阿部 隆 〈前編〉
ここから本編スタートになります。
よろしくお願いします。
都市部の住宅街に建つ、周りの住宅とは変わらない様な作りの一軒家。
夏も近くなり、暑い日が続くようになってきた日の二階の自室。
電気代節約の為にエアコンも付けず、全開にした窓にかかる網戸にセミが止まる。
騒音のようにジージー鳴くそいつを指で弾き、また汗で汚れたベットに横になる。
なぜ、あんなことになったのだろうか……
考えても答えはどこにもない。
先日の事、突然、妻はこの世を去ってしまった。
**********
実家で専業主婦をしている妻と共に恙ない生活を送りながら、高校上りから務めた会社でせっせと働くというごく普通の毎日を過ごしていた。
そんなある日、不況から脱した会社が、夏休みに入る前に久しぶりだがボーナスを支給するという決定をした。
今までの数年間、ただの1円も貰えなかった事に悲観していた私と妻は大いに喜んだ。
まだ25歳だから次の職場に行こうかと悩んでいた矢先の事だったから尚更だ。
入ったボーナス。
私は堅実な性格であった為、真っ先に貯金をしようと妻に言う。
妻はわかりましたと言いその意見に従ってくれたのだが、いつも仕事を頑張ってくれているあなたが食べたいものをせめて食べませんかとも言ってくれた。
妻のその優しさと、これからずっと一緒に過ごす人とのいい思い出にもなると思い、私はそれを快諾した。
ただし、使ってもいいのは1万円までなと言った時の妻の呆れたような顔は今でも忘れられない。
数日が経ち、仕事も一段落して、久しぶりの土曜休暇の日に妻と約束していた食事をすることになった。
私が食べたいとリクエストしたものは、牛ステーキ。
そこら辺にあるフランチャイズのものでも良いからと言ったのだが、妻は頬を膨らませながら猛反発。
折角なんだからと少しだけお高めの店に行くこととなった。
とは言っても、高級飲食街が並ぶような場所までは電車を使わなければならなかった為、そこまで遠くもない個人経営をしている小さな店舗に久しぶりのデートも兼ねて徒歩で行くことにした。
出掛ける矢先、デートも兼ねて出かけようと言った瞬間、妻は「そういう事は早く言ってよね!」と言い再び部屋まで戻って行ってしまった。
5分ほどすると、先ほどの地味めのジーンズ姿から一変して、真っ白なワンピースに着替えてきた。
これからステーキ食べに行くんだから汚れるぞと言ったが、その言葉には耳も傾けず行くわよと言ってさっさと一人で玄関を出て行ってしまった。
急いで後を追うと、妻はすぐそこで待っていて、くるりと振り返りにっこり笑うと、
「今日は貴方が一生の思い出に出来る様に伝えなきゃいけない事があるの! 楽しみにしててね!」
と言い右腕に絡み付き、早く行きましょうと引っ張ってくれた。
目的の店まではあと少し。
店を目前にして、思ったよりいい店だと言う印象を受けた入口とその佇まいに緊張してしまい、突然もよおした私は、すぐ近くにあるコンビニに寄る事にした。
妻は早く行きたそうに店の方をチラチラと横目で気にしている様子だった。
それあ可笑しくて子供っぽいなと思いながらも、先に行っててもいいよと言ってやる。
妻はでもと始めは行かなかったが、少しするとやっぱり先に行ってメニュー見てるねっと駆け出して行った。
それが妻の最後の姿だった。
死因はだれが見ても明らかだった。
事故死……
信号無視した車が横断歩道を渡る人達数人を轢いてしまったという実にありきたりで突然のものだった。
真っ白なワンピースに真っ赤な血が滲み今にも閉じそうな眼を必死に開け、私を探す妻。
震えて動けなくなった脚をバンバン叩き、ようやく妻のところまでたどり着くと、今日の玄関で見たあの笑みでにっこりと笑う。
痛みにふるえる口の端に視線を奪われると涙が止まらなくなった。
