第五話:『アンジェリカ・アンジェリカ』
「まさか、機躰を雪降ろしに使う日が来るとは思わなかったな」
タラップを降りると、白いタオルが差し出された。
澪が苦笑を見せている。
「お疲れ様。温水器が凍結しちゃったら、どうしようもないからね。こう吹雪がひどいと、車両も人も出せないし」
「大した非常事態だよ、まったく」
「苦労したみたいだな?」
聞き慣れた男の声。
頭の後ろで両手を組んだ拓也が、無責任に笑っている。
「当たらなくてよかったぜ」
「おのれ。拓也にもっと面倒くさい任務が下りる呪いをかけてやる」
「うおぉ、絶対無敵バリアシールド!」
うねうねを手首を揺らした念波は、両腕をクロスさせた拓也に阻まれた。
恥ずかしいことするな、と澪のチョップに断ち切られる。
「ま、仕方ないんじゃない? こういうときのために隼人たち一般パイロットがいるんだから」
澪は肩をすくめて嫌味をひと刺し。
負けじと切り返す。
「一般パイロットの機躰に回される澪も相応だけどな」
「残念、逆でした。私は腕に見合った経験を積ませるには若すぎるの。だから一般パイロット用機躰の整備主任が落とし所ってわけ」
「さいですか」
俺の反撃はあっさりと折られてしまった。
地力が上の相手に嫌味をぶつけるのは意外とかなり難しい。
「まあ雪降ろしが火急の課題で、苦肉の策だったのは確かだな。補給船のコンテナ搬入も手伝ったけど、ハッチの可動範囲がかなりギリギリだった」
機躰にマウントされた急造雪かきを整備士たちが取り外している。名前も知らない仲だが、長く世話になっている馴染みの整備員たちだ。
振り返ると、澪が不自然に口ごもっていた。
「ショック症状は……なかった?」
恐る恐る、尋ねられる。
嫌味で返そうか迷って、
「1始まりだよ。ちょっと体が重かっただけだ」
正確には、体が鋼鉄で覆われているような圧迫感。
それも雪降ろしに従事している間に消えた。
「もう大丈夫?」
「とっくにな。1始まりは、ないのと同じだ」
1始まりの症状パターンは、短期的で任務への影響も少ないものを言う。記憶のフラッシュバック、一時的な手足の痺れや色覚の失調などがある。
澪のときの症状は3始まり……緊急な処置が必要な、後遺症のないもの。
最大で6まであり、6はたとえ存命であろうと二階級特進と退役が約束されている。
ショック症状があったという事実に、澪は口を引き結ぶ。
拓也と顔を見合わせ、どちらとも曖昧に笑った。
この不安定な安堵は、同じパイロットでなければ分からない。
と、
「久しぶりだな、隼人!」
キンキンと高い声が荒っぽく叩きつけられた。
振り返って、こちらを驚きの表情で見ている整備士を確認する。彼の視線は、俺と、俺の下とを行き来していた。
視線を下げる。
金色の毛玉が左右に房を垂らして揺れていた。
あ、いや違う。
金髪の女の子だ。
ツインテールに髪を縛って、新雪に苺の汁を落としたように、白い頬を紅潮させていた。
金髪童女は眉をひそめ、青い瞳に苛立ちを宿らせる。
「隼人、なんだオマエその顔は? まさか、あたしを忘れたとは言わせないぞ」
ゾッ、と。
冷たい手が床から背中をつかんで、奈落に引き落とそうとされている気がした。
不安と恐怖が指先まで満ちる。背筋が寒い。
――誰だ?
「いや、しかし赴任先にオマエがいるって知ったときはびっくりしたぞ。この基地はずいぶんだな! あんな戦艦みたいな船でないと来られないって、あり得ないぞ」
浮かれたように語る姿に、恐怖が募る。
生まれてから今までを脳みその裏側まで爪を立てて検索しても、かすらない。絶叫しそうになった。
坂道に溢れる下町の住宅街に金髪童女の景色なんて何一つない。見かけただけでも、忘れようがない!
俺は、
この娘を、
知らない!!
「隼人、この子は? 隼人のこと知ってるみたいだけど」
澪がそっと俺に手を添えて尋ねてくる。
「なんだ、お前こそ誰だ。はやとに馴れ馴れしいな」
顔を歪める童女が確信的に断言し、俺はひとつ誤解を知る。
澪は俺を支えるなんて健気なことはしな痛い。腰をつねらないでほしい。
というか、仮にこの珍しい童女と知り合いだったとしても、澪に責められる謂れはない。
ないはずだ。
はずだが、何故かちょっと自信がない。
金髪童女はムキになったように、ガーと威嚇した。
「おい、まさかほんとにあたしを覚えてないのかっ? よく一緒になっただろ! 修了式以来だろ!」
おや? と思った。
胸に牙を立てていた不安が消える。
「修了ってまさか、練兵の?」
「もちろんだ。厚木の練兵施設で同期だったぞ、学籍番号256番!」
俺の出身と学籍番号を知ってるってことは、確かに同期かもしれな痛い。
澪が圧を高めたが誤解だ。俺に後ろ暗いところはない。
練兵施設は概念としては職業訓練学校が近く、同期でも年齢が離れていることは珍しくない。
拓也を見た。同じく練兵同期の彼は目をしばたいていた。
「確かに同期だったのかもしれない。けど練兵施設は厳しく男女を分けられてただろ。なにせ、無用に挨拶するだけで罰則だ。そんなんで異性に知り合いなんてできるか。……あれ、女の子だよね?」
「あたりまえだっ! みてわかれっ!」
蹴られた。
なんだこの理不尽。
金髪童女はたたみかける。
「練習試合でよく相手になっただろ!」
「いや、あれ互いに相手は明かされなかったぞ」
試合前後、機躰の乗降を見ていれば分かったかもしれないが、よっぽど執着しないと無理……あっ、童女が気まずそうに口を歪めている。乗降を見てたらしい。
「でもっ! ビバーク演習で同じ組だった!」
なおも食らいつくが、
「無人島まるごと使った演習だったろ。何十人もいたし、滅多なことじゃ機躰から降りなかった」
例外は、飲み食いしたモノを出すときくらい……あっ、童女が顔を真っ赤にしている。
マジか。見られたのか。
…………マジで、見られたのか?
