を使っていて、仕事に行くのは私だけだ。
「行ってきます。美夢もどこか行くなら気を付けてね」
「大丈夫ですよ、今日は引きこもってるつもりですから、ははっ。今日はただ有休を消化したかっただけですし。じゃ、今度こそ行ってらっしゃーい」
こうして、いつもと少しだけ違う一日が始まった。……といっても、なにか大きな違いがある訳じゃない。いつも通り淡々と仕事をこなして、いつもより少しだけ急いで家に帰るだけだ。
――夕方。いつもなら仕事の終わりを意識し始める時間だが、今日は少しばかり事情が違った。
「それでは、今日はどうもありがとうございました。今後ともよろしくお願いいたします」
いま私がいるのはとある取引先の会社の会議室。予定ではもう少し時間がかかるはずだったのだが、ありがたいことに早めに終わった所だ。
「お疲れ様です、三崎です。今もう会議が終わったのですが……、どうしましょうか」
「ああ、お疲れ。せっかくだし、予定通り直帰してかまわないよ。じゃ、お疲れー」
会社に報告の電話を入れると、気の抜けた声でこう言われた。……まあ、せっかくだしお言葉に甘えておこう。
「ただいまー。……え?」
こうしていつもより一時間近く早く家へと帰りついた私を出迎えたのは、よく聞き慣れた弦楽器の音。……未だに毎夜夢に見るあの悪夢でいやという程に耳にこびりついている、あの忌まわしき音。
「ああ、蓮華さん。早かったですね?」
「え、ええ。ただいま、美夢……。えっと、それは……」
「ああ、これですか? 実はずっと昔からバイオリンとか弾いてみたいなー、って思ってまして。この前奮発して買ってみたんです。……中古ですけどね」
そう言って、笑いながら私にそれを見せてくる。
「……っ。それって……」
見覚えしかないサイズ、形、……そして、傷。それは、あの夢で私の手にあるそれと、全く同じもの。……そう、あれは私が長年使い続け、そして手放した、私のバイオリンそのものだった。
こうして、あの悪夢は現実へと浸食を始めた。――最愛の人を通じてという、最悪の形で。