01 初夏、花ちる。
指先ほどの小さく白い花は、夏の始まりには落ち始める。
花びらを散らすのではなく、花の形はそのままに、くるくると回りながら落ちていく。
風が吹けば大きな木はさわさわと揺れ、花は音もなくくるくると散っていった。
リアンの家は、王都の端の端。
地図上では辛うじてぎりぎり王都、といえるような場所にある。
実際そこに訪れてみれば、『都とは?』と哲学的に考えてしまいそうな風景が広がる。
つまり、田舎町。
一応、名称には町とついている。
『町とは?』とも考えてしまいそうなほど大自然に飲み込まれそうな場所だが、お偉い人がそう決めたのだから、町なのだ。
遠くには空を裂くほどの、夏でも雪を頂くような高い山々が連なっている。
その足元には、深い深い森がある。
リアンが住む町の人たちは、日々森からの恵みを糧にして生活をしている。
木を切り出し、建材や家具を作って売ったり、獣を狩ったり、薬草から薬を作ってはそれを売る。
都会では手に入らない、森からの恵みで商売をする者がほとんどだ。
リアンの家業もそのひとつ。
森に入って狩をし、獲物を売るのが仕事だった。
リアンが幼いうちに両親が亡くなって、それからは年の離れた兄が親代わり。
家業をこなしながら、子育てもこなした兄のことを、もちろんリアンは大好きなので、家業を手伝ったり、時々足を引っ張ったりしていた。
「なんでいつもいつも部屋に居ないんだ、あいつは!」
兄は木床を勢いよく踏み鳴らして、大声を上げながら妹を探す。
大声を上げれば、どこかから妹が飛ぶようにやってくると知っているから、さらにわざと大きな音を出す。
案の定すぐにこちらにぱたぱたと駆けてくる足音が聞こえた。
「なに? 兄さん、居るよ? ずっと居たし!」
「……厩舎にな。部屋にいろと言ったろう」
「だって部屋は……」
「まだ三日経ってないぞ」
「そうだけど……」
約束を破って無茶をしたリアンは、三日間の外出禁止を兄から言い渡されていた。
「厩舎で寝てたのか?」
「なんでわかったの?」
リアンの頬を撫でてから、髪についた木屑を摘み上げて、その目の前に持っていった。
「ほっぺたに鱗の跡がついてる」
「……おっと」
「部屋に戻るんだ。いいな」
「……ふぇい……」
「返事!」
「ふぁい……」
「おまえ、この!」
あちこちをわしわしとくすぐられて、笑い疲れて、身動きできなくなったところを、小脇に抱えられて部屋まで運ばれた。
リアンは部屋に放り込まれる。
扉の手前で両手を腰に当て、威圧的な目で見下ろしている兄に、リアンはにこりと笑い返した。
「まだ一日目だぞ」
「そうだっけ?」
「大人しくしてろ」
「……でもね?」
「泣くぞ?」
「やだ」
「じゃあ、部屋に居ろ」
「…………はい」
部屋を去っていく足音を聞きながら、リアンは自分の柔らかい頬を触った。
ぽこぽことした手触り、鱗の形がついた跡を撫でる。
リアンの家は代々、竜を狩るのを生業としていた。
素材や食料としてではなく、人に馴染み易い種を無傷で捕らえ、役に立つようになるまで調教して、主人となる人へ売る。
父の代では小さな戦があちこちで頻発していたので、竜は主に王城や、貴族に納められていた。
最近はもっぱら、人や荷を運んだり、農作業を手伝ったりする、穏やかな気性の竜を求める人が多い。
とはいえ絶対数から考えても、馬や牛よりも高価になるので、竜を求めてくる人は、それなりに裕福な人だった。
竜は家畜のように人の手での繁殖はできない。
過去には竜の卵を取ってきて、孵化をさせようと試されたこともあったが、子を奪われ怒り狂った親竜が小国をひとつ潰したことから、人の手での孵化や繁殖は禁止された。
個人で捕らえるにも一朝一夕にはいかない。
費用対効果と、危険度を鑑みると、依頼をした方が結果的に安くあがる。
それだからこその家業。
