3、幼馴染
ふわぁ、と大きな欠伸を一つ。
眠い。
璃子は小さく目を擦る。
あの後、立て続けに三件も客が入った為店じまいが遅くなった。床についたのは四時過ぎ。いくらその前に仮眠を取っていたとしても、翌日に学校がある日はやはりきつい。
しかも今日の一限目は社会だ。担当教師の抑揚のない話し方と、その面白みのない内容で今一番眠気を誘うと評判の授業である。
だめだ、絶対に寝る。
なんとか少しでも電車で眠れないだろうかと画策していると、
「おはよう、りっちゃん」
「・・・おはよう」
颯爽とあわられたのは、無駄に笑顔が眩しい桃矢だ。彼の登場に周りの女子が色めき立つ。
「相変わらず朝はテンション低いね。また夜更かししたんでしょ」
「・・・・うん、まあ、そんな感じ」
適当に相槌を打つ。
「うわぁ、適当。俺、傷つくんだけど!」
「・・・・」
「あ、電車来た」
「・・・・」
もはや返事をしなくとも一人で話す桃矢と共に電車に乗り込む。
最寄駅がこの辺りで一番大きな駅から二駅離れただけなこともあり、車内は人で鮨詰め状態だ。
なんとか奥へと進み、開かない方の扉の前に陣をとる。
「泉女までは六駅あったよね?」
なにを今更と言わんばかりの問いに、璃子は「うん」と頷く。
「じゃあ、少し寝なよ。俺が支えとくから」
返事をする前に桃矢が壁に腕をつく。
その流れるような動きに抵抗する暇もなく壁と桃矢に挟まれる。
近くの女子高生がこちらを見て指差しているのが目に入ったが、今は恥じらいよりも眠気が勝つ。
「では、遠慮なく」
頭を壁に押し付け目を閉じる。
ガタンガタンと規則的な揺れが睡魔を誘ってきた。
「りっちゃん」
耳障りの良い声にふわふわとした世界から引き戻される。瞼を上げると、すぐ目の前に胡桃色した玉が二つ。
「次、降りる駅だよ」
窓の外をぼんやりと眺めると、たしかに見慣れた風景が見える。
「ありがとう。お陰で楽になった」
満員電車で熟睡なんてできるわけないが、それでも守られている安心感からかうたた寝くらいはできた。時間にしてほんの僅かだが、体感としてはかなりスッキリした。
アナウンスが入り、電車がどんどん減速していく。
「じゃあ、また」
「うん。連絡する」
何か連絡するようなことあったっけ。
そう思ったが、ここで話すほどの時間はない。
電車のドアが開くと同時に人が土石流の如く流れ出す。璃子もその流れに身を任せてホームへと降り立った。
璃子の通う泉原女学院は、繁華街のある北口と正反対の南口にある。むしろ南口にはそれしかないため、自然と進行方向には同じグレーのセーラー服に身を纏った少女たちの姿がばかりだ。
「りーこ!」
ふと背後から呼ばれた気がして振り返ると同時に抱きしめられる。
ぐえっと踏み潰された蛙のような声が漏れかけた。
「紫音、璃子が潰れかけてる」
「あっ・・・ごめん!つい!」
ポニーテールがトレードマークの蕪木紫音が慌てて手を離す。
その横で細川翠が眼鏡の奥で目を細めて呆れた表情を浮かべる。
「・・・翠、紫音おはよう」
「おはよう」
「うん、おはよう!てか、見たよ!あれ、桃矢くんだよね!」
紫音がいつも以上に輝いた大きな瞳をずいっと近づけてくる。
話に脈絡がないのはいつものことだが、今日もそれは例外ではない。
「うん、そう。よくわかったね」
「ええー!何何!ついに!ついに璃子たちくっついたの!?」
どうやったらそうなる。
「付き合わないよ。だって桃矢だよ?ただの腐れ縁だから」
「嘘ー!だって抱き合ってたじゃん!」
紫音の馬鹿でかい声に周りの視線が刺さる。
「いやいや、抱き合ってはいないから。壁になってもらってただけ」
「壁って・・・なにそれ、素敵!」
あ、これは駄目だ。
完全に恋に恋する乙女モードに陥っている紫音の視界の狭さには定評がある。こういう時は何を言っても無駄なのだ。
大火傷を負う前に璃子は翠の隣にサッと移動する。
そして翠はというと、
「壁・・・壁って、ぷふふ」
「・・・おーい、翠ちゃん。戻ってきて」
肩を小刻みに震わせている翠に呼びかけるが、こちらも自分の世界に入り込んでしまっている。
普段からしっかりしているのに、特定不能な笑いのツボを刺激してしまうと中々こちらの世界にお戻りにならない。
せっかく眠れたのに、一気に疲れが押し寄せてくる。
やっぱりあれを飲んでおくか。
璃子は鞄に手を突っ込み、錠剤を数粒取り出した。一瞬素材の顔が浮かんだが、小さく頭を振り口に放り込むとバリバリと噛み砕く。
「何?お菓子?私も欲しい!」
「いやいや。そもそも薬だし、必要ないならやめておいた方がいいよ」
決して美味しいものではないし、昼夜問わず何より目をひん剥いている達磨の一部を混ぜ込んだものだ。お陰で眠気は飛ぶが、下手すると三日三晩眠れなくなる。
「ふーん。赤だからお菓子かと思った」
しゅんとあからさまに肩を落とす紫音に、璃子は別の入れ物を取り出す。
「これなら食べてもいいよ」
受け取った紫音が開けると、中には可愛らしいくまの形をしたクッキー。
昨晩、客が来始める丑三つ時まで時間に余裕があったので焼いたものだ。
「わぁ!ありがとう!」
まだ学校にもついていないというのに、そそくさと食べ始める。
「うーん!今日も美味しい!これは男もイチコロですなぁ」
「紫音は食べられればなんでも美味しいんでしょ」
そう言いながらクッキーを横から掠め取る。
「あっ、ちょっと翠ィ!」
抗議の声を上げる紫音を無視して、クッキーを口に入れる翠。
「うん、でもやっぱり璃子の料理は美味しいわ。さすがは主婦」
「流石に主婦の腕前には敵わないよ」
「いやいや、その年で一人で全部できるなんて本当にすごいと思うよ!わたしなんて卵焼き焼くので精一杯だもん!」
「食べ専のあんたと比べられてもねぇ」
翠が呆れたように笑う。
「何をォ!」
「まあまあ。あたしは美味しいって食べてくれるだけで嬉しいから」
食いかかろうとする紫音ににっこりと笑いかける璃子。その笑顔に、二人はピタリと動きを止める。そして、
「・・・ああ、これは罪深いな」
「うん、きっと被害者が多いわけだ」
二人は意味深に頷き合いながらもクッキーを貪り続ける。
よくわからないが、その場が収まったので良しとしよう。