何も言えずなく私の膝にそっと手を置くと、妻は、
「せっかくあなたに褒めてもらった服が汚れちゃったね」
と残念そうにして少しだけ悲しそうな顔をした。
だがそれも一瞬で、すぐにまた笑顔を見せる。
「あなた?そこに居る?なんだか、少しふわふわするの……」
もう目すらも開けられないのか、まぶたを閉じたままゆっくり首だけを動かして私を探していた。
私は妻の頬に手を置きこちらを向かせ、ここに居るとしか言えなかった。
そして妻はまた、笑顔を見せるとその場で眠ってしまった。
死んだのだと気が付いたのは、辺りが警察や野次馬に囲まれ、救急隊員がやってきて言った一言を聞いた時だった。
「この人も、間に合わなかった」
その隊員の顔を見ると、入隊したてだったのか若い顔に涙を流していた。
***********
あの日から一週間。
全く家から出ていない。
会社に行く気にもなれず、家にある飯を食って、シャワーだけで体を流し、ベットへ横になりいつの間にか眠りに落ちる。
このサイクルを延々と繰り返す日々。
自堕落と言われればそれまで。自身にもその自覚はある。
だが、何のやる気も起きない。
やる気を出すための目的もなくなってしまったのだから。
誰も居ない空間で壁に向かい、もはや口癖になってしまった言葉を呟く。
「なぁ、遥……なんで先に逝っちまったんだ……私に伝えなきゃいけない事ってなんだったんだ? 頼む、教えてくれ……」
当たり前の事ではあるが、妻からの答えは帰ってこない。
壁を向いて呟く虚しさを感じ、仰向けに寝転がる。
「ならどうですか? もう一度だけ行ってみませんか? 過去に」
「うぉ!誰だお前! どこから入ってきたんだよ!」
「どこからと言われれば、そこからです」
と、スーツ姿に何故か真っ赤なキャップ帽をかぶった青年が白い手袋をはめた手で網戸の方を指さす。
こいつはいよいよもってヤバいんじゃないか?強盗か何かの類だろう。それで自分は口封じで殺される。
痛いのは嫌だが、妻はもっと痛い目に合ったのだ。
それを考えれば刃物や鈍器で殺されるくらいどうってことはない。
「金か? ならそこの引き出しに欲しいものは全部入ってる。用が済んだら私も殺せばいい……うまくやれば、妻が無くなった為の自殺かなんかと勘違いしてくれるだろうよ」
キャップ帽の青年はまた同じことを作ったような笑顔で淡々と言ってくる。
「もう一度、行きませんか? 過去に」
何度も訳の分からない事を言う青年に腹が立ち、ベットから飛び上がる様に起きるとそのまま胸ぐらを掴み上げる。
青年は作り笑顔を崩さないまま更に続ける。
「過去に行けます。ただし、行くためにはそこに行くまでに経過したあなたの寿命を使います」
「ふざけるな! いい加減にしろ!過去に行けるならとっくに行ってるさ!そんなことが出来ないからこうして……」
「ふてくされてる……という訳ですか、なるほど」
一気に沸騰した。
その瞬間、青年を想いっきり殴り飛ばす。が、青年の頬には傷一つなくその場で作り笑いを崩すことなく立っている。
何故か、自分より年下の青年に空恐ろしさを覚え掴む腕を離す。
「なんなんだよお前は……」
青年は、おっとすみませんと言い胸ポケットから一枚の名刺を取りだして差し出す。
「申し遅れました、私は時偽師の時田 時と申します。覚えやすいと評判の名前です。以後、お見知りおきを、阿部 隆さん」
「どうして私の名前を……」
「申し訳ありませんが、それは私からはお伝えできません。という訳ですので、お話を一応聞く気にはなれましたか?」
訳のわからない時田と名乗る青年の物言いには何故か説得力があり、話だけなら聞いても損はないかと思った。
それに詐欺か何かだとしても自分には何もないのだからいいかと、青年には了解の意思を伝えた。
