第二話:幻影<ノイズ>
機躰が跳ね回る。
ヘルメットを保持器にぶつけながら、計器が振り回す針に合わせて親指のパッドをかき回した。減速を和らげる方向にジェット噴射を保つ。
万が一機躰がひっくり返り、ジェットが急減速となれば、待っているのは死だ。
亜音速からの急停止は、たちまち膨れ上がるGにより、身体を守るベルトが刃と化して俺の肉体を八つ裂きにする。
数値の上では、最小限の減速。
バリバリと氷を砕く音が反響する。
計器によれば、機躰は除雪車のように雪をはね除けながら頭でスケートをしているらしい。
確かに頭に血が上っている気がする。平衡感覚は遠い。
グリップを引き上げた。
機躰の腕が氷の地面を叩き割り、身体を空中へ舞い上げる。
たちまち吹雪に包まれ、ノイズが全身を包み込む。
再び肉体を失った巨大なノイズは、雪の向こうを風よりも早く駆けている。
まさか、は杞憂に終わったようだ。
あれが噂の『GZ型』なら、反応は今の比ではない。それどころか、先の一撃で機躰がひしゃげていただろう。
しかし、安心できる要素は一つとしてない。
ノイズの塊に足を乗せる。
ずばあ、と凄まじい衝撃に機体が揺れ、もともとない視界が舞い上がる飛沫に覆われる。
舌打ちが漏れた。
「スキーがない」
攻撃によってか、転倒の衝撃かは分からない。だが事実として、雪上機動性が著しく損なわれた。
予備はあるが、この吹雪のなか戦闘機動を保ったまま履けるヤツがいれば見てみたい。
レーダーを見る。
全速で姿勢制御に専念したせいで、通信範囲から離れてしまった。拓也との通信が途絶えた座標が表示されている。
拓也が異常を認めるまでは、彼は巡航ルートを進むはずだ。そうしていれば、相手の位置は計算できる。合流は難しくない。
問題は、合流が合理的かどうか。そして可能かどうか、だ。
今度は分かった。
推進器を斜めに捻る。
バランスを失った機躰は、錐もみに回転しながら雪上から跳ね上がった。
雪の幕を破って、再び怪獣が牙を剥く。
その脇をすり抜けた機躰は、吹雪の空に呑み込まれた。
見えたのは一瞬だけ。ログを呼び出して解析させながら、視界の脇に表示する。
写ったのは、まさに怪獣。
魚のような細い顔に赤い複眼を三対備え、長いヒレと胴を持つ。後ろに流しているものは尾か足ヒレか判然としない。
この巨大なヒレを使って、ペンギンが水中を飛ぶように、これは吹雪を飛ぶのだろう。
まさに正しく怪獣だ。フブキウオとでも呼んでやろうか。
物思いに耽る暇もなく、吹雪に煽られて機躰が一回転した。
レバーがふるふると震え、エルロンに吹き付ける風の強さが伝わってくる。
ぐるぐると落ちる高度計の数値を見ながら、トリガーを絞ってグリップを捻った。背部にマウントされたアサルトライフルの一丁を、マニピュレータに握る。
機躰にしか扱えない特別製だ。厳密には銃火器ではない。
着地に伴って粉砕された氷雪を、握った銃で薙ぎ払う。
冷たく凍えた突撃銃は、雪を一挙に吸い込んだ。ラッチを閉めて薬室に弾を装填する。
ゼロ視界の中、吹き荒れるノイズに見える大きな幻。
「食らえ」
銃口を向けて、トリガーを弾いた。
密閉された薬室で起こる水蒸気爆発に押され、吹雪を貫き空気を穿つ。
放たれた銃弾は、氷。
氷柱の弾幕がフブキウオの顔面に襲いかかった。
ぐるりと身をうねらせ、怪獣は再び吹雪に消える。
氷を吐く怪獣の冷却器官を丸ごと搭載したアサルトライフルは、南極において無限の弾薬を得る。
とはいえ、氷を吸収する、あるいは氷を即座に溶かすような生態の怪獣には別の武器が必要だろう。怪獣に常識は通用しない。
「とはいえ、どうするかな」
バック走行のような形で、拓也のいるだろう巡航コースに向かう。マニュアル通り向かってはいるが、彼を巻き込んでもいいか図りかねる。
一人で倒せる怪獣かもしれないし、そうでないかもしれない。
二人なら倒せるかもしれないし、そうでないかもしれない。
逃げに徹すれば振りきれるかもしれないし、そうでないかもしれない。
怪獣に常識は通用しない。
どうしようもなく煩わしい、厳然たる事実だった。
レーダーに現れては消える幻を目で追いながら考える。
不確定要素が多い以上、拓也を巻き込まない方がマシだろう。少なくとも最悪のケースは避けられる。
つまり、拓也が犠牲になって俺は生き延びる、ということはない。
背後から、雪を蹴立てて巨大なノイズが迫ってくる。
銃口を向けて、しかしすぐに外した。
