第3章 ファントム編 第26話 世界に祝福された特別な人間【蟹江陸と白銀ゆめ1】
人には優しくしましょう。
家族や友達を大切にしましょう。
動物や植物を愛しましょう。
……そういう世の中の言説がすべて嘘だと気付いたのは、いつのことだったろうか。
オレたちが毎日踏み潰している道端のアリも、公園に住み着いた野良猫も、そして人間も。
みな命を喰らって生きている。
生まれて、生きるために殺しながら繁殖していつか死ぬ。それが生き物のプログラムなのだ。アリも、野良猫も、人間も、そこに違いはないはずだ。
人間だけ特別視するのは、自分たちが人間だからだ。
さらに言えば、道徳なり正義なりというものはすべて大嘘であり、強い人間が弱い人間を洗脳するための……もしくはその逆の「宗教」でしかない。
しょせんこの世は強い者がより多くのものを奪い取り、弱い者がより多くのものを失いながら生きていく、そういうゲームにすぎないのだ。
多くの愚かな人間は洗脳されたままくだらない一生を過ごすが、オレは愚かではない。
この世の真実に気づくことができた。
真実に気づくまで、長い道のりだった。
父親が高校の理科教師、母親が中学校の音楽教師だったオレは、人一倍強烈な洗脳に支配されたながら成長してきた。
少なくとも小学校低学年くらいまでは、その洗脳は完璧だった。
オレは父に似た高度な頭脳と、母に似た音楽の才能を受け継いでいた。
そして、背こそ低めの方ではあったが、顔は極めて整っていた。
幼いころからオレは多くの大人に誉めそやされて成長していった。
にこやかな笑顔を浮かべて定型のあいさつをするだけで、
「あら、なんて立派なあいさつなのかしら」
「とってもかわいくて利発なお子さんね」
と誰もが言った。
口を開いて歌をうたえば、誰もがオレの美声に聞きほれた。
生まれた瞬間から、オレは世界の中心だった。
オレは世界に祝福された特別な人間だった。
その世界のルールに従っているかぎり、オレは世界から祝福されし特別な人間であり続けられるのだ。
……しかし。そんな世界のルールなど、薄っぺらいおままごとに過ぎない。
そんな世界の穴を、鋭敏なオレは見逃さなかった。
道端で車にひかれたカエル。
猫かなにかに食い荒らされたハトの死骸。
人間に(オレだが)に踏みつぶされたアリ。
……そういうものに出くわすたびに、オレは得も言われぬ衝動が身体を貫くのを感じていた。
自分の吐く息が荒くなる。下半身に不思議な昂ぶりがまとわりついてくる。
洗脳が解けていなかった頃のオレは、そんな自分に恐れおののいた。
しかし、口から内臓をすべて吐き出しみじめに息絶えたカエルや、体半分になって骨が露出したハト、そして下半身を踏みつぶされて上半身だけではい回るアリたちは、俺の脳裏に棲みついてしまった。
洗脳にかかってはいても、後ろめたい何かがそこにあることは気づいていた。
それが一度越えたら戻れない、決定的な一線であることも。
だからオレは一生懸命その記憶を打ち破ろうとし、時には風呂場で一人涙を流した。
あの事件がなければ、オレはそのまま洗脳にすがりつき、真実を知らぬまま一生を終えたのかもしれない。
あれは忘れもしない小学校4年生の時。
当時の学校で、オレは間違いなく目立つ生徒だった。美貌と、優れた知能、そして美しい声と音楽の才を持ち合わせたオレは、歩いているだけで多くの同級生たちの目を引いたものだ。
だが、同学年の中に、そんなオレよりも目立つ存在がいた。
白銀ゆめだ。
オレと釣り合うほどの美貌と、美しいが気の強そうな声。どんな運動も軽やかにこなすしなやかな肢体。そして常に学年一の成績を取る優れた頭脳。
オレは自分が世界の中心であることを確信していたが、白銀ゆめもまた世界の中心にいる存在であることを、認めぬわけにはいかなかった。
オレは小学五年生にしてようやく。白銀ゆめと同じクラスになった。
そして。
白銀ゆめのななめ後ろの席に座ることになったのだ。
オレの人生は大きく変わった。
そしてきっと、白銀ゆめの人生も。
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