第十四話:夢現
そこは白かった。
そこは赤かった。
そこは青かった。
何色ともつかない、離乳食にも似た思念のあぶく。
俺はもはや俺ではなかった。
俺は俺ではなく拓也だった。
俺は拓也ではなく澪だった。
俺は澪ではなくアンジェリカだった。
アンジェリカではなく、整備員ではなく、高官ではなく、父や母ではなく、俺の知らない誰かではなく、誰でもないなにかだった。
俺はなにかだった。
なにかが俺だった。
つまり俺は俺だった。
まさか俺は死んだのか? と思ったものだが、どうやらそうでもないようだ。
身体が絶縁体に阻まれたような、体感覚の不自然な消失。
この感触には覚えがある。機躰を自己に取り込まされたショック症状のときと同じだ。
俺は生きている。
たとえ思考が体と切り離されていたとしても、怪獣の脳と隼人の脳は物理的に異なる以上、その働きに対する影響はたかが知れている。怪獣の無意識に取り込まれる、というのは物理的にはあり得ないのだ。
俺はまだ生きていた。
認識を確かにすることで、落ち着きを取り戻した。
今までに聞いたことのない症例だが、これもショック症状に違いない。
俺はどうなっているんだ?
きめ細かな泡のようだった思念はざらつき、さざ波のようにむずがって、砂絵のような認識を浮かび上がらせる。
それは澪でありアンジェリカであり母であり整備員であり、今までに出会った誰かであり、未だ知りえない誰かであり、つまり誰でもない誰かだった。
彼女は俺の恋人だった。
あー。
この、細部のデティールを飛び越えて直撃する事実認識。
こういう現象には心当たりがある。
夢だ。
これは怪獣の見る夢なのだ。
恋人がふわふわと声をかけてきた。俺の返事を受けて、彼女は睦まじげに笑う。幸福感が胸の内で身をよじる。
雪虫の中に縛られた怪獣は、こんな夢を見て微睡んでいるらしい。
砂絵のキャンバスを揺らしたように、風景が崩れて手品のように別の景色が浮き上がる。
吹雪に閉ざされた暖かいバルコニー。……どうやら間違いなく夢らしい。
バルコニーには友人という概念が隣に座っていて、トランプに似たゲーム概念を楽しんでいた。
俺はサイドテーブルのグラスを取り、口にする。
味がない違和感を覚える前に夢は崩れ、また別の景色に移り変わる。
凍った湖で焚き火を囲む仲間たち。あるいは無機質な南極基地の私室。あるいは雪の色をした凪いだ海。
それらの夢には共通点があった。
全て俺に基づいている。
俺の記憶やイメージを材料に、夢見の砂場は作られていた。それ以外は存在しない。
怪獣は俺と接続する度に、俺を覗き見て、俺を通して世界を知って、俺の中身を得ていたようだ。
しかし不思議と、そこに悪意は感じなかった。
怪獣は、こんな幸福な夢の材料を、俺からすくいあげただけなのだから。
俺は自分がショック症状に見舞われた原因を思い知った。苦い気分が、虹色の砂場を侵食する。
今回ばかりは人為ミスだ。
あの整備員は澪の整備のなんたるかを、まるで理解していなかったらしい。
機躰とは、仮死状態の怪獣を素体に作り上げた、怪獣技術の集大成だ。
俺たちは怪獣に「接続」し、意識を刈り取った怪獣の生体器官を利用する。
優れた視細胞で外界を見渡し、繊細な聴覚細胞をレーダーに変換し、弱ってなお強靭な肉体で装甲を動かし、絞り出した生化学エネルギーで載せた装備を行使する。
この仕組みの特徴を、澪は最大限に活用して機躰のパフォーマンスを限界まで引き出した。
つまり、仮死状態の怪獣を、賦活寸前まで回復させ、保つこと。
怪獣を機械として扱えるまで枯殺する従来の手法と、正反対を目指している。
あの整備員は、自分の手に負えるまで怪獣を「殺し直す」のを忘れたのだ。
そのせいで、高い意識レベルにあった怪獣が見る夢に、接続した俺も引きずられた。
恨めしいが、憎むべきかは悩ましい。
ざらついた景色が流れていく。
恋人が笑う。
幸福の概念を丹念に繕うように、怪獣は幸福な夢を見る。
きっと枯殺剤を投与されていたら、この怪獣は生命を保つだけで精一杯で、夢を見ることすらなかっただろう。
望外にもたらされた絶好の機会を、怪獣は無分別に幸福な夢を見て費やしている。
もしかしたら、アンジェリカもこの夢を見たのかもしれない。彼女が一途なほどに怪獣を信頼するだけのものがここにはある。
怪獣は食事をしない。
怪獣は繁殖しない。
怪獣は群れを作らない。
彼らには知性も自我もなく、高度な脳器官がありながら思考することはなく、故に善意も悪意も存在しない。
怪獣は生きていた。
ただ生きているだけで、ただ生きていたいだけなのだ。
怪獣の無為な夢に洗われていると、不意に。
――ごっは!?
声が出たかどうかわからない。
見れば、心臓が杭に貫かれていた。
パイロットスーツを破って生々しく突き出た鉄の杭は、ゆっくりと体から這い出ていく。
太さを増し、再び体内に飛び込んだ。
――があぁ!?