竜の多くの種は、森の中や、山に生息している。
リアンの家が王都に近く、自然に飲まれそうな場所にあるのもそのためだった。
兄は父に似て大きな体躯をして、見た目通りの屈強な男。
竜を狩るために、今まで培ってきた技術を発揮するにも、無傷で捕らえるにも、丈夫な体を持っていないといけない。
広大な森を、目当ての竜を探して回ることになる。
一度森に入れば短くてひと月、長くて半年を要する。
森にいるのは竜ばかりではない。
その他大型の獣もいるから、頑丈でないとやっていけない。
リアンはその点、真逆の見た目だった。
小柄ではないが、線が細い。
肌は白く、髪も目も薄い色をしているので、見た目は幽鬼じみている。
ふと雪と一緒に溶けて消えてしまいそうな、清純な儚さばかりが目立つ。
ところが実際のリアンは、見目に反して男並みに力があったり、よく笑ったり、くよくよしない性格だった。
この家の血を濃く継いでいると仲間たちが笑いの種にするほど。
部屋の真ん中で頬に手を当てたまま、リアンは後ろ向きで下がっていって、寝台の端に膝を折られ倒れこむ。
向こう側の木枠に頭をぶつけて、そこにも手を当てた。
「いてて……」
へにゃりと笑っても、今の様を見て笑ってくれる人はいない。
静かな部屋でひとり笑った。
リアンは今年で十六になった。
多分、十六になった。
体は大体、そのくらいのはずだ。
それでも魂とか、精神とか、心とか、そういった形のないものはそうではない。
リアンには、この体になる前の記憶がある。
どこか別の、今いるこことは違う世界。
ずっとずっと遠い場所。どこにあるかすら、確かめる術すら分からない、そんな場所で生きていた記憶。
そこでは今とは全く違う体で、全く違う暮らしをしていた。
己として存在して、その個が集まって助け合って生きていた。
丈夫な体で、長く生き、知性を持った
竜だった。
寿命が尽きてその世界を去り、今この世界で人の体で生きている。
別の世界だと確信したのは、リアンがいた世界には人という生き物が居なかったからだ。
そしてこの世界の竜は、前のリアンがいた世界の竜ほど、知性を持ち合わせていないから。
前の生を思い出したのは、人の体で生まれてしばらくしてからだった。
ぼんやり形のない、乳白色の光の球のようだった記憶が、はっきりと前の体の形を思い出した。
白い鱗、太く長い尾。
鋭い爪のある手足、大きな牙。
薄くてよく伸びる羽、見た目より軽い体。
血のような暗い赤の縞が背の上を走る、白い翼竜。
誰かに、家族にすらこの話をしたことはない。
話せば信じてもらえるだろうけど、そんな必要は無い気がした。
昔は竜だったから、なんだというのか。
今は人ではないか。
話して頭がおかしいと思われても構わないが、前の生を否定されるのは許し難い。
馬鹿にされるために生きていた訳ではないし、それは今の生でも同じことだ。
前と今と、体は似ても似つかない形をしていて良かったとも思う。混濁して、勘違いせずに済んだ。
続きではなく、別の生だと分けて考えられた。
不便だと思うことも、便利だと思うことも、全く違うから、この世界と今の自分も、それなりに面白い。
前の生で出来なかったことを、この生で出来たらと、それも楽しみで仕方がない。
だからじっと部屋で大人しくしている場合ではないんだけど、という思いが膨らむ。
それでも勝手に行動して、兄を泣かしてしまうのも避けたい。
その日リアンは言われたままに大人しく、ふて寝して部屋で過ごした。
翌日は霞のような雲が空を覆っていた。
白く濁って青色はひとつも見えない。
柔らかな光と、白い花が降っていた。
風はほぼない。
曇ってはいても雨の匂いもしない。
リアンは二階の自分の部屋の窓から、小さな露台に出て、そこから外に出ることにした。
表通りに面した店先から、この露台は側面の位置。
