パイロット・ドラゴン
国王の異母妹アウグスタ・ルイーゼは、魔物討伐に参加し心身に深い傷を負い帰還した。一年ほど王城で療養生活を送っていたが、口さがない噂を耳にしてほとんど自室から出られなくなってしまう。妹を案じた国王は、思い切って遠方の小さな同盟国へ彼女を療養に向かわせる。
どこまでも続く青みを帯びた緑の海、広がる森、湧き出す温泉に陽気で人懐っこい住民。とりわけ目を引いたのは、船を迎えに来た海を走る竜の群れ、パイロット・ドラゴン。島を守る霊獣の彼らは住民たちを背に乗せ、航海や漁の手伝いをするのだという。
新しい土地での生活でルイーゼは次第に回復していくのだが――
頬を撫でる風を心地よいと感じたのは、ほんのわずかな間だけだった。
船酔いで青白くなった私の顔を見たばあやに言われるがまま甲板にまで出てきたものの、今は照りつける強烈な日差しで吐き気が頭痛に変わってきている。かといって船室に戻る気にもなれなかった。
大きな溜息を吐き、ばあやが過ぎ去った航跡を見やった。日差しが強いからと差してくれた傘は、海風に煽られてはるか彼方へ飛んでいってしまった。
「大きな船であればどんな嵐でも酔わないと聞いたことがあるのですが、そうとも限らないのですね」
ハンカチで口元を押さえながらの呟きにばあやがうなずく。
「もう少しの辛抱でございますよお嬢様、島の影が見えて参りましたからね」
ばあやの言葉通り、青と白しかない世界にぽつりぽつりと黒と緑が交じってくる。
あの次第に大きくなってくる影こそイーリャ群島。都より遠く離れているものの、気候は暖かく温泉があり、豊かな実りの森が広がる楽園のような地だと聞く。
その島には竜を乗りこなす陽気な人々が住むという。竜は大陸のものと姿や習性が違い荷馬ほどの大きさでよく人になつき、航海や漁の手助けをしてくれるのだと。この一年ほとんど臥せって過ごした中、私を気遣った甥と姪が持ってきてくれた物語は私の心を躍らせた。
「イーリャ紀行にあった通りでございますね。勉強をした甲斐がありました」
ばあやは明るい声を上げながら、島の影を指している。暗い船室の中であれこれ考えているより気晴らしになるでしょう、と優しく背をさすってくれた。
「ええ、ええ。せっかくばあやと勉強してきたのですから、きっと島の者たちとも仲良くなれます。あの本の通りに竜が海を駆ける様をこの目で見たいですね」
ぎこちなく唇の端をつり上げ、両手を合わせはしゃぐ仕草を作る。
見渡す限りの大海原に青と緑の点が生み出す白い筋は、どんな風に私たちをときめかせるのだろう。
そう思った瞬間に溢れた涙を止める術など、持ち合わせてはいなかった。
「美しい海を眺めながら心穏やかに過ごせば、きっとお嬢様の傷も癒えるはず。口さがない者たちはあれこれ言うかもしれませんが、陛下もお嬢様の為を思ってあえて異郷での療養をおすすめされたのですよ、ね」
本当にそうだろうか。兄は療養の名目で役立たずの妹を追い出したのではないのか。
ばあやが私を抱き寄せてまた撫でさする。この一年ほどずっとこの繰り返しだ。マストの上から見張り係が痛ましげに見ている。彼ら本来の仕事は上陸の準備や異変に備えて高所から警戒することなのだが、私が何かのはずみで海に飛び込まないよう見張るのも追加されている。もっとも、こんなに激しく船酔いしていたらそんな気力すら湧かないのだが。
「お飲みなさいな」
顔を上げると、私と同い年くらいの黒い服を着た娘が氷水入りのグラスを差し出してきた。氷水からはわずかなマナを感じる。それはばあやも同じようで、顔を強張らせている。
娘に促されるままゆっくり氷水を飲んでいる内に、頭痛と吐き気は少しずつ収まっていった。
「ごめんなさい」
「そこはありがとうっていうところよ! わたしはごめんなさいより感謝されるのが大好きなのよ!」
「えっ、ごめ」
「ありがとうよ!」
「ありがとうございます……」
小さな声でも、彼女は満足そうにうなずいてくれた。
「どんなに健康でも、船と相性が悪い人がいるの。ましてあなたは船旅が初めてでしょう?」
改めて見つめると、眉も目もきりりと吊り上がって気の強そうな美しい顔をしている。見覚えはあるのだがどこで会ったか思い出せない。着ているものは船内メイドの制服とは違うし、当然ながら私が連れてきた侍女たちの中にもいない。
「誰かに似ているような気がするのだけれど、私とあなたは前にどこかで会った?」
「いいえ、この旅が初めて! 初めてのお客様にいいものを見せてあげるわ!」
娘は私とばあやに少しの間耳をふさいでねと悪戯っぽく笑う。私たちが耳をふさいだと確認したとたんに人間とは思えない大きな声でぼぉう、ぼぉうと二度鳴いた。
「お嬢様!」
「な……なんなのその声!」
とっさに私に覆いかぶさったばあやの下で、私も思わず叫んでしまう。娘は驚いたでしょうと愉快そうに笑って海を指さした。
