とある酷評家のドッペルゲンガー殺し
二〇二一年、四月二十四日、まだ他の店舗が開いておらず、閑散としているショッピングモールの映画館を訪れる。この日が公開初日となる、ある作品を見るために朝早くからここに来た。
原作は週刊誌連載されていた少女漫画で、鳴かず飛ばずといった具合の人気で、幾度となく編集の意向が見え見えの急展開(俗に言う、テコ入れというもの)を経て、なんとか支持を獲得。さらに某人気アイドルが好きな漫画作品として挙げたことで、ようやく人気に火が付き始める。某芸能事務所が目をつけ、事務所所属の演技未経験のグラビアイドルやティーンズモデルといった、ほぼ素人同然の役者を出演させる条件で映像化プロジェクトが立ち上がる。
この完璧なまでに地雷臭がたちこめる作品の公開をどれほど待ちわびたか。粗という粗を探しまくり、思う存分にこき下ろしてやろう。それを映画コラムにして、大量の広告と抱き合わせてページ数を稼いだサイトに掲載する。自分で言うのもなんだが、まじでクソみたいな仕事だと思う。芸能人のゴシップばかりを漁るライターと同等の腐り様だ。この作品を見てよかったと思う人間全員からは、「死ねばいいのに」と思われることだろうが、そんなことは構うものか。
俺は生きるために酷評を書くんだ。
もう夢なんて捨ててしまった。どんなに作品を称賛する記事を書こうが、ほんの一握りの作品に興味がある層しか吊り上げられない。だが、酷評は違う。作品に興味がない層は、嘲笑いながら読んでくれる。興味がある層は、怒りの感情を持ってもらえる。その怒りを抑えきれず、あまつさえネットに拡散してくれる。だから酷評は素晴らしい。そう、素晴らしいはずなんだ。
捨てたはずのほんの一握りの良心を、ため息とともに排泄し、着座した。
スクリーンに流れ始めた予告編を食い入る様に見つめ、次のネタを探す。これが少し難しい。映画を見に行ったら、本編よりも予告編の方が面白かった。なんてことがよくあるものだ。思うところ、作品というのは、それに触れている間だけ人間を楽しませることができれば、後に何も残らなくとも勝ちなのだ。悪い作品というのは、触れている間に人間を退屈させ辟易させる。その点、“展開の引き”だけを繋いだ予告編は、注意深く見ていないと、“地雷原”を探しにくい。比較的分かりやすいのは、“全米が泣いた”だの、“今世紀最高”だの、大袈裟な煽り文句が目立つ予告編だろうか。こういうものには、香ばしさを感じてしまってたまらない。あとは芸能情報に精通していれば、
それから、観賞中のマナー徹底を訴えるショートムービー、提供を経ていよいよ本編が上映される。上映時間は百二十八分。途中でトイレに立たないようにと、願いを込めて水分を奪うポップコーンをひとつかみ口に含んだ。
***
いい映画だった。主演の男性ティーンズモデルはルックスは中性的で清潔感溢れる美少年。昨今では感染症対策のため開催が難しくなった応援上映会では、女性客から黄色い声援を送られるような存在感だ。だが、演技となれば表情が妙に堅苦しく、特に笑顔が下手だ。表情を使った演技にまだ慣れていないからだろう。写真で魅せる顔つきと、映像で見るものを引きこむ表情は違う。ここら辺はヒロインを演じていたの方が、地下アイドルやグラビアアイドルを経験しただけあって数段上手だった。どちらも声の抑揚が駄目だったが。などと喫茶店で見た映画の駄目だしをノートに書き連ねている時間が最高に楽しい。
新型感染症が流行し、皆がマスクの着用を習慣化しているこのご時世で感謝すべきことは、喫茶店の座席で独り薄ら笑いながら筆を走らせていても、誰も気にも留めないということだ。ひとしきり悪いところを書き連ねた紙面を眺めて、表情を殺しながらマスクを取り、アイスコーヒーで喉を潤す。目を瞑り、鼻に抜ける香を愉しんでいたところで、誰もいなかったはずの向かいの席から声が聞こえた。
「あなたも見たんですか。あの映画を。いやあ、いい映画でしたね」
聞き覚えのある声だった。
俺の声をちょっとばかし若くしたような声だ。飲酒をもう少し控えていたか、ここまで捻くれた人間に成り下がらなければ、そういう声をしていたかもしれない。
眼を開けると視界に、俺から毒を抜ききったような気の好さそうな三十代前半ぐらいの男性が向かいに座っていた。傍から見れば、マスクもしているわけだし、とてもそうは見えないだろうが、気味が悪いほど俺に似ている。腕のいいボクサーに顔面を数発殴らせて、眉間に彫刻刀で十数本皺を刻み込めば、今の俺の顔になると思う。
「失礼ですが、どなたでしょうか」
「これはこれは紹介が遅れました。数年前に親睦会でご一緒していたものですから、名乗るのを忘れておりました」
そう言って渡してきた名刺には、“水野まるお”という、かの有名な映画評論家の名前をもじったペンネームが記されていた。自分と同じくWEBライターとして活動しているらしいが、見たことがない。だけど、どこか懐かしい名前だ。
「同じ映画を見ていたのも何かの縁でしょうから、少し話せませんか」
こういう横のつながりは持っておくべきだから、断る理由はない。だが、少々気味が悪い。
彼は、確かに心からそう思っているようなトーンで、あの映画をいい映画だと称えた。“酷評ライター”で名が通ってしまっているし、今回も最高のアンチ記事をこれから書き殴ろうという俺とは対極の存在。まさに水と油といった具合のはずだ。
だが、彼が、あの映画の一体どこを見て、いい映画だと思ったのか興味があったので、互いに名刺を交換し合った後に相席を許すことにした。
「水野さんは、あの映画のどこを見て良いと思ったのですか」
「そうですねええ。原作の長さの関係上、どうしても途中のエピソードだけを映像化した形になってしまいましたが、そうした際の視聴者にとっての障壁となる要素、原作未読者への配慮や、話のまとめ方が上手かったですね」
確かに言われれば、それは思うところがあった。ストーリーだけで言えば、漫画と実写映画を比べるなという話ではあるが、原作よりも面白いと感じた。
「加えてキャストも原作のキャラクター像に近く、原作を読みこんでいても違和感が少なかったです。役者の演技に関しては、これからという印象ですが、脚本とプロデューサーは、大変に良い仕事をしたと思います。役者も脚本も上手い映画が良いのはもちろんですが、やはり、企画がしっかりと地盤を固めたところで役者がキャリアに拘わらず、のびのびと演技ができている作品がないとこれからの邦画は育ちませんよ」
彼の口からは、的を得ていて説得力のある賞賛がすらすらと出てくる。
自分も気づかなかったわけではない。昔の俺ならその観点の意見も書いていただろうが、それがバズる確率が低いと気づいてしまった今の俺では、言及すべきことではないと捨ててしまう。それをきらきらした表情で語る彼を見ていると、ものすごく死にたくなる。
これで意見交換を求められたら、こちらのメンタルはボロボロなわけだが、当然そういうわけにもいかず、「あなたは、どう思いましたか」なんて調子の良い声で聞いてきやがる。正直言おうとしていたところは、全て先に言われてしまっている。咄嗟に後頭部を掻きむしろうと挙げた右手を、慌てて下ろす。こちらが焦っていることなど、意地でも悟られたくない。
ようやっと意見が固まって、それを吐き出そうかとしたところで、向かい合った席に誰も座っていないことに気づく。彼の姿が忽然と消えてしまっていたのだ。テーブルの隅に置いていた彼の名刺だけを残して。
――不思議なことがあるものだ。知らぬ間にうたた寝をして、変な夢でも見ていたのか。
自室に着いた後、首を傾げながらデスクに向かい、ノートに記した内容をワードに打ち込んで記事の骨組みを作る。そこから記事の見出しを考え、それぞれの話題のパワーバランスを決めていく。
ある程度、記事の論旨が固まったところで、少し気分転換に気になっていたことを調べてみた。
あの喫茶店で体験した、白昼夢のような出来事に出てきた登場人物“水野まるお”というライターについて、だ。検索をかけるとヒットしたのが、二〇一三年に書かれた、それも無料ブログのフォーマットを使用した個人記事であった。
『水野まるおの映画評論館』というペンネーム以外は何の捻りのないタイトルを見た瞬間に、戦慄が走る。
自分が大学生時代に書いていたブログだ、と気づいてしまった。
それから名刺に乗っていた、ありとあらゆる連絡先を調べた。事務所の所在地は、自分が就職活動で面接を受けた出版社のもので、SNSのアカウントは七年前から放置していた自分のアカウント。どれもこれも過去の自分を切り貼りしたような内容だった。
ストーカーが仕組んだ質の悪いイタズラみたいだ。心の中で呟いたところで、ある事実に気づく。
俺は、彼と名刺を交換してしまっていた。
それも個人の連絡先が記された物を。
BGMも流していない中で自室に響く、年がら年中つけっぱなしの換気扇の回る音を着信音がつん裂いた。
思わず生唾をごくりと飲み込む。
スマートフォンの画面には、まだ登録はされていないが、見覚えのある電話番号が映っていた。
「どうもお昼は楽しかったです。あなたはきっと私のことを、さぞ薄気味悪く思っていることでしょう」
「水野さん、あなたは何者なんですか?」
震える声で恐る恐る尋ねる。
電話の向こうで彼が、にたりと笑って唇が擦れ合う音が聞こえた気がした。
「私ですか? あの日、夢を捨てなかったあなたですよ」