『大丈夫か、隼人!?』
雪の幕を突き破ってきたのは、双発のジェットで雪を巻き上げる鈍色の複合装甲。
拓也だ。
『お前馬鹿か!?』
怒鳴ってしまった。
勝手に巡航ルートを外れるのは、それほどの愚行だ。
通信はもちろん、GPSも道標もない雪原で現在地を見失えば、待っているのは遭難だけだ。
航路を遡って算出することもできるが、風向きや地形によって速度や位置が狂わされる。正しく記録されるほうが珍しい。
ましてや俺は、怪獣に吹き飛ばされてどこに行ったのか、そして巡航経路のどこへ向かうか、分からなかったのだ。
あのときの拓也の位置で、俺がはぐれた原因が分かったとは考えにくい。探しに出るなど、愚の骨頂以外の何物でもない。
『だけど、来れただろ。任せとけって、俺って神に愛されてるから。シャキーン』
吹雪の向こうから戻ってきた拓也の機躰は、顎に手を添えている。カッコいいのポーズ。
この無駄に見せびらかす妙な自信と、無駄に発揮される幸運が、拓也という男だった。
もはや呆れるのも馬鹿馬鹿しい。すべてのことが今さらに過ぎる。
『で、隼人。怪獣が出たのか?』
アサルトライフルを構える拓也に問われた。
ノイズの幻影が吹雪の向こうを泳いでいる。説明する暇も惜しい。
『風上から来るノイズを狙え』
言ったそばから、ノイズは身をくねらせて風に乗る。
もう一丁、マウントされている大型のアサルトライフルを構える。一息にトリガーを握った。発砲音は届かない。拓也も続く。
弾幕の十字砲火がフブキウオを削ぎ落としていく。
雪の幕を破って見えたのは、苦悶に身をくねらせ、ヒレを穴だらけにしたフブキウオの姿だった。
セカンダリトリガー。
左のアサルトライフルに付け加えられたグレネードランチャーから、粘弾が放られる。
それはフブキウオの体に張り付き、崩れ、内部に仕込まれた信管と撃針が触れあって、
計器が狂った。
自動制御がカリカリと唸る。
計器がくるくると巡って落ち着いていく。
尾を引いて消える複合装甲の残響。
一瞬だけ見えた曇天と黒い岩肌が、再び吹き込んだ雪に消えた。
計器が狂ったのではない。
爆発で吹き飛ばされただけだ。
機躰を起き上がらせる。
自己診断を走らせながら、目は爆心地、フブキウオを追った。
ヒレなどの肉片を散らし、えぐれた胴体を横たえさせている。降り積もる雪に身じろぎひとつしない。熱反応も瞬く間に引いていく。
どうやら絶命したようだ。
『いてぇー……爆破するなら言えよ隼人。で、怪獣は?』
『倒せたよ』
拓也の機躰は吹雪に消える。少し離れた位置に吹き飛ばされていたようだ。
常識的な怪獣で助かった。
フブキウオが飛ぶ仕組みは、鳥や飛行機よりも、ヨットのセーリングに近い。
強い吹雪に対して巨大な尾びれと背ビレを傾けて風を受け、足ヒレで揚力を得る。吹き荒れる吹雪は一定方向に吹き付けるわけではないから、蛇にも近い魚のような姿は合理的だったのだろう。
そして獲物が風下に来たときは、ヒレを広げて風のままに相手へ突進する。
これだけ分かれば、動きを読むのは簡単だ。
爆発で倒れた際に打ち付けたようで、左のエルロンが下がらない。動く分には問題ないが、帰投したらまた澪に絡まれそうだ。
予備のスキーに履き替えて、拓也に声をかける。
『機躰が不調だ。怪獣の死骸も持っていかなきゃならないし、哨戒はここで切り上げよう』
『おう、了解!』
のしのしと、拓也の機躰が吹雪を割って現れた。
彼にうなずき、グリップを動かす。
機躰が応じ、機械の腕を怪獣に伸ばす。
――暗闇の底。
――泡のような別世界がその真ん中をたゆたう。
――慌てて逃げる。辺りは冷えていく。凍えていく。体が強張り、目は潰れて、血が凍る。
『隼人? おい隼人!』
引きちぎるようにグリップを上げた。
振り上げた腕の勢いで、自身の機躰の姿勢が傾ぐ。
『危ねっ、なんだどうした』
拓也を無視してフブキウオを見る。
振り上げた腕を戻すことすら忘れていた。
横たわっている。冷えている。動かない。
生物としての一切の反応がない。間違いなく死んでいる。
『いや……なんでもない』
ようやく、グリップを捻りあげたままだと気づいた。
改めて、身体をつかむ。
機躰の腕はフブキウオの細長い身体をつかんで、ぐにゃりと持ち上げた。
――なんの問題もなかった。
『……よし、拓也。戻ろう』
『おう!』
スロットルを開け、基地方向に飛ぶ。
視界は白く閉ざされている。