第四話:『切断』
俺はミスをした澪を責めなかった。それはまったく単純な話だ。
「澪が無駄にへこんでたからだよ」
実力もある、信頼もある。ただ条件とコンディションと運が悪かっただけ。
それを死にそうなほど悔やんでいる人間を恨めるほど、俺はシンプルな性格をしていなかった。
今の澪が、にっこり笑って言葉を継ぐ。
「『分かったらしゃんとしろ、へなちょこ整備士』」
あのときは、こんな憎まれ口を続けたわけだ。
いや、もうちょっと続いたはずだ。
「『整備サボんなよ、お前の仕事だろ。お前が触った場所は動きがいいからすぐ分かるんだよ』『体調管理くらい自分でやれ。お前が疲れてるとまた俺が死にかけるだろうが』『今回は遭難で済んだからよかったものの、怪獣とかち合ったときに機躰がベストじゃなかったらどうしてくれる』」
「わかった。もうやめてくれ」
多分だが、確かに俺が言った言葉だろう。
澪は綺麗に小さく笑う。
「……全部覚えてるよ。隼人が私にぶつけてくれた、悪口になってない悪口」
文句を言う筋合いのある被害者当人から、もっと仕事をしろと罵られ、澪は意気を取り戻したというわけだ。
一番の被害者である俺が、澪と隔意なく接する以上に、彼女の自信を思い出させる方法はないと気負っていたのだ。
「隼人は正しかったと思うよ。隼人が食堂にまで着いてまわって執拗に憎まれ口を叩いてくれなかったら、私こんなに勉強しなかったもん」
「執拗とは言ってくれるな。檄を飛ばすためだったんだぞ」
「どうかなぁ? だんだん本気になってた気がするんだけどー?」
「実際のところその通りだけど、悪いとは言わせない」
悪口を冗談にできる相手というのは、かなり希少だ。
澪をクスクスと肩を揺らしている。
さておき、同僚と一緒の席に着けなかった澪に相席するような一連の交流は必要だった。ちょっと執拗だったかもしれないけど。
「昨日は悪かったな。故障帰投になっちゃって」
「そんなことで、いちいち謝らないでよ。怪獣と交戦したのは、隼人のせいじゃないでしょ」
澪はわざとらしくむくれる。
それと、と言って付け足した。
「隼人が戦闘後すぐ帰投したから、機躰はそんなに傷んでなかった」
そう語り、瞳の裏で機躰の状態を思い浮かべているような表情をする。
もうすっかり一人前の技術者だ。
慣れてきた彼女が憎まれ口を返すようになったころには、着任当時以上の彼女になって復帰を果たした。
ばかりか、今や『雪虫』一機の整備主任を担うまでの躍進を遂げたのだ。
ただし。
「そういえばさ」
代償も、ないではない。
澪は頬を押さえて、可愛く小首を傾げる。
「最近、隼人が憎まれ口を叩いてくれないよね……。ちょっぴり、寂しいな?」
自分の容姿を熟知した女の子特有の、薫るような誘惑。
辟易する。
「お前がそんな搦め手を使うようになったからだろ。卑怯だぞ」
ふふふ、と澪は鈴を転がすように笑う。
誤魔化すように、物寂しい観測台を見渡した。
「南極に飛ばされて、もう半年だな」
「飛ばされたんじゃなくて、一応、栄転だよ。人員不足で宛がわれた隼人たちって、けっこう幸運なんだから」
澪はやんわりと苦笑する。
南極基地が左遷に使われそうな僻地なのは間違いない。
相変わらず人の訪れる気配もなく、静けさだけが降りている。
この観測台は夏のほんのわずかな期間だけ使われる。
天体観測の他、捕捉した怪獣の直接視認も目的とした施設だ。
当初の予想より遥かに使用頻度が低く、怪獣技術の導入に従ってその意義は低迷の一途を辿った。
吹雪が収まらないこの冬に至っては、ついぞ利用されることなく半年間を過ごすことになる。
完璧な断熱と空調の行き届く基地でほぼ唯一の、不完全な、肌寒い空間。
見捨てられた部屋。
にも関わらず、
「――懐かしいね」
澪はポツリと呟いた。
そう。
澪がこの観測台に逃げ込むのは、遭難の件が最初だったわけでも、まして最後だったわけでもなかった。