心臓が内側から潰れる。全身のあらゆる血管が破裂寸前まで膨れ上がる。
気が狂いそうな赤い視界の中、錆びた杭は再び胸からまろびでた。
それはさらに太さを増し、腕ほどの巨大さになって胸に先端を向ける。
穿つ――
「――ぐあっ、が、ハッ! ふっ、げふッ、がふッ!」
全身の筋肉がめちゃくちゃに緊縮し、魚が跳ねるように体が飛び上がった。
呼吸の仕方を忘れている。吸っているのか咳き込んでいるのか、自分でも分からない。
「やった、生き返った! 生きてるぞ!」
周囲で誰かが快采をあげた。
歓声を聞いて、少しずつ自我と体感覚と自律神経が戻ってくる。
俺はハンガーに寝かされていた。
吹き出した脂汗がスーツにじとりとした水溜まりを作った。指先がやたら寒い。
通電した衣類の焦げ臭さが、ハンガーのこすれた金属の臭いに混じる。
全身の筋肉が痛い。
傍らに立ち尽くしている機躰は、コックピットを開け放たれていた。
俺は担架に寝かされ、水色の胴衣を着た衛生兵が隣に着いている。
彼は満面の笑みで、さも嬉しそうに俺の肩を叩く。
「よかったな! ショック症状で心肺停止だったんだぞ、お前! いや、本当によかった! せめてこの艦の乗員だけでも無事でなきゃあな!」
咳をぶり返しながら、彼の言葉を咀嚼する。心肺停止?
つまり隼人は死んでいたらしい。
であれば、直ちに接続を断たれて救命処置が取られたのだろう。電気ショックで無理やりに心臓を絞るのは、もしかしてあんな感じなのだろうか。
しかし、ではあの夢は?
単なる走馬灯かもしれない。
だが、それにしては少しばかり奔放すぎた。
俺はあれを、怪獣の夢だと決めた。誰かに相談することではないし、真相がどちらだろうと意味はない。
数秒の夢を何時間とも感じることがあるように、怪獣の夢もまた、接続の狭間に見た一炊の夢だったのだろう。
ごうんごうん、と地割れのような響きが船底から上ってくる。砕氷船はすでに出航した後だ。
もう一度衛生兵の言葉を胸に繰り返し、
――せめてこの艦の乗員だけでも、と口走ったことを思い出した。
立ち上がろうとする衛生兵の胸ぐらを捕まえる。
「うわっ!」
「二号丸は? 何かあったのか?」
「基地の崩落に巻き込まれたのさ」
別の声が答えた。
やつれて嗄れたその声は、聞き覚えがあるはずなのに、振り返って顔を見るまで分からなかった。
「――拓也?」
「お前が寝てる間に、GZ型は俺を追い越して基地に向かった。吹雪で見えなかったけど、基地に何かやって、ぶっ壊した。……積雪でハッチが開かなくて立ち往生した二号丸を巻き込んで」
疲れきった顔に暗い色を落として、拓也はうつむいている。
二号丸が基地に埋まった? GZ型に襲われて?
「乗員は? 連絡は取れないのか? 砕氷船って言っても、これは戦艦みたいなもんだろう。天井が落ちたくらいでダメになるような造りじゃない」
だが、拓也は首を振る。
「連絡は取れた。そのときは無事だった。今はもう、離れすぎた」
声が遠い。
ごうごうと吹き付ける吹雪に、艦載装置が軋む甲高い音が伝わる。
しかし、それだけだ。
GZ型の足音も、それと戦っているだろう特殊部隊の銃声も、何一つ聞こえない。
閉ざされた世界は、どこまでも全てを拒絶していた。
「くそっ」
機躰の足をつかんで立ち上がる。
腰が抜けたように足に力が入らない。自分の重心がどこにあるかも分からない。
装甲の窪みに取りすがるのが精一杯だ。
衛生兵が慌てて俺の肩を支えた。
「おい、どうする気だ?」
「出撃する」
「その体じゃ無理だ! お前の体は死んでたんだぞ、完全に! やめておけ、誰も責めはしない!」
誰が責められることを怖れるものか。
近寄ってきた拓也も、俺の腕をつかんだ。
息を呑む。
彼の指は全く力が入っていない。
「大丈夫だ、怪獣は何かに執着することはない」
背筋が凍った。
拓也らしくない、噛んで含めるような切実な懇願でも、慰めるような露骨に白々しい言葉でもない。
彼の指は、ただ俺の腕に添えて震えているだけだ。
「特殊部隊が気を引いているんだ。二号丸には機躰が何機も残っていた。ほとぼりが覚めた頃に、ゆっくり瓦礫を退けて出てくるさ。だから、」
お前まで無理を通すな。
拓也は絞り出すように言う。
彼は疲れきっていた。
遠征任務の長時間運用でも、GZ型の追跡という命懸けの大事業でもない理由で。
間違いなかった。
――長時間接続に伴う、発作的なショック症状。
拓也は他人の体を動かすようにぎこちなく、俺の手を機躰から引き剥がす。
体重が足に掛かった途端、膝が崩れて俺の体は座り込んだ。
まるで他人事のようで、呆然とした。
自力で立つことすらままならないのだ、今の俺は。
機躰の装甲を背中に感じた。
澪の存在を残していない、粗末で劣悪な機躰だ。もう接続する余地があるかも分からない。
絶望的だった。あらゆることが。
吹雪の真ん中に取り残されたような気分だった。