序章 TERA BREAK
山霧の中をゆっくりと登る一つの影があった。
霧が初老の男性の銀色の無精髭を湿らす。
時折、男は全身を覆うマントの袖でその雫を拭う。
左手に持った木製の杖でコツコツと濃霧の中ホワイトアウトした足場を確かめるとまた一歩を踏み出す。
高度1500mを超え、お世辞にも道とは呼べない岩礫は齢60を超えた男にとって厳しい。
さらに男は研究者であった。
普段、運動といえば専らトイレに行くときくらいしかない。
研究室にこもり研究を続ける日々。
少しは運動をしておけばよかったと今更になって後悔している自分をあざ笑うかのように「ッフ」と笑うと立ち止まり剣山の頂があるであろう方角へと目を凝らした。
「間に合うといいんだがな。」
西暦2100年初頭、彗星SIVAが、遥か宇宙空間より従来辿るべきはずの軌道を大きく逸脱し不気味な青い輝きを放ちながら地球に近づいてきていた。
当初、トリノスケールが弾き出した彗星SIVAが地球に衝突する確率は極めて低くその危機レベルは1だった筈なのだが……。
その軌道は予想を大きく裏切り、彗星SIVAは、その美しすぎる瑠璃色の光をますます不気味に発光させつつ、不可解な軌道を宇宙空間に描きながら、地球へと迫ってきたのだった。
この危機に直面した世界各国の首脳は、人類滅亡という最悪のシナリオだけは避けようと、彗星すいせいSIVAの軌道を逸そらすべく、国の垣根を越えて、昼夜を問わず軍事ミサイルを放ち続けた。
しかしながら、ミサイル自体は、そのほとんどが対人兵器ゆえ、落下する彗星すいせいを砕けるわけもなかった。
彗星すいせいSIVAシヴァは、一向にその軌道を変えることなく、更に地球に接近し続け、遂には月よりも明るく、大きく、妖しく放たれた輝きは、人類を絶望の深淵へと誘いざなうのだった。
地球上の誰もが、生きる希望を失い、日増しに強くなる青い光線が人々の眼から光を奪い去っていった。
人という種の終わりを目前に、この地球上に安全な場所など何処にも無く、神への祈りも届ない。護られていた秩序が崩れ去り、狂気、絶望に染め上げられた社会がこれほど脆弱であったとは。
先進国であるアメリカ、ロシア、EU、日本、中華連邦が、その絶大な軍事力を投じ、最後の抵抗を試みるも、彗星SIVAの圧倒的質量の前に、それらは余りにも無力だった。
彗星SIVAの落下予測地点は南太平洋メラネシアにあるパプアニューギニア、ブーゲンビル島。落下予測まで二十四時間を切った。
SIVAシヴァの質量に吸い寄せられるように波は荒れ狂い、世界各地を異常気象が襲居始めると、いよいよ終焉の時が近づいた事を人類は思い知らされる。
地球激突まで十時間。人々は愛する者と抱き合い、抗いきれぬ運命に身を委ねていた。
それは、まさにそんな時だった。
突然、地球全体に轟音が響き渡った。
後に人々は、この時の事を『空が割れた』と表現する。
アメリカ合衆国が放った最新兵器グラシャラポラスが命中し、接近していた巨大彗星SIVAの地殻が吹き飛んだのだ。
細かく砕かれた地殻片が無数の流星群となり地球に降り注ぐ中、一際ひときわ巨大な、青白い隕石が南極に激突した。
その衝撃は、遠く離れたシベリアのツンドラの大地をも激しく揺さぶった。
隕石は、南極の大地に巨大なクレーターを作り、衝突により舞い上がった地球の埃ほこりが太陽光線を遮った。
落下して一か月もの間、暗い空より流星群が地球に降り注ぎ、そのほとんどは大気圏で燃え尽きたが、いくつかの大きな隕石が地球に落下した。
アメリカ合衆国は、地球を救ったのは、自国の対SIVA攻撃の賜物たまものだと誇らしげに胸を張り、得意満面にその成果をマスメディアに垂れ流した。
地球は決して無傷ではなかったが、『神は、人類を救い給たもうた』と、人々は、一様に感涙にむせび、胸をなでおろした。
だが、その代償として、南極に落ちた巨大なSIVAの欠片が巻き上げた粉塵は、太陽の熱と光を地球から奪うと気温低下を引き起こし、これより二年間、地球は氷に閉ざされてしまったのであった。
容赦のない自然の力に抗いきれず、弱き者は次々と倒れ、人類がかつて経験したことのない深刻な食糧不足と、未曾有の世界恐慌を引き起こし、地球上のあらゆる生物は新たな存亡の危機に飲み込まれていった。
次々と押し寄せる経済危機に見舞われた弱小国家の民は、より豊かな大国を目指して命懸けの大移動を開始した。
だが、歩みのその先に待ち受けていたものは、余りに苛酷な現実だった。
もはや、彼らが救いとする大国に於いてさえ、押し寄せる大量の難民を受け入れる余裕は、どこにも残っていなかった。
先進国の首脳は、自国民の食糧だけは確保し、経済危機の被害を最小限に食い止めようと、難民の入国を拒否し、ブロック経済、自国第一主義に大きく舵を切ったのだった。
当然ながら、この波は、日本にも襲い掛かった。
果たして、食料自給率も低く、資源も乏しい日本国は、大国と呼ばれる経済力や技術力は備えていたものの、この緊急事態に政府の打ち出す政策は、具体的な打開策を何ひとつ示すことが出来ず、迷走に次ぐ迷走の果てに、内閣は、その統率力の無さを露呈し、遂には退陣を迫られた。
この窮地に、日本国政府が最後に打った一手は、大衆迎合主義の政策しか打ち出せない衆愚政治と化した民主主義を諦あきらめ、人智を凌駕りょうがする人工知能AIによる専制政治を画策することだった。そのために政府は密かに数名の優秀な学者達を招集した。
こうして、『ソロモンプロジェクト』は始動したのである。
あれから十余年。たった一つの人工知能、それのみが、日本社会の全ての権力と秩序をその嘗中に治めていた。
人工知能によって管理統制された日本社会に暮らす国民の生活水準は、飛躍的に上昇し、日本は、著しく繁栄し、安心・安全なユートピアを築いていた。司法、行政、立法、防衛、金融、経済、産業に始まり、国民一人一人の労働、教育、福祉、医療、生活に至るあらゆるサービスまで、人工知能に管理された国民は、その満ち足りた暮らしの中で『ソロモンシステム』に全幅の信頼を寄せていったのだった。
いにしえの昔より、万物に神々が宿ると信じてきた日本人にとって、『ソロモンシステム』を人工神として崇あがめることに、それ程の時間はかからなかったのである。