新しく導入された技術が、うまく覚えられないとき。
偏見に邪魔されて、自分の意見が通らないとき。
郷愁に誘われて、どうしようもないとき。
誰かがショック症状で倒れたとき。
何度も澪はここに逃げて孤独に浸っていた。
放っておけなくて、俺もその傍らで彼女に付き合った。
慰めるのでも、励ますのでもない。そんな器用な性格じゃない。
覇気もなければ意味もない、取りとめもない繰言を交わしただけ。
それでも、俺と澪が同じ空気を共有した場所には違いない。
肩をすくめて、今この場にいる澪に笑う。
「昔は、お前にも可愛いげがあったのにな」
「今のほうが可愛いでしょ?」
「さて、どうだろう?」
澪は「むうっ」と膨れてみせる。
かつての彼女からは想像もできない姿だ。
「そうだ、返すの忘れてた」
彼女に小さなタッパを渡す。
コックピットの小物入れにちょうど入る採寸。
「差し入れ、ありがとな。美味かった」
まるで秘密にするように、澪は声もなく笑う。
こんな笑みを向けてくれるようになったのは、いつからだっだろう。
手元のカフェオレを口にして、それがすっかり冷えきっていることに気づく。
「そろそろ戻ろう。体を冷やすとよくない」
「ん……そうだね」
立ち上がる澪を見て、今さらといえば今さらな疑問に気がついた。
「そういえばお前、なんでこんなところにいたんだ?」
澪は少し目を丸くして、
狐が化けた女のように、蠱惑的に唇を緩ませた。
まただ。
拗ねたように唇を尖らせ、爪先で床を踏む。
「たまには、二人きりになったって、いいでしょ?」
上目遣いに俺を窺う。
分かっていても、脳髄の奥がしびれるような甘い一撃。
「勘弁してくれ」
白旗に逃げる以外に、どんな対処法がある?
俺のさぞ情けないだろう顔に溜飲を下げて、澪は自然に笑いをこぼす。
その笑みに俺は安心する。
ふと、澪はそんな笑みの色合いを変えて目を伏せた。
「隼人は、もうちょっとひどい人だったらよかったのにな」
「なんだそりゃ。被虐嗜好か」
「だとしたら、今の言葉で満足です」
すっぱりと言って、澪は俺の脇をすり抜ける。
「隼人は優しいからさ……私は怖いよ」
なんだそりゃ、ともう一度は言えなかった。
立ち去る澪の背中を目で追う。
……俺は、澪を虐めるようなことを言ったのか?
――疑念が泡のように弾けた。
視界に天井が広がる。
平衡感覚が崩壊した。
三半規管を意識から蹴り出す。目だけを動かして辺りを探った。
四方を覆うカーテン。安眠させる気のない薄いベッドと固いシーツ。棚を兼ねたサイドテーブル。埃っぽさに混じる消毒液の臭い。
横合いから澪の顔が俺を覗き込んできた。
「目が覚めた?」
心配そうに曇っていた澪の柳眉が、和らぐ。
どうやら俺は医務室のベッドに寝転んでいるらしい。頭痛とともに平衡感覚が戻ってくる。
思い出してきた。
明くる日、哨戒任務に就こうとして、ショック症状に見舞われたのだ。
じゃあ、さっきの会話は――夢か?
どこからが?
「どれくらい寝てた?」
頭を抱えて起き上がる俺に、澪は春風のような微笑を見せた。
「十五分よ、ねぼすけさん」
澪は踊るように立ち去る。軽やかに基地の床を踏んで。
俺もベッドから降りようとして、ふとベッドサイドに気が引かれた。
サイドテーブルの隅に、小さなタッパが置かれている。
澪の差し入れ。
底の窪みに入れられた紙片を開くと、『前回のリベンジ』と記されている。
夢に……いや。
『記憶』と同じ、ひたすら酸っぱいラズベリージャムのクッキー。
ふいに、自分の肉体を見たときの、体感覚がごっそり抜け落ちた感触が蘇る。
ほとんど無意識にかじった。
甘い。
酸味の爽やかな、甘いクッキー。
胸をかきむしりたくなるような安堵に襲われて、ベッドに頭を突っ込む。
よかった。
夢じゃない。
覚えている。
まだ、俺には俺の記憶がある。
「けど……リベンジ成功はしてないな」
笑みが込み上げる。
今度の差し入れは、泣きそうなくらいに甘かった。