金髪童女は持ち直して俺を指差す。
「さ、最後一週間の総合演習! 成績の掲示は全員総合だった! 七回とも隣で見たんだぞ! 結果は私が七戦三勝!」
「同期全員の総合だっただろ。あの人混みで隣を特定する方が無茶だ」
仮にこの子が正しいとして、俺はその七回ともを逆隣の拓也と話しながら見ていたことになる。
というか七戦三勝って、俺に負け越してるんじゃないか。
「ところで、そのどれか一回でも俺に話しかけたか?」
「うっ……」
童女は露骨に狼狽した。
「話しかけて……ない……」
澪が何事もなかったかのようにツナギの埃を払っている。誤解が解けたようで何よりだ。
冷えきった胸から溜め息が溢れ出る。
俺は単に、本当に彼女を知らないだけだった。「奪われた」わけではなかった。
あと、覚えてるフリをしなくて心底よかった。
「話しかけてないぃ……」
童女はうつむいて声を震わせる。
様子がおかしい。
「うえぇぇぇ!」
泣いたっ。
「話しかけられなかっらんあもん! 話しかけたら罰則らし、みんら怒るんあもん! 話しかけられるの待ってらのいヴェエエオアアアォ」
最後もう言葉が崩壊して咆哮みたいになってる。
「待て、落ち着け。泣き止むんだ」
いや俺が落ち着け。泣き止めと言って泣き止む子どもがどこにいる。
ふわりと花のような残り香が薫った。
澪が童女の隣に屈み込む。
「髪、綺麗だね」
「……えぐ。おま、ひっく。なんだ、おまえ」
しゃくりあげながら、童女は胡散臭そうに澪を見た。
澪は軽やかに、にこり。
「隼人の友達」
ふぇ、と涙を溜めた顔に、ぐいとタオルを押しつける。童女の涙やら鼻水やら涎やらをぐいぐい拭いながら、
「隼人とはこの基地に来てから仲良くなったんだ。私は澪。ね、あなたの名前は?」
「うぶ、ううぅ……アンジェリカ。アンジェリカ・アンジェリカ」
何故か三回唱えた。
澪が俺をちらと見る。
――あぁ、なるほど。
俺は勘違いをしたらしい。
澪はアンジェリカに笑いかける。
「アンジー? 覚えられてなかったくらい、泣くことじゃないよ。この基地に配属されたんでしょ? これから仲良くなればいいじゃない」
「ぐすっ……うん」
言葉巧みな慰めに、こくり、とうなずくアンジェリカ。
こちらを窺う二人の視線に応じる。
「えーと。自己紹介はいらないのか。改めてよろしく、アンジェリカ」
アンジェリカは目を丸くして俺を見た。碧い瞳がスノードームのようにくりくりとまばゆい。
差し出した手を、アンジェリカはじろじろと見た。
たっぷり間を取ってから、
「ん」
アンジェリカの細い手が俺の手を握った。
乱暴に振って、握手を切られる。
……仲良くする気、ないんじゃないか?
アンジェリカはパッと笑顔を華やがせ、澪に振り返る。
「澪! オマエいいやつだな! オマエも仲良くしてほしいぞ!」
澪は優しく微笑んで、首をかしげた。
「んー……それはちょっと嫌かな?」
「えっ!?」
アンジェリカと俺と拓也、そして盗み聞きしていた整備士たちの声がかぶった。
澪の指が、悪戯な笑みを見せる自身の唇を撫でる。
「だって私、隼人のこと好きだから。隼人と仲良くなりたいって言うライバルとは、仲良くできないかなーって」
「好っ、うっ!? えっ!?」
アンジェリカは茹でた蟹より赤い顔で、ぶわさぶわさと首を振る。金髪がでんでん太鼓のようだ。
ほわっと笑みを緩めた澪が、アンジェリカを抱き寄せる。
「うーそ! 冗談! こちらこそ仲良くしてね、アンジー!」
「うぇ、おうっ、おうっ……」
紅潮しすぎて目を潤ませているアンジェリカは、澪の対応どころではなかった。
恋愛沙汰にまったく免疫がないらしい。
「モテモテだな、隼人」
「うるせぇ」
からかう拓也の手を肘で払う。
俺も他人のことは言えない。
冗談って、一体どこからが冗談なんだ?