すると青年は、その場にしゃがみ込むと手持ちのビジネスバックを開き、一枚の紙をひらりと差し出してきた。
そこには大きく【時戻り契約書】と書かれている。
「その契約書にサインを頂けばすぐにあなたは戻りたい年、月日、時間に戻れます。ですが注意事項が3つありますのでそこだけは絶対に忘れずにそこに署名ください」
そう言った後、私が口を開くより早く時田青年は語りだす。
「1つ、戻る為には寿命を使います。使う寿命は戻りたい時から今までに経過した時間分。阿部さんが戻りたい時間が奥さんが亡くなる前だとすれば、約1週間分と数時間分の寿命を使うことになります」
「たったそれだけで戻れるのか?」
「はい、戻れます。ですが、ここで一つ目の注意事項です。もし仮に阿部さんの残り寿命が5日しかなかった場合、たどり着いた過去には死んだ状態で着くことになります。足りない場合ですので健康な方にとってはなんの問題もないとは思いますが」
別にそれくらい構わない。
仮に死ぬんだとしたら儲けもんじゃないか。勝手に死ねるんだから。
そう思った事は口にせず、ただ黙って次を促す。
「よろしいようなので2つ目です。この過去へ戻るという事は1度しかできません。もう一度は二度とやってきませんのでご注意ください」
私は軽く首を縦に振り再度促す。
「では最後に、これが一番重要なことです。過去に戻った際のあなたの今の記憶はなくなります。簡単に言えば、戻る時間から今までに経過した時間で過ごした記憶がない状態で戻ります」
は?こいつはなにを言ってるんだ?
私は思わず立ち上がり睨みつける。
「じゃあなにか?記憶もなしに戻ってもう一度妻が死ぬところを体験しろって言うのか? ふざけるな!」
「と言われましてもその辺の仕様については私にはどうしようもありません。それにまた同じ結果が待っているとは限りませんよ?」
「どういうことだ?」
「それもどうと言われても行った人にしか分かりません。ですが行くのが良いかと聞かれればそれもどうとは言えません」
やっぱり話にならない。
聞くだけ時間の無駄だった。
戻れたとしてもまた地獄が待っているなら行かない方がいい。
そう思って断わろうとした時、時田青年は一言だけいいですか?と私に聞いてきた。
考えなんてそんなに簡単に変わるワケが無いが聞くだけなら別にとそれを許した。
「では、一言だけ。奥さんが言ってた、あなたに伝えなくちゃいけない事がある……それは、その言葉に答えは、その時のあなたは聞きましたか?お話は以上です、それではまたどこかで、」
「待ってくれっ!」
「その後の答えは何なんだ? 知ってるんだろ?教えてくれっ!」
「いえ、私はただ、奥さんが言った事、あなたが体験したことのみしか知りません。知る為にはあなたがこうれからどうするかで決まるかと思います。私はそれにほんの少しだけお手伝いするだけです」
ならもう決まっている。
妻の、遥の伝えたかった事を聞かなくては!
その一心で契約書に名前を書きなぐる。
そしてその書類を時田青年に突きつける。
「これで満足だろ、お前の望む通りだ!だからさっさと連れて行け!」
「ご安心ください。次あなたが目を閉じた時にはもう着いています」
「そうか……なら、最後に聞かせてくれ。お前は……お前はなんでこんなことをやってるんだ?」
時田青年は顎に手を当て、一回天井を見るとまた胡散臭い笑顔を作ると、
「これが仕事でお給料が出るから、ですかね。ちょっと変わっていますが」
と、答えた。
青年のあまりに普通な答えに思わず吹き出してしまった。
そして笑いと共に目を閉じてしまう。
最後に聞こえた時田青年の声。
「その時その時を一つ一つ感じて下さい。それでは、いってらっしゃい」
如何でしたでしょうか?
ご感想お待ちしております!
次回もお楽しみに!!