外に出ようと思ったら、どうしても家の中、厩舎、店を順に通らないといけない。
どこかしらで必ず兄に見つかってしまう。
露台から下に降りて、脇道を通る。
そこから走れば表通りにはすぐに出られる。
誰かに見られず外に出るなら、窓からが一番だった。
扉の内側で、人の気配を探る。
下の方で賑やかな声が聞こえていた。
兄とその仕事仲間たちは、厩舎で竜の世話をしたり、店の準備をしたりと忙しくしているらしい。
よしよしとほくそ笑んで、リアンは窓を開けて露台に出た。
下を覗いて、誰も近くに居ないのを確認する。
腰までの手すりを超えて外側に立って、部屋の中を見る方向に向き直る。
もちろんそこに誰かがやって来るような気配もない。
「……いってきまーす」
こそりと言って、リアンはその場で身を屈めた。
両手で柵を掴んでから足を外して、ぶら下がった後に柵から手を離す。
そうすれば落ちるのはほんの少し。
子どもの背の高さ分ほどだから、大したことはない。
初めのうちはよろけて転がることもあったけど、今は慣れて上手に着地できる。
リアンがぶら下がるために足の片方を露台から外したところで、こちらに向かって走る足音が聞こえ、すぐに体がふわりと浮いたような感覚がした。
誰かに支えられ、抱えられたと分かって、同時に見つかったと顔をしかめた。
心の中で悪態を垂れ、舌打ちをして、その目敏い相手を見てやろうと振り向く。
「…………誰?」
てっきり兄か、うちの仲間の誰かかと思っていたのに、見慣れない顔がリアンを見上げている。
間の抜けた顔で、軽い質問をしたからか、その誰かはくくと肩を揺らして笑った。
「……落ちそうだったんではなくて、降りようとしていたのか」
笑いながら、丁寧にリアンを地面に下ろした。
腰を屈めて、大事なものを扱うように、ゆっくりと腕から力を抜いていく。
リアンは当然だろう、といった表情でその人を見た。
背すじを伸ばしていく人の、その顔を見ているうちに、リアンはだいぶ上を見ることになった。
兄と同じくらいの背の高さだ。
「……余計な助けだったか?」
「ああ、いえ。いつもより楽でした」
「それは良かった」
「ありがとう……ございます?」
なぜお礼を言ってしまったのかと、よく分からなくなってリアンは少し首を傾げる。
ぶはと笑い声をあげると、その人は上品に片手を口の前に持っていった。
失礼と言いながら、笑いを堪えようとしている。
普通の格好をしているけど、髪はきっちりしているし、仕草も上品に見えた。
培ってきた商人の血が、この人はお金持ちだと言っている。
「ウチに何かご用でしょうか」
兄ほどでは無いにしても、立派な体躯をしている。
そんな人はわざわざこの町に薬草を買いに来たり、卓や椅子を買いに来たりはしない。
大概が商人に頼んで自宅まで運んでもらう。
そして、どう見たってこの人は仲買の商人にも見えない。
ならウチのお客様だ。
竜を手に入れるためにやって来た、貴族かなにかだとリアンは思った。
「うち……? この近くまで来たから、ディディエに会いに来たんだが」
「兄さんに?」
「兄さん? ……もしかして、リアンか?」
「……はい」
「……前に見た時はまだこんなに小っさかったのに……」
片手の親指と人差し指で大きさを示しているが、指と指の間は小石ひとつ分ほどしかない。どこを探しても、そんな小さな人はいない。
「なんの大きさですか、それ」
ははと快活に笑うその顔と声は、覚えがあるような気がする。
記憶を辿るため、しばらくその笑顔に見入っていた。
「……アドニス?」
「そうだ! 久しぶりだな、リアンリアン!」
ぽんと浮かんでぱっと出た名前に返事がある。
リアンの膝が抱え上げられて、昔にされていたように、子どもみたいに抱き上げられた。
アドニスは子どもみたいに笑うリアンを、眩しいもののように見上げる。