「今のは島からお迎えをよこしてって合図なのよ。もうすぐ来るから楽しみにしてて、きっとあなたの船酔いも吹き飛ばしてくれるから」
「合図? それは確かにあなたの今の声は人間とは思えないほど大きかったけど、海の上から島に届く訳ないでしょう」
「ふふーん。まだ気づかない?」
娘の笑いがにやにやしたものに変わっている。と、その背後から船長がつかつかと歩み寄ってきた。
「合図を送る時は飛べと言っているだろう、お二人に何かあったらどうしてくれるんだ!」
眉と目が吊り上がり、意志の強そうな顔立ち。ああ、よく似ている。見覚えあるように思えたのはこのせいか。船長とよく似た顔立ちをしている。彼の娘だったのか。
「少し驚いただけです、どうぞお構いなく。それよりお嬢さんのおかげで楽になりました」
「……船長、わたしまた船長の娘と思われているみたいよ?」
「勘弁してくれ」
船員たちに指示を出しながら、船長が面倒くさそうに手をひらひら振った。
そこでようやく思い当たった。
「ばあや、私船霊を見るの初めてです」
「それはようございました」
船には女の神霊が宿る。必ずしもすべての船に宿りその姿を見られるとは限らず、造船時により多くの人の手が入った船ほど魂が宿りやすいと伝えられる。神霊を宿した船は、荒海を乗り越えたり賊や魔物との遭遇を避けやすくなったりするのだという。だからある程度の大きさの船には必ず祭壇が設けられ、依代となる女の髪を納めて祀る。女の髪は、ほとんどの場合船長の妻子か姉妹のものを使う。故に、船に宿る霊は船長の大切な女の誰かの姿をしていると聞く。
「うふふ、初めまして。シュネーバルツァー号よ、あなたのことは私に乗り込む前から港で見てたの。お話できて嬉しいわ!」
「あ……お目にかかれて光栄です……で合ってますか、私はアウグスタ・ルイーゼ。ルイーゼとお呼びください。改めてよろしくお願いいたします」
船霊がふわふわと浮きながら満面の笑みで握手を求めてきたのに応じる。ばあやがほんの少し安堵した様子で胸を撫で下ろしていたから、彼女にも笑みを向けた。
海の向こうから甲高い笛のような音が聞こえる。
「来たわ!」
シュネーバルツァー号から差し出された手を取って船首側に走り出す。甲板員たちは私がシュネーバルツァー号の手に引かれるのを見ていたからか、黙々と入港準備を行っていた。
船霊が示した先、島の方から白い線がいくつもこちらに向かってくる。迎えの船にしては小さすぎるし何より速い。近づいてくるにつれ、白い線が波しぶきであり、それを生み出しているのがエメラルドの波とよく似た色の鱗を持つ――
「パイロット・ドラゴンよ!」
「お嬢様、危のうございます!」
私が思わずへりにしがみついて身を乗り出したから、ばあやが脇から胴に腕を回してしがみつく。
珊瑚のように枝分かれした角に手綱を巻きつけ、胸鰭とも翼ともつかぬ前足を広げ長い尾を伸ばしてバランスを取りながら走りくる、首の長いトカゲに似た不思議な生き物。
青と緑の波の上を、草原を走るが如く小さな馬ほどの大きさの竜たちが駆けてくる。その背に乗せたのは噂の竜使いたちだろうか。海の男らしい鍛えられた浅黒い肌に、甲板から詳しく見えないが何かの刺青をしているようだった。
シュネーバルツァー号はスカートの裾を摘み、優雅なステップでバウスプリットへ躍り出ると、またあの独特な叫び声を上げる。
竜たちが呼応して見た目とは程遠い笛のように甲高い声で鳴くと、甲板員たちが海へロープを投げ始めた。すると何頭かの竜が豪快に跳び上がり、背に乗せた男たちが器用にロープを取って着水する。そこからロープを竜の角に巻き付け結ぶと、くるりと背を向けシュネーバルツァー号の大きな船体を曳き始めた。
「ばあや、大丈夫です。ばあやも見て、竜が船を曳いてるなんて初めて見ました。あの本の挿絵通りです」
「あまり心配させないでくださいまし、わたくしも実物は初めてでございます」
シュネーバルツァー号はバウスプリットの先端でくるくる踊り続けている。彼女の翼のように美しい白い帆は島へ向かう追い風を孕むために向きを変え、竜たちもその勢いに乗り波を蹴立てて走っていた。
船を曳いている竜たちのほとんどは海の色とよく似た青か緑の鱗だ。その中に、一頭だけ灰色の鱗を持つ者がいる。よく見るとその竜だけ色あせて白に近い灰色だから、年老いているのだろう。対照的に、背に乗せているのは私と同じ年頃の少年だった。竜に乗っている男たちはほとんどが働き盛りの壮年ばかりだから、その姿は余計に私の目を惹いた。まだ刺青がないから、成人はしていないようだ。
まじまじと彼を見つめる私の手をしっかり握り続けながら、ばあやはほっとしたように息を吐いた。
「ばあやとシュネーバルツァー号のおかげです」
シュネーバルツァー号は踊り続けている。
「ありがとう」
返事代わりに彼女は跳び上がりながらくるりと回って、再度バウスプリットに降り立った。船首側から風に乗った神気が流れてきている。
異郷での療養生活に感じていた不安が消